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十一月二十三日――泡沫人のうせもの

 春には淡いピンクの花をいっぱいにつけて誇らしげに胸を張る河川敷の桜が、今は夕日の最後の一片を受けて鮮やかに燃え上がっている。アスファルトにのびる僕と死神の影も、橋を渡っていく見知らぬ人の頬も、痩せた野良犬の瞳も、汚れた白い街灯も、みんな夕日の色に染まっていた。黒々とした川面だけが黄金色の光のかけらを浮かべている。この瞬間に世界が終わってもおかしくないな、と僕はおかしな感想を抱く。

 この場所に来れば、何かが変わると思っていたけれど、僕はやっぱり僕のままで、昨日川に落としてしまった記憶は浮かび上がってきてはくれなかった。

 背後に立っていた死神が、音もなく隣へやって来ていた。川面で踊る光に目を細めて、囁くように言う。

「残念ですか?」

「……はい」

 そう。残念だ。僕は錆びついて塗装が剥げ、元の色が分からなくなっている手すりを掴んで、少しだけ身を乗り出してみた。そのまま肌がはりついてしまいそうなくらい冷たい。じんじんと痺れていた手のひらはやがて、何も感じなくなる。死んだらこんな感じなんだろうか。

「でも、ちょっとだけ、ほっとしています」

 最悪、また川に飛び込んでしまうと思っていた。もし、自分が一度川に飛び込んだ理由を思い出したのだとしたら、今の僕が耐えられるとは思っていなかったからだ。

 何も思い出さなくてよかった。でも、手がかりがないのは痛い。

 情けないやらほっとするやらで黙り込んだ僕を、死神は何も言わずに見つめていた。それでも、やがて空全体に群青色の幕が下り、街灯がおっくうそうに瞬きをしはじめるまで、ずっとそばで立っていてくれた。

 骨のように白い月が顔を出すころ、僕はやっと手すりから体を離した。むき出しの首筋を冷たい風が撫でていく。僕が昨日ここから飛び降りたのは、ちょうど今くらいの時間だろうか。ゆっくりと辺りを見回していた死神に尋ねると、彼はスーツの胸元から銀色の懐中時計を取り出して頷く。

「午後五時四十四分、三、二、一……今です」

 懐中時計をしまいながら、死神が溜息をついた。

「午後五時四十五分ジャスト、貴方はここから飛び降りました。そういえば」

 死神はあごに手をあてて呟く。

「澪さん、時計を失くしませんでしたか? おそらく腕時計のようなタイプではなく、私の時計のように身体に固定されないタイプのものを」

 僕は自分の左手首を見た。中学に入学した時から愛用している、シンプルなデジタル腕時計だ。記憶が間違っていないか急に不安になって、束の間頭の中にある引き出しをひっくり返してから、首を横に振る。

「僕が持っている時計はこれだけのはずです」

「家にも、ですか」

「はい」

 死神は僕の腕を取って念入りに時計を観察し、何かを確かめると、またあごに手をあてて考え込む。

「そうですか。昨日貴方を監視しているとき、貴方は時折手元を確認していた。飛び降りた時間も午後五時四十五分ぴったりだったので、てっきり時計だと思い込んでいたのですが、どうやら勘違いだったようです」

 もしかしたら勘違いではないかもしれない。なにせ、僕は何も覚えていないのだから。持っていたはずの時計の記憶ごとすっぽりと抜け落ちていても何の不思議もない。むしろ、死神の勘違いよりもよほど可能性が高いように思える。

「冷えてきましたね。戻りましょうか」

 ぶるりと大きく身を震わせて、死神が歩き出す。僕は深呼吸をし、もう一度川面に目を凝らし、あのとき死神が立っていたあたりを見つめて、それから彼の後を追いかけた。ふいに吹いてきた風が、死神の古ぼけた仕事鞄をかたかたと鳴らした。

 行きはあれだけ時間のかかった道も、帰りはほんの六十分ほどだった。死神はすっかり背をまるめて歩いている。寒いのが苦手なんだろうか。意外な弱点だ。

「御両親、まだ帰っていないようですね」

 鍵を手にドアに手をかけた僕を見て、死神が言う。

「はい。いつも日付が変わるころになると帰ってきますから」

 薄暗い玄関はひどく寒々しかった。家人がいないことを承知した上で、ただいま、と小さく声をかける。返事が返ってこないことなんて当たり前なのに、そのことが我慢できないくらい寂しかった。おかしい。いつもはこんなこと考えもしないのに。

 知らず知らず唇を噛み締めていると、背後から死神の暢気な声が聞こえた。僕の家族に自分がいることを隠すためなのだろうが、靴を革手袋の指にひっかけるようにして持っている姿は、死神というよりもコソ泥である。なんとなく力が抜けた。

「夕食とか、どうしているんです?」

「小さかったころは店屋物で済ませていたんですけど、不経済なので最近は自炊しています」

 途端に死神の声のトーンが上がった。

「つまり、今からつくるんですね?」

「はい」

 僕の家で食べるつもりだったのか。まったく油断ならない。

「リクエストさせていただいてもよろしいでしょうか」

「出来るものなら」

 出来るものならやってみろ、ではなく、家にある食材で出来るメニューであれば、という意味だ。

 僕は自分の部屋に行くのをやめ、廊下の途中にあるリビングに入った。リビングとキッチンは一続きになっているので、台所に直接入るための別のドアから入るよりも、突っ切ってしまったほうが早い。『食卓とリビングは近いほうがいい』、母の提案だ。その母と最後に食事をしたのはいつだっただろう。

 明かりをつけて冷蔵庫を開ける。にんじん、じゃがいも、ねぎ、キャベツ、レタス、大根、牛肉、豚肉……。床の隅に置かれた段ボール箱には、先週祖父母が送ってくれた、たまねぎとさつまいもがどっさり入っている。

「黒いシチューなるものが食べてみたいのです」

「それなら出来ます」

 幸い、我が家には圧力鍋がある。一時間もあれば準備が終わるだろう。僕は上着を脱いで椅子にかけると、丁寧に手を洗ってから冷蔵庫を開けた。





 じっくり煮込んだビーフシチューは、我ながらなかなかの出来だった。聞けば、死神は白いシチュー、つまりクリームシチューは何度も食べたことがあるものの、黒いシチュー、つまり今日僕がつくったようなビーフシチューは食べたことがないのだという。恐る恐る圧力鍋に顔を近づけては、匂いをかいでみたり、その色を見て目を見開いたりとそわそわしていた。夕飯にでてくる大好物が待ちきれない子供みたいだ。人間の生死を監視する死神がちょっと可愛らしく思えてきて、僕は自分に驚いた。

 冷蔵庫の奥に眠っていた賞味期限のあやしい生クリームをちょっぴりたらして、テーブルにサラダボウルと一緒に並べる。パンは軽く炙った。両親が食パンよりも好んで食べるので、我が家にはバケットが常備してある。

 いただきますと言うが早いが、死神はスプーンを手にとってビーフシチューをすくった。僕は死神の反応をどきどきしながら待つ。冷静を装ってレタスを口に入れたけれど、味は全然分からなかった。

 死神はじっくり味わったあと、続けて二、三口スプーンを口に運んでにっこり笑った。

「美味しいです。澪さん、見かけによらず料理が上手ですね」

 純粋にものすごく嬉しかった。一言余計だったけれど。

 頬が緩むのをおさえられなかったので、誤魔化すために慌てて自分もビーフシチューを一口。懐かしい味だった。思わず鼻の奥がツンとするくらいに。

 軽く炙ったバケットはあたたかくて、やわらかかった。ずっと外を歩いていたせいで、自分でも気付かないうちに体が冷えきっていたのだろう。食べていくうちに、だんだんとお腹の底からぽかぽかしてくる。

 この日、僕は久しぶりに笑いながら、誰かと食事をとった。死神も相変わらず革手袋をはめたままで何杯もビーフシチューをおかわりした。こんなに楽しいなら、美味しいなら――幸せだと思えるなら、あと一週間で死ぬのも悪くないかな、と少しだけ思った。

 




 良くも悪くも、僕の最後の一週間は転がり始める。きっかけは些細なことだった。

 食後の片づけが済むと、僕はテレビをつけた。ニュース番組にチャンネルを合わせる。日課というよりは、いつの間にか癖になっていることだ。いつもと同じキャスターが淡々と原稿を読み上げていく。


『――高等学校の裏手にある山で、この学校の生徒と見られる男性の遺体が発見されました。遺体は死後一日から二日ほど経過していると思われ、警察は――』


「あ――」

 それ以降の言葉は耳に入らなかった。手からすべり落ちたマグカップが床をはねて、か細い悲鳴を上げる。熱湯に近いココアが靴下ごしに肌にかかったけれど、何も感じなかった。死神が僅かに眉をひそめて僕を覗き込む。

「澪さん?」

 奇妙に煙たい空を背負って立つ灰色の校舎も、物々しい黄色のテープがはられた校門も、裏手にあるこぢんまりとした山も、すべて見覚えがあった。

 僕の学校だ。

 呆然と画面を見つめる僕の耳元で、死神が「失礼」と呟いたのが聞こえたような気がする。視界が白く浮き上がり、頭の中までもやで満たされていくようだ。なす術もないまま、かたちにならない考えや感情がもやの奥へずぶずぶと沈み込んでいく。

 足に何かが触れた感覚で、ふと我に返った。ニュース画面はとっくに切り替わり、コメンテーターらしき白髪の男がプロ野球の勝敗を熱っぽく語っている。

「軽いやけどになっていますよ。一体、どうしたのですか」

 そう言いながら、死神は冷凍庫から持ってきたらしい氷の塊を僕の足に当ててくれた。氷に冷やされた傷は神経の芯に響くほど痛いのだけど、頭の中ではその痛みすらどこか他人事のようで、脳の中枢までのぼっては来ない。

 死神は無言だった。僕は無意識のうちに手を伸ばして転がったカップを掴むと、手のひらで包み込むようにして持つ。とうに冷えきっていた。

「僕の、学校だったんです」

「それで?」

 僕の足元に座っていた死神が、顔を上げる。

「貴方の学校の裏手で男子生徒の遺体が発見された。死後一日から二日……彼が亡くなった時期は、澪さんが自殺しようと考えたであろう時期ともあう。彼が澪さんの自殺の理由であったと仮定しても矛盾はありません。でも」

 ぴん、と立った人差し指が、まっすぐにリビングのライトを指した。僕は死神の瞳を見つめてみたけれど、何も読み取ることは出来なかった。濡れたように光る黒は、呑み込むだけで何も映さない。

「矛盾がないだけで確証もない上に、無関係である可能性だって十分にあるのですよ。貴方の反応は少し過剰すぎる。気が張りつめているだけでしょうか。しかし、もしそうでなければ……」

 死神はその先を言わなかった。伏せられた長い睫毛が、色白の頬に不吉な長い影を落としている。

 僕らは死神が持ってきてくれた氷がみんな溶けてしまうまで、ただ黙っていた。死神はぼんやりと焦点の霞んだ瞳で何かを見つめている。その横顔は、何かを考えているようにも、何も考えていないようにも、怒っているようにも、泣いているようにも見えて、掴みどころがない。僕はそんな死神の顔を見るともなく見ながら、彼が途中で切ってしまった言葉の続きについて考えた。

 気を張りすぎているだけなら、単に過剰に反応しすぎてしまったのだ、ということで済む。済むのだけれど。

 頭の中のもやを吹き散らすように、胸のつかえを吐き出すように、大きく息をつく。

 でも、そうでないことは自分が一番よく分かっていた。僕は死神に小さくお礼を言って立ち上がり、カップを流しに置く。冷えたキッチンの空気が肺を刺した。

 どうしても他人事のような言い方になってしまうのだが、なんというか、僕がニュースを聞いただけで受けたショックはあまりに大きすぎたのだ。

 『びっくりした』のではない。僕はあのとき、ほとんど反射的に『見つかった』と思ったのだ。ああ、見つかってしまった、と。

 どうしてそんなことを思ったのか、正確には分からない。でも、だからこそ、怖くてたまらなかった。油断すると悲鳴がこぼれてしまいそうで、下唇をぐっと噛み締めたら、蛙みたいに押し殺されて潰れた声が滴り落ちた。

「澪さん」

 気付けば死神が僕の目を覗き込んでいた。死神の外見の年齢からは想像も出来ないほど深い、深い黒。あの川面とは似ても似つかない、月のない夜空の色だ。

「死のうとした理由を知らなくても、貴方は一週間後に死ぬんですよ」

 ごわついて硬い革手袋が、僕の手首のあたりをしっかりと握っている。

「無理しなくてもいいんです。貴方は自由だ」

 僕は無言で首を振った。

 自由なんかじゃない。僕はもう、こんなにも囚われてしまっている。


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