十一月二十三日――泡沫人のつきもの
ちょうど昼時ということもあって、ハンバーガーショップは賑わっていた。学生も親子もサラリーマンもいるけれど、僕たちのようなちぐはぐな組み合わせは見当たらなかった。僕らは、周囲からどんな風に見えているのだろう。
「親戚の優しいお兄さんと、気難しい高校生じゃないですか」
言葉の端々に少々疑問は残るが、たしかにそうかもしれなかった。死神はどう見ても僕の父親には見えなかったし、間違っても死神とそれに憑かれた高校生だとは思うまい。
「別に憑いているわけではないですよ。イレギュラーの監視です」
死神の白い頬がぷうっと膨らんでいる。何が違うのかはよく分からなかったけれど、たぶん説明されても分からないので、受け流しておいた。
死神にメニューの見かたを教え、僕がまとめて注文する。僕はチキンバーガーセット、死神はベジタブルプレートセットだった。
素っ気無いプラスティック製のテーブルセットに運んできたプレートを見て、死神は歓声を上げた。銀色のプレートの上に、パプリカスティックとハンバーガー、ポテトフライがたっぷり盛られている。
「美味しそうですね」
いただきますと手を合わせ、まずは革手袋の指で器用にフォークを握った。パプリカスティックをそっと口に運ぶ。
「ほう」
僕は無感動にハンバーガーをかじりながら、ゆっくりとカラフルな野菜を味わう死神を見つめていた。なにか神聖なものを口にするように、死神はどこか敬虔な表情で野菜を平らげていく。ときどきびっくりしたように目を見開いては、プレートに盛られたポテトをしげしげと眺めたり、ケチャップを舐めてみたりする。何となく声をかけるのをためらってしまうほど、彼は真剣だった。
「美味しいですか」
「ええ。とても」
ベジタブルプレートをすっかり食べ終えてしまったあとで、死神はテーブルに軽く肘をついて手を組み、その上にあごを乗せて僕を見つめてきた。僕はぼーっとしていたせいで、まだ半分も食べていない。
「……食べますか」
「いいんですか?」
にやり、と薄い唇が歪む。
ついに視線の圧力に負けた。トレイごと死神のほうへ押しやると、彼は目を輝かせる。
「噂になるだけのことはありますね。澪さんが注文した品も、私が注文した品も、とても美味しい」
「そうですね」
彼の一口は決して大きくないのに、何故かすごい勢いでハンバーガーが小さくなっていく。不思議だ。ほんの一分間ほどで、みんな彼の口の中に消えてしまった。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
しっかりと手を合わせ、死神は微笑む。
「人間の不幸の原因のほとんどは空腹だといいますが、本当ですね。澪さんの顔色も少しマシになりました」
僕は驚いて自分の頬に包むようにして触れる。
たしかに、さっきまで心臓の上あたりで悶々としこっていた塊は小さくなったようだった。冷えきっていた頬も若干あたたかくなっている。でもやっぱり、まだまだ決心がつかない。
「さっきまで、そんなに酷い顔色をしていましたか」
「それはもう。橋についた途端にもう一度飛び込んでも不思議はないくらいの」
それほど酷かったのか。
「それに、もう引き返せませんよ。忘れたんですか? 貴方に残された時間は僅か。迷っている時間はないのです」
死神は人差し指をぴんと立てた。なんだか売れないマジシャンのようだ。
「引き返すでもよし。突き進むでもよし。私は貴方にどちらかを強制することはありません。しかし、後悔に溺れて死ぬのだけはやめてください。死神が人間の死に様に口を挟むのもおかしな話ですが、あれは辛い。選択は澪さんの自由です。早くお選びなさい」
教師が教え子を諭すような、優しくて厳しい口調だった。真面目な死神の表情に気おされて僕は頷いたけれど、内心ではまったく違うことを考えていた。
死神は死んだことがあるのだろうか。まるで後悔に溺れて死んだ経験があるかのような言い方だ。
僕の表情から伝わってしまったのか、死神が僕の頭を読んだのか。彼はエスプレッソコーヒーのカップを口元へ運びながら、それに負けないくらい苦い笑みを浮かべた。
「私自身が死んだことはありませんが、死んだ経験ならありますよ」
自分で言いながら、おかしな言葉だと思ったのだろう。死神はちょっと笑ってからコーヒーを一口飲んで、続けた。
「私たち死神は、貴方がた人間の頭の中を読むことが出来ます。だから自殺しようとしていることが事前に分かったり、担当となった人間を殺そうとしている人間がいることに気付いたり出来るわけですが、それは必ずしも我々にとって良い方向にいかされるわけではないのですよ」
昼時を少し過ぎた店内は、未だにたくさんの人が携帯端末をいじったり、おしゃべりを楽しんだりしている。彼らは自分が過ごすフロアの片隅で死神と人間が語り合っているなんて夢にも思わないだろう。
「そもそも、『読める』なんて言うとこの能力を使いこなせているようですが、実際は特別に意図しなくても勝手に入り込んできてしまうのですよ。人間の意志――脳の構造、瞳の動き、発汗の具合、口調、表情なんかは、あまりに分かりやすすぎる。人間の脳に溜め込まれた記憶などはまた違った方法を用いて探りますから、瞬時にとはいきませんが、今考えていることなんて意識して読まないようにしていても分かってしまう。ましてや感情なんてダダ漏れですよ」
「なるほど」
一息で言い切った死神は、はあーっと大きな溜息をついてコーヒーを呷った。仕事の愚痴を肴にビールを飲む疲れたお父さんみたいだ。人間くさいことこの上ない。『お母さん、ビール!』なんて、今にも言い出しそうだ。
「いえ、さすがに『お母さん、ビール!』はないですね。一応勤務中ですし」
死神が苦笑する。たしかに雰囲気はまるっきりくたびれたサラリーマンの死神だが、この爽やかな外見で『お母さん、ビール!』は真冬に扇風機くらい似合わない。
こほん、と一つ咳払いをして、死神は話を戻した。
「常々人間に申し訳ないとは思うのですけれど、抑制できるものではありません。読むなと言っていたあの人間には悪いですが、言われた後もずっと読み続けていました」
そうだろうな、と思う。僕が嫌がって以来、死神は表立って記憶を読むことはしなくなった。でも、相変わらず考えは読んでくる。
「どうせ分かっているのなら、相手に分かっているということを伝えた方がいいと判断しました。気分が悪いと言われたのでね。かれこれ三百年くらい前ですか。懐かしい話です」
さらりと怖い言葉が聞こえたが、あえて何も聞かなかったことにする。あまりに人間くさいので忘れがちだが、目の前の男は僕を監視する死神なのだ。そして僕は七日後に死ぬ。
「また話が脱線したようですね。すみません。とにかく、感情はダダ漏れ。考えもダダ漏れ。つまり、人間が死ぬほんの間際の、脳細胞が完全に動きを止めるまでの凄まじい奔流がダイレクトに叩きつけられるんですよ。人間は、死の瞬間だけは己を飾らない者がほとんどですね。無防備で、むき出しの負の感情が襲ってくる。だから、死を体験したも同然なのです。いかに辛いかも少しは理解しているはずです」
つまり死神は、彼が今まで担当した三億七千三百五十六万二千四百八十八人の死を間接的に体験している、ということか。そして七日後に、三億七千三百五十六万二千四百八十九回目の死を迎えるのだ。途方もない話に眩暈がする。
「でも、私のことなんてどうでもいいのです。幸せに死んでください。貴方自身のために」
そう言って死神は、そっと頭を下げた。
ハンバーガーショップを出て、しばし。なんと死神はお金を一銭も持っていなかったため、昼食は僕の奢りとなった。そのせいで死神はどことなくしょぼくれている。僕はなんと声をかけたらいいのか。残り一週間の人生の中でこんなシチュエーションに遭遇するなんて思いもしなかった。
そんな微妙な雰囲気の中、昨日の僕が飛び込んだ川へ向かって歩いていく。時刻は午後三時近く。ハンバーガーショップには随分と長居をしたものだ。気の早い晩秋の日は傾きはじめ、光はやわらかなコンソメスープの色に染まっている。
ぐっしょりと濡れた靴を履いているかのように足は重かったけれど、決心はついていた。死神のおかげだ。
照れ屋というか、素直じゃない僕は、上手にお礼が言えないまま気まずい沈黙を飲み込んでいる。会話の糸口の端っこがどうしても見つからないのだ。会話の流れで自然にお礼が言えたらいいのに、と思う。
すると、俯き加減で足を進めていた死神が口を開いた。願ってもない好機だ。
「……お会計、ありがとうございました」
「いえ、気にしないでください。僕もお話のおかげで決心がつきましたから。せめてものお礼が出来てよかったです」
言えた。喉元のつかえがほぐれ、溶けて消えていく。死神の驚いたような顔がこそばゆい。
「貴方を見ていると心配になるんですけれど、澪さんはひょっとして私が死神だということを忘れていませんか?」
「いえ、ちゃんと覚えてますよ」
忘れるものか。死神と名乗られてからまだ二十四時間経っていない。
「貴方の命日を一週間後に設定したのも私ですよ」
「はい」
頷いた僕を、死神は不思議な生物を見るような目で見つめていた。逆に僕のほうがたじろいでしまう。
彼は何度か、何か言いたそうに口を開いたけれど、結局何も言わなかった。奇妙な沈黙に耐えかねて、僕はもう一度同じ言葉を繰り返す。
「ちゃんと……覚えてますよ……?」
それを聞いた瞬間、死神のまんまるく見開かれた目に、名伏しがたい色が浮かんだ。いきなりどうしたんだ。僕は、何か変なことでも言ってしまったのだろうか?
面食らう僕の前で、死神は呵々大笑した。
ようやく笑いがおさまるまで、たっぷり十分間はかかったと思う。滲んだ涙をごわごわの革手袋の手で拭い、死神はまるまっていた背筋を伸ばした。口角はまだひくひくしている。
「すみません。人間には死神同様かなりの個人差があると十分理解していたつもりでしたが、甘かったようです。こんな……」
そう言って、またクツクツと笑い出してしまう。僕は何と言っていいのか分からず、ただ黙っている。
「本当にすみませんでした。貴方みたいな人間がいるとは思いませんでしたよ。いえ、褒めているんです。むくれないでください」
そんな半笑いで言われても、貶されているようにしか聞こえないです。
僕はわざと怒ったように彼に背を向けて、一歩先を歩き出す。後ろから死神がついてくるのが分かったけれど、振り向かなかった。
「自分の後ろにいるのが死神だってことも、今の自分が、なんというか……不安定で歪なものだということも分かっているつもりです。でも、時間は残されていない。そうでしょう」
背後で頷いた気配。
「迷っている場合じゃないってことは痛感しました。僕だって後悔はしたくない。死神は人間を殺さない。そして、自殺でない限りは命日の前に死ぬこともない。そうでしたよね」
「ええ」
「なら、もう怖がりません。自分が死ぬことを選んだわけぐらい知りたいですし、僕は僕ですから」
死神は何も言わなかった。僕は思いついて続ける。
「あ、でも、川に飛び込んだ理由を思い出して死のうとしたらごめんなさい」
気がつけば、死神は僕の傍らを歩いていた。薄い唇には綿雲みたいに頼りなくて、あたたかい笑みが浮かんでいる。
「大丈夫ですよ」
何が大丈夫なのだろう。気になったけれど、僕は黙って頷くだけにした。嘘みたいに大きな夕日は熱された硝子玉のように真っ赤にやけて、玩具みたいに小さな家々と遠い煙突の向こうに沈んでいく。僕たちの真上の空はどこまでも透きとおった群青色だ。橋はもうすぐそこだった。