十一月二十三日――泡沫人とかりもの
翌日。僕は寝巻き代わりのジャージを着て、自分の部屋のベッドの上で目を覚ました。カーテンの向こうは明るい陽ざしが降り注いでいる。風のない、穏やかな晴れだ。
寝起きのぼけた頭でぼんやりと記憶を掘りおこす。
――貴方の命日は、八日後の十一月三十日です。
飛び起きた。……が、力が入った瞬間に背中と腹に凄まじい痛みが走り、慌てて枕に頭をつけてからゆっくりと体を起こした。筋肉痛だ。日頃から運動不足の自分が情けない。
とにかく、どうして僕は自分の部屋にいるのだろう。昨日、川に飛び込んで、紆余曲折の末に気絶したんじゃなかったのか。死神が何か魔法みたいな術を使ったのだろうか。思わずかしげた首に痛みが走る。
何にせよ、助かった。あのまま河原に放置されていたら、今ごろ凍え死んでいてもおかしくない。
枕もとの時計は十一時半を指していた。
「よく寝ていましたね。こんにちは」
悲鳴を上げる首をなだめながら振り返ると、箪笥の前に色白の男が体育座りをして微笑んでいた。
僕が悲鳴を上げたのは言うまでもない。
死神はすべるように距離を詰めて、僕の口を革手袋の手で塞いだ。一瞬だ。
「今、貴方の御家族はいらっしゃいませんが、あまり騒がないことをお勧めします」
お前のせいだろ。
「すみません。イレギュラーなケースの監視はこれくらい徹底したいので。朝食は一階の食卓に用意してあるようですよ」
死神の楽しそうな笑顔を見ていると、言葉が喉の奥で引っかかり、結局何も言えなくなってしまう。人間ではないのに、なんて人間くさい笑顔だろう。僕は溜息をついて、二階で待っているという死神を置いて身支度を整え、朝食をとりにリビングへと向かった。
いつもの事ながら、食事は全て冷え切っていた。ひやりと舌にまとわりつくコーンスープを喉に無理矢理流し込みながら、僕はがらんとしたリビングを見回す。
よく言えば綺麗に片付いているが、単に物が少なく生活感が無いだけだ。両親は仕事の鬼で、朝は早く夜は遅く、兄は大学がある遠方で一人暮らしをしている。大抵の場合、僕は一人きりだった。それが僕ら家族の当たり前だ。寂しくもないし、嬉しくもない。
味がほとんど分からない朝食を終え、僕は食器を洗ってから部屋に戻った。死神は本棚の前に立っていた。
「これは、澪さんの?」
「はい」
長身の彼は、本棚と同じくらいの高さにある顔をゆるゆると僕に向けた。真っ黒な瞳は複雑な色を浮かべている。
すらりと長い人差し指が、本の背表紙をゆっくりと辿る。ジッド、アンデルセン、泉鏡花、ドストエフスキー、太宰治、バイロン、中原中也、ツルゲーネフ、夏目漱石……。
ごった煮のように統一性のない本棚を見る整った横顔に、いとおしげな、甘い笑みが浮かんでいた。僕は不思議な気持ちで、遅い午前の澄んだ光に照らされるくたびれたスーツ姿を見つめる。
文豪たちを殺したのも、彼ら死神なのだろうか。
「殺したわけではありませんよ。私たちは人間の命日を知っている。死にまつわる仕事を持っている。それだけです。日付以外は、時刻も死因も分かりません」
僕の考えを読んで、本棚から視線を逸らさないまま死神が答える。革手袋の指が一冊の本を抜き出した。宮沢賢治だ。
「懐かしい」
ほとんど吐息のような声だった。
優しく本の表紙を撫で、はらはらとページをめくり、ときおり手を止めて微笑み、ぱたんと閉じて溜息をつきながら本棚に戻す。死神は宮沢賢治が好きなのだろうか。
「まあ、殺しはしませんが。逆に」
振り返った死神の顔には、悪戯っぽい笑顔がはりついている。ぴんと立てた人差し指は真っ直ぐに天井を指していた。
「担当になった人間がたまたま作家で、その作品が大変面白くてファンになってしまい、命日の前に自殺するのを必死で止め続けたという同僚には逢ったことがありますよ」
そんなことがあるのか。一体、彼ら死神の寿命は何年なのだろう。ひょっとすると、目の前の死神は見た目よりもずっと年を重ねているのかもしれない。
僕の頭の中は読めているのだろうが、死神は意味ありげに微笑むだけで何も言わなかった。
「それより、澪さん、今日の御予定は」
「まだ決めていません」
人生最後の一週間が始まったのだ。何かしなければと思う反面、何をしたらいいのか分からない。そもそも、昨日の僕が何故夜の川に飛び込んだのかすら分からないのだ。
僕は死にたかったのかもしれない。だとしたら、この七日間はまるっきり無意味なものということになってしまう。この、他人の身体を借りて生きているような感覚がたまらなく息苦しい。僕は僕なのに。
「ええ、澪さんは澪さんですよ」
僕を見透かして、死神が呟く。僕は彼から視線を逸らし、弱々しい闇が頭を抱えてうずくまる部屋の隅を見つめた。
「でも」
昨日の寒さが、背骨の芯から戻ってくる。蝋のように色のない指先が細かく震えていた。
「昨日までとはまったく違う人間になっているかもしれない。本当は、何か取り返しのつかないことをしでかして死のうとしたのかもしれない。それが怖いんです」
「自分で、僕は僕だって言ったんじゃないですか」
言ってはいない。死神が僕の頭を読んだのだ。
当の死神はクツクツと笑っていた。
「ここ一ヶ月間ほど貴方を監視してきた死神として断言しますよ。昨日までの澪さんと今日の澪さんは、同一人物です。飛び降りた理由までは分かりませんが、一人で悶々と考え込むあたりがまるっきり同じですから」
一ヶ月も監視されていたのか。全然気付かなかった。
何がおかしいのかさっぱり分からないが、彼は腹を抱えてクツクツと肩を揺らしていた。何が何だか分からないといった顔の僕を置いてきぼりにして、たっぷり何分か笑い続けた後、ようやく滲んだ涙を拭いて言う。
「前日までと全く同じことを考えて生きている人間には、今まで逢ったことがありません。前日とは違う人間、何か致命的なことを忘れ去って生きる人間。それが普通ですよ」
予定がないのならあの橋へもう一度行ってみませんか、と言う死神の笑顔は、陽だまりの猫のようにどこまでも暢気だった。僕は頷いて手早く支度を整え、几帳面にきっちりと畳んであったロングコートを死神に放った。仕事鞄を抱えた彼は目を細めて礼を言う。照れくさくなった僕は視線を逸らして、もごもごと、どういたしましてと答えた。
いつの間にか、指先の震えはとまっていた。
薄い雲のベールがかかった、穏やかな青空だった。空を映したミルク色の湖面を水面下から見上げているような、やわらかくて繊細で、どこか優しげな色彩だ。
「綺麗な空ですね」
死神も空を見つめていた。冷たい風が彼の髪やコートの裾を揺らして去っていく。
僕たちは静かな通学路を歩いていた。今日は土曜日なので、子供の姿はない。空気はひんやりとしているけれど、陽ざしはあたたかかった。
「そういえば」
いかにも今思い出しました、といった風を装ったけれど、おそらく死神には筒抜けだろう。僕は紙袋を抱えなおした。中身は死神がひとまとめにしておいてくれた制服だ。
「昨日は、チャイをありがとうございました。あと、家まで届けてくれたり、濡れた服を着替えさせてくれたり。本当に助かりました」
死神が命の恩人、というのもおかしな話だけれど。
通学に使う自転車はきちんといつもの場所に戻され、鞄は部屋の隅にたてかけてあった。丁寧に新聞紙が詰め込まれた半乾きの靴が片方しかなかったのは、飛び込んだ衝撃でもう片方が脱げてしまったからだろう。
「いえいえ。それにしても、澪さんは方法を聞かないのですね」
死神がすっとぼけた顔でそんなことを言うので、僕は困ってしまう。
「ええと、助かったことに変わりはありませんから」
「どちらにせよ、答えませんがね」
そうだろうと思った。
通学路にあるクリーニング店に入り、制服を預ける。店主のおばさんは豪快に笑って、もう無茶は駄目だよと言った。一体、なんと返せばいいのか。リアクションが取れずに固まったまま、僕らは店を後にした。死神はクツクツと笑っている。
「善良で罪な人」
僕には死神の言葉の意味が分からなかったけれど、黙っていた。受取日は命日の四日前だ。その時、僕は学校にいるだろうか。
「死ぬまでの時間の使い方は自由です。後悔のないように行動した方がいいですよ」
すっかり葉を色づかせた銀杏並木を眺めながら、死神が呟く。
「学校に行きたいのならば行けばいいし、行きたくないのなら部屋にこもっていてもいい。貴方の自由です。ただし、死ぬ間際に後悔するような使い方はしないほうがいい。あれは辛いですから」
音もなく散る銀杏の黄色く燃えた葉を手のひらに乗せて、死神は言った。風に巻き上げられた髪が彼の端正な横顔を隠す。
「出来れば、幸せに死んでください」
虫食いの葉をつまんで、くるりと振り返った彼の顔には相変わらず笑みがはりついていたけれど、どこか嘘くさかった。泣き顔に見えたのはきっと僕の目の錯覚だろう。
「ほら、行きましょう。澪さんの時間は限られていますから」
古ぼけた革靴が軽やかに歩き出す。僕は慌てて頷き、止まっていた足を一歩踏み出した。風はやわらかだった。
自転車で片道三十分ほどかかる通学路は、徒歩で移動すると倍近くかかってしまう。ゆっくり歩いているからなおさらだった。二人とも黙って歩くうちに、時刻は午後一時になっていた。
「そういえば、食事はどうしますか」
死神も食事をするのだろうか。気になって尋ねてみた。
「澪さんはお腹、空いていますか? 貴方に任せます」
言ってから、僕の疑問に気付いたらしい。死神は眼鏡のブリッジを押し上げて笑った。
「我々に食事は必要ありません。ですが、人間の食を好む者は多いですし、私もときどき誰かと食事をするのは好きですよ」
僕は朝食が遅かったので、あまり腹は空いていなかったけれど、死神の食事にはちょっと興味があった。もう少し歩けば大通りに出る。そこで何か食べましょうというと言うと、死神はハンバーガーショップはあるかと言った。
「食べたことがないんですよ。美味しいと同僚の間でかなり評判なので、いつかチャレンジしたいと思っていたのです」
薄いレンズの奥の瞳が、小さな子供のようにきらきらと光っている。たしか、あったはずだ。僕たちは少しだけ足を速めて、大通りへと続く角を曲がった。
死神はきっと分かっているだろう。言い訳は食事でもなんでもいい。少しでも時間を稼ぎたかった。大通りを抜ければ、川はすぐそこなのだ。
この期に及んで、僕はまだ怖がっていた。何か致命的なことが変わってしまいそうで。死神は、浅木澪は浅木澪だと言った。一人で悶々とする辺りがまるっきり同じだと。昨日と違うことを考え、忘れるのが人間だと。でも。
俯いて、かさかさと密やかな音を立てる枯葉を踏む。小さな悲鳴を上げて砕けていく葉が細かな欠片になり、独りぼっちの紙吹雪のように風に舞った。鮮やかな黄色の間から、歩道のくすんだ灰色が顔をのぞかせている。
昨日とはまったく違う考えを持ち、致命的なことを忘れ、性格と外見だけが変わらない僕は、果た澪して以前の僕と同じ人間だと言い切れるのだろうか。
十一月二十二日までの僕の身体を借りただけの、空っぽな『浅木澪』。
死神は何も言わなかった。ただ僕をちらりと一瞥して、かすかな溜息をついた。