十一月二十九日・三十日――泡沫人のたからもの
家に帰った僕は、鞄や引き出しをひっくり返して探し回り、やっと小さな黒い革の手帳を見つけた。生徒手帳だ。普段まったく使わないものだから、どこにしまったのかすっかり忘れていた。
「いいんですか?」
死神が背後から声をかけてくる。僕は頷く。
「これしかないですから」
僕は着たままだった制服の上からコートを羽織って、家を飛び出した。
くたくたになって家に帰ると死神がテレビを見ていた。いつも通りニュース番組だが、画面に映し出されているのは僕らの学校の事件のことではない。
僕は爪の間に入り込んだ泥を落としてからリビングに戻った。途端、死神の形のいい眉が跳ね上がる。
「包帯が真っ黒ですよ。取り替えましょう」
どうせあと二日で死ぬのだし、面倒だからいいと言うと、死神は溜息をついて勝手に包帯を解きはじめた。
「細菌の温床ですよ。汚いです。不衛生です。少しは魔法瓶を見習ってください」
……見習い方がよく分からない。
そういえば死神は魔法瓶の大ファンだったな、などと考えているうちに、器用にガーゼをあてられ、包帯を巻きなおされる。死神の処置はいつもながら素早かった。
「ありがとうございます」
死神は微笑んだ。
「夕飯にしましょう」
最後の一日は見事に晴れていた。冬独特の色味の薄い青空には雲ひとつ浮かんでいない。僕は上の空で朝食を食べた。このまま上手く事が運べば、おそらく最後の食事になるのだろう。死神は向かい側の席で黙って僕を見つめていた。
「本当にいいんですか」
「はい」
「そうですか」
茹でていないパスタのように無味乾燥なやりとり。それでも、僕と死神の間ではちゃんと伝わっている。
「細谷栞には会わなくていいんですか」
「……はい」
会っちゃいけない。僕のどうしようもなく弱い心では、きっと、もうそこから一歩も動けなくなってしまうだろうから。彼女にすがってみっともなく号泣して、死にたくないと叫んでしまうから。
だから、会わない。
「そうですか」
死神の返答は相変わらず無感情でどうでもよさそうだった。僕はちょっと微笑んで、食べ終えた食器類を流しへ運ぶ。
穏やかな朝だった。これから死ぬとは思えないくらいに。
ふと、思いついて訊いてみる。
「たしか、今日なら、事故に遭ったり殺されたりする可能性があるんですよね」
「ええ」
死神の目を真正面から見つめてやる。今まで自分からそうしたことなんてなかったはずだ。逃がさないように、脅しつけるように、見つめる。
「僕が事故や殺人に遭わないようにしてもらえますか」
死神が息をのんだ。こんな表情を見るのは初めてだ。
「幕は自分で下ろしますから。手出しはしないでください」
クツクツと死神が笑い出した。どうしたんだ。失敗したんだろうか。
思わず真剣な表情を崩した僕に言う。
「私を脅してきた人間は貴方が初めてですよ。いいでしょう。その度胸に免じて、幕は貴方に下ろさせてあげます」
ほっとした。体中の空気が全部溜息になって出て行ってしまうかと思った。
これは、僕の自殺でなければ成立しない。
「そろそろ行きます」
「ええ」
声が震えていた。指先もだ。それらを噛み潰すようにして奥歯に力を入れ、震えを殺すと、自分の部屋のドアを開ける。
朝の白い光が差し込む部屋。大きな本棚。ベッド。机。みんな、これまでお世話になったものたちだ。ふいにこみ上げてきた涙ものみこんで、僕は机の上に置かれた封筒を手に取る。飾り気のない、真っ白な封筒。
『遺書』
昨日のうちに書いておいたものだ。
コートを着て手袋をはめ、ゆっくりとドアを閉める。
玄関を出て鍵を閉め、ふと、両親と兄には会わないままだったな、と思った。彼らにはお礼も何も言っていない。でも、遺書を書いたり電話をしたりする気にはなれなかった。
「拒絶されたり、突き放されたりすることはないと思いますよ」
死神が横から言った。僕は首を横に振って歩き出す。
川は朝日をきらきらと反射して、寒々しい風景のなかに華やかな色を添えていた。クリスマスのイルミネーションみたいだ。最後にもう一度、見たかったな。
そう思った瞬間、あとからあとから後悔が押し寄せてきた。行きたかった場所、食べたかったもの、やってみたかったこと、将来の夢、最後にもう一度だけ会いたかった人――。溢れてとまらなくなる。
「澪さん」
僕のすぐ隣で、死神が表情を歪めた。僕は頷いて、頬をわざと乱暴にごしごし拭う。
幸せに死ぬ。それは無理でも。
「少しでも、後悔のないように」
叶わない希望をみんな呑み込む。受け入れる。
こうでもしないと、栞が犯人になってしまう。
僕は昨日の夜、空の端が白く染まりはじめるまで、何度も何度も記憶を辿った。結果分かったのは、西村将人の身体に栞の髪や血などが付着しいているかもしれないということと、僕が全ての指紋を念入りに拭き取っていたことだった。台車は黙って倉庫から借りたし、音楽準備室の鍵は栞に頼んでいつも通りの時間に返してもらった。つまり、『細谷栞が西村将人を殺した』という証拠はなくても、『浅木澪が犯人だ』という証拠がほとんどないため、僕よりもリボンがポケットから見つかった栞の方が怪しくなってしまう。
僕は最初から自分が罪をかぶるつもりでいたのだろう。しかし、栞に繋がる証拠を消すうちに、自分の証拠も消してしまった。そのことに気付いた僕は焦り、混乱の中で栞のアリバイをでっち上げることを考え付く。
栞にいつも通りの時間に帰るように言い、栞が図書委員会でまだ図書室にいる時間に殺人が行われたことにして、真犯人である僕が死ぬ。自首では甘いのだ。これだけのことをした理由を、僕は論理的に説明出来ない。混乱していたからでは誤魔化せないだろう。
しかし、僕は死ななかった。中途半端な記憶だけを持って生き残った僕は混乱し、自分が犯人だと思い込む。
ある意味においては、自殺の失敗はものすごくラッキーだったのだ。川に飛び込まなかったら僕は死神に出逢わなかったし、生きて死神に出逢わなければ自分のミスなんて気付くことは出来なかった。そしてミスに気付かなかった僕は不完全に証拠を消したまま死んで、おそらく栞が疑われていただろう。そして栞は僕が行った作業の意味なんて知らないから、何も答えられない。何年も何年も警察官に追い回された後で、下手をすれば犯人だと断定され、刑務所に閉じ込められてしまったかもしれない。
「どうして、自分が犯人だと思い込んだのでしょうね」
死神が呟いた。僕は笑って答える。
「たぶん、そう思い込みたかったからです。栞のためとはいえ死にたくなかったから、せめて栞が襲われたのは自分が西村将人を恐れて放置していたからだ、と言い聞かせて、自分が殺したようなものだと思い込もうとした。僕の鞄の中には遺書が入っていました。
――『自分が殺した。頭に血が上って気がついたら殴っていた。細谷栞は被害者だ。関係ない』
大体こんな内容です。同じようなことがこっちにも書いてあります」
僕は手に持った封筒をぺらぺらと振る。ボールペンで書き、名前もしっかり記した。
「よく思い出しましたね」
死神がほうっと溜息をつく。
「僕ならそうすると思ったから」
案の定だった。昨日の夜に遺書を見つけて、やっと十一月二十二日の僕の意図が全て分かったのだ。
「証拠も残してきました」
「あの生徒手帳ですね」
「はい。生徒手帳を僕が死体を放置したあたりに置いて、ちょっと枯葉をかぶせてきました。おかげで手がどろどろです。校章もさり気なく落としてきました。これで――」
川面を眺める。水鳥が二羽、すべるように泳いでいた。鯉だろうか、黒い大きな影もなめらかに泳いでいるのが見える。
死神が言葉を継いだ。
「細谷栞が殺人罪に問われることはない。貴方が自首したのでは、十分に聴取する前に死んでしまいますから、結局彼女に疑いがかかってしまうかもしれない。ならば、ということですか」
「はい」
どうせ死ぬのだ。それで栞が守れるのなら万々歳だ。
それに一度死んでいるような身なのだから、罪をかぶって死ぬくらい何でもない。
生徒手帳はちょっと露骨すぎたかと思ったけれど、いや、いずれ出るであろう目撃証言のダメ押しで案外納得されるだろうと思い直す。
「そうですか」
今日だけで、死神は何回この台詞を言っただろう。
「じゃあ、そろそろいきます」
「ええ」
「あの、色々とありがとうございました」
死神は何も言わなかった。僕は微笑んで、錆びた欄干に手をかける。
痺れるほどに冷たかった。僕は手袋をはずしてしっかりと欄干を握り、遺書に脱いだ靴のかかとを乗せた。重石代わりだ。きちんと揃えられた靴はどことなくさびしげに見える。
ふと、死神のほうを振り返った。吐き気がするほどの恐怖を胸に押し込めて、今出来る最高の笑顔を浮かべてみる。
「後悔はしませんよ」
死神は泣き笑いのような、変な顔をした。
「さようなら、どこまでもイレギュラーで料理上手な澪さん」
「さようなら、人間くさい死神」
もう一度、川面に視線を戻す。もう振り返らない。
「じゃあね、栞」
僕は欄干を握る手に力をこめて、アスファルトを思い切り蹴った。