十一月二十八日――泡沫人とほんもの
翌日、授業が終わると、僕は栞のクラスを訪ねた。記憶のことを栞に確認するためだ。嫌なことを思い出させるのでかなり迷ったけれど、ほかに手段がない。 一緒に帰ろうと言うと、ぱっと表情が輝いた。隣のクラスメイトらしき女子に小突かれながらも照れ笑いしている。
「今日、図書委員の当番があるんだけど、大丈夫かな」
「もちろん。図書室で待ってるよ」
「ありがと」
はにかんだ笑顔を見るだけで、涙がこぼれそうになる。僕は自分の教室に戻ると手早く荷物をまとめて図書室へ向かった。栞よりも早く、司書さんに確認したいことがあるのだ。
「すみません」
声をかけると、司書さんが微笑んで振り返った。手には鍵の束が握られている。
「その鍵、音楽準備室のも入っていますよね」
「ええ。今は警察の方に押収されてしまっているけれど」
「放課後の施錠は、いつもカウンター当番の図書委員が?」
「そうね。水曜日以外は五時四十五分になったら鍵を閉めて、職員室へ持ってきてもらって、それで当番修了よ。それがどうかしたの?」
五時、四十五分。
「いえ、僕は音楽準備室の掃除当番なので」
司書さんは納得したらしかった。頷いて、あそこは埃っぽくて大変でしょう、頑張ってね、なんて言う。
お礼を言って、書架の間に移動する。途端に力が抜けた。座り込んだ床には蜂蜜色の日光が差し込んでいて、ほのかにあたたかい。膝の上に両腕を乗せ、顔を埋める。
図書委員は音楽準備室の鍵も持っている。たぶんそこに廃棄図書があるからだ。栞が以前、廃棄図書も十分面白いのにと言って頬を膨らませていたのを思い出す。
栞が図書室に入ってきたらしい。明るい声で司書さんに挨拶し、鍵束を受け取る涼やかな金属の音が鳴る。僕は立ち上がって適当な本を手に取り、直射日光の当たらない席を選んで座って読んだ。内容はまったく頭に入ってこなかった。
「おまたせ」
栞が僕の肩を叩く。気付けば窓の外は日が暮れかけていた。随分長い間考えこんでいたらしい。僕は本を返却すると、栞と二人で図書館を出た。
「そういえば、栞のカウンター当番って何曜日だっけ」
出来るだけ何気ない風を装う。ふと今思いついた、そんな感じに見えるように。
「木曜日と金曜日だよ」
「一人?」
「実質、一人かな」
ははは、と笑ってみせる栞。笑顔は硬い。西村将人と一緒の曜日なのは間違いなさそうだった。
鍵を返すと言って職員室へ入っていく栞を見ながら、僕はぼんやりと死神が言い続けている命日について考えていた。
僕は栞を公園に誘った。前に来たのが何年も昔のように思える。僕たちはブランコに座って、しばらく黙っていた。
「何か、思い出したの」
栞が囁いた。ここについたときには見えなかった小さな星が、ぽつんと一人で青白い光を投げかけている。
「うん」
僕は頷く。栞のリボンを引き金にして、ほとんど全部を思い出したこと。自分の思い込みや嘘が混ざっているかもしれないので、栞に十一月二十二日に本当は何があったのかを教えてほしいこと。僕がときどきつかえながらそれらを話している間、栞は身じろぎ一つしなかった。
「そう」
話し終わってからも少しの間、栞は動かなかった。やがて何かを振り切るように微笑んで、呟く。
「ずっと前から、西村先輩は私にちょっかいをかけていたんだよ」
嫌だったけど反抗するのも怖かったから、言いなりになっていたのだという。笑顔はこわばっていた。
「それであの日、私が廃棄図書を読もうとして音楽準備室に入ったとき、後ろから……」
淡々とした声だったけれど、少し震えていた。もういいよ、話さなくていいよと叫びたくなる衝動を手に爪を立てて押さえ込み、栞の話を聞く。いつの間にか手の甲からたらたらと緩慢な動きで細い血の川が流れていた。
反対に栞の声はどんどん言葉と言葉の間隔が狭くなり、何かにとり憑かれたように高まって早口になる。目は潤み、頬は幽鬼のように青ざめていた。
「叫んで、気がついたら、先輩の頭から血が流れてて。怖くなって逃げようとしたら澪くんが来て」
「栞」
そっと手に触れる。大きく深呼吸した栞は、「……私も混乱していてよく分からないの。そのあと、澪くんがいつも通りの時間に帰れって言った」とだけ呟くと、ぐったりと俯いた。僕は栞のブランコの前に移動し、その足元に膝をつく。
「ありがとう。ごめんね」
ふるふると黒髪が波打つ。艶のある髪はこんな暗闇の中でもかすかに光をはじくのか。僕は栞の肩を軽く叩いて、もう一度謝罪してからお礼を言った。
僕の記憶は残酷なことに全て正しかったようだ。このまま栞の手をとって逃げてしまおうか、と一瞬おかしなことを思う。頭を振って妄想を追い払った。そんなこと駄目に決まっているだろう。今の状況ではまだ、犯人の候補に栞が残ってしまっている。外す方法は一つしかない。真犯人が現れること。
「もう一つだけ、訊いてもいいかな」
栞が頷く。その拍子に、一粒、涙がこぼれて頬を伝った。
「僕は栞に、時計を借りたのかな」
「うん。『不思議の国のアリス』がモチーフの、キーホルダー型の時計」
「そうだったんだ」
僕は溜息をついた。死神が言っていた、僕が飛び降りる直前まで持っていたという時計。それは栞のものだったのだ。
僕は最後に、栞の代わりに彼女が愛用していた時計を連れていこうとしたのだろうか。
「ごめん。失くしちゃった」
明るい声を出したつもりだったのに、全然上手くいかない。冷えきった自分の頬を何かが何度も何度も伝う。栞は声を殺して泣きながら、首を横に振り続けていた。
僕らはお互いが泣き止むまで、公園で声を殺して泣き続けた。