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十一月二十七日――泡沫人がつくりもの

 もはや世間でも僕の中でもどうにも動かないと思われた事件がにわかに転がりだしたのは、その日の夜だった。

 例によって夕食後にニュースをチェックしていた僕と死神の目に、また灰色の建物が飛び込んできた。僕の学校の校舎だ。見知らぬ建物のような映像に、びくりと心臓が大きく跳ねる。

『高等学校裏手での殺人事件に進展がありました』

 妙に緊迫した口調のキャスターが早口に原稿を読み上げていく。

 ターコイズブルーのリボン、指紋という単語が出た後はほとんど聞き取れなかった。死神も険しい表情で画面を凝視している。

『被害者の上着のポケットから、この学校の女子制服のものと思われるリボンが発見されました。警察はこのリボンから被害者のものともう一人の指紋を検出し……』

 リビングを飛び出そうとした僕の腕を何かが掴んだ。どんなに身をよじっても放されない。逆に万力のような力で締め上げられる。何かを叫びながら暴れる僕を、死神があっさりと組み伏せた。

「澪さん」

「放してください!」

「澪さんっ!」

 死神が声を荒げたのを聞いたのは初めてだった。僕は凍りついたように動きを止める。さっきまで僕を焼いていた焦りすら、一瞬勢いを失って消えかけた。

「いきなりどうしたんですか。どこへ行くんです」

 僕はざらざらした唾を飲み込んだ。仰向けに転がされているせいで真上に見える死神の目を見つめる。黒曜石みたいになめらかで鋭い。

 落ち着いて声を出せるようになるまで、十分はかかったと思う。

「指紋が……」

 ようやくそれだけのことを呟いたあと、僕は呻いた。組み伏せられたときに打ったのだろう、息をするたびに背中が痛む。

「指紋、ですか。貴方の記憶が正しければ、あのリボンは細谷栞のもの。当然出る指紋も細谷栞のものでしょうね」

 焦りが再び燃え上がる。リボン。栞のリボン。

 今日身につけていたのは予備か何かなのだろう。脳裏に悲鳴が響き渡る。下劣な笑い声が反響する。何度も、何度も。

 おかしくなりそうだ。

 死神が僕の上から退いた。圧迫されていた腕や足が自由になり、一気に栓を開けられたように血液が流れ出す。耳鳴りがした。

「行かなきゃ……」

 それでもふらふらと歩き出そうとした僕を見て、死神はまったく理解出来ないと言いたそうな顔をした。

「澪さん」

 のろのろと振り返ると、死神がリビングの隅を指差した。そこには制服の入った紙袋と一緒に鞄が転がっている。

「携帯電話があるじゃないですか」

 心底呆れかえっている視線が痛い。動転しすぎてそんなことも思いつかなかったのだ。僕は鉛でもくくりつけられたかのように重い足を引きずって鞄まで辿り着くと、携帯電話を取り出してアドレス帳を開く。細谷栞。

 震える指ではボタンを押すこともままならず、何度も押し間違えてはやり直した。やっと間違えずにダイヤルできたときには思わず安堵の溜息が漏れてしまう。

「もしもし。栞?」

「どうしたの澪くん」

 栞はニュースを見ていなかったようだった。無邪気に声がはずんでいる。僕は心の表面を鉄串でひっかく痛みに耐えながら、栞にニュースの内容を話し、リボンを失くしていないか尋ねた。電話口の向こうで、栞が息を呑む気配がした。

 永遠にも感じられる沈黙。

 やがて、電波の糸の端っこで、栞が呟いた。

「……うん。失くしちゃったんだ」

 乾いた笑い声。無理に笑い飛ばそうとしているのか、自分自身を笑っているのか。何故か泣き笑いに聞こえる。

 僕は慎重に、一言ずつ確かめるようにして言う。

「それで、西村将人の死体が発見されたあと、裏手の山に行ったんだね? 奪われたままのリボンが発見されないように」

「うん」

 フクロウの羽音よりも密やかな肯定。でも見つからなかったの、ポケットの中に入ってたんだね、と溜息をつく。

 やっぱり栞だったのだ。裏手の山で死神が見つけた、明らかに大人のものよりも小さな靴跡。あれは栞が自分に繋がる証拠を探して、忍び込んだときについたものだったのだ。

 通話を終えて、ずるずると壁に背を預けて座り込んだ。床や壁に触れた背中と腰に、ぞくぞくするような寒気が忍び寄ってくる。冷えた携帯電話がひどく重たく感じた。

 あの裏手の山で十一月二十二日の僕が探していたものは、おそらく栞のリボンだったのだろう。または栞に繋がってしまう何かしらの証拠。栞を、犯人にさせないために。

 おい、と呼びかける。おい、十一月二十二日の僕。

 返事はないし、そもそも期待していない。ただ整理がつかなくて、ごちゃごちゃになった頭を少しでも何とかしたくて。

 お前が犯人なのか? それにしては随分と証拠の消し方が雑じゃないか。どうして凶器の時計をそのままにしておいたんだ。死体は移動させているくせに。あげく橋から飛び降りて自殺しようだなんて、まるで自分が犯人だって言っているようなものじゃないか。

 いや、動揺していて理性的な判断が下せなかったんだ。それでも栞だけは守ろうとして証拠の隠滅を図った。そうだろう?

「澪さん」

 気がつくと目の前に死神が立っていた。眼鏡のレンズがリビングの明かりを反射して、その奥にある瞳は窺えない。声は平淡で、どこまでも無感情だった。

「人間には知りたくないことがあるんだそうですよ。無意識にそうと思い込んでいたり、自分で自分を半ば洗脳する者も過去に見てきました」

 何が言いたいんだ。僕の中で、誰かが必死に叫んでいる。やめろ、やめるんだ――。指先が、背筋が、体全体が勝手に震えだし、額から汗が噴き出してくる。

 目を逸らしたいのに逸らせない。みるみる乾いていく眼球は僕の意思とは関係なく、ひたすらに死神の姿を映し続ける。

「『自分が殺したんだ』と言い聞かせるのは、いい加減やめにしませんか?」

 死神がついっと目を逸らす。僕はどんな顔をしているのだろう。ようやく呪縛がとけて瞬きをすると、じわりと涙が滲んできた。それはぼろぼろとこぼれてあごを伝い、携帯電話を濡らす。

「……がう」

「はい?」

 死神が訝しげに僕に視線を戻した。長身を折り曲げるようにして僕の前にしゃがみこむと、僕の目を覗き込む。

「何ですか」

「違う!」

 もう、自分が何を言っているのか分からなかった。疲れていた。怖かった。何もかも放り出して命日までただ眠っていたかった。

「違う、違うんだ! 僕が殺したんだ! 木の時計で栞に覆いかぶさった西村先輩を殴ったんだ。それで怖くなって死体を台車に乗せて運んで、隠して」

 僕の言葉をさえぎるようにして、死神がゆっくり首を振る。

「ならば、どうしてあんなに中途半端に証拠を残したのです。しかも、その場に細谷栞がいたという証拠になるものだけを徹底的に消し、記憶を失くしてからも無意識に細谷栞の証拠を探しに行き、わざわざ余計なことまでして危険を冒した。そうじゃないですか? だって、怖かったのならそのまま凶器を持って逃げればよかったんです。死体を運んだりなんかして、それを目撃されたらどうするんですか」

「それは」

 言いかけた僕を制し、死神がたたみかける。

「今はまだ何も見つかっていませんが、きっとこれから、貴方に関する証言が出てくるはずです。澪さんが言うように死体を台車に載せて運んだのなら、台車を借りに来た貴方を見たとか、当日は閉まっていたという音楽準備室の鍵や台車から貴方の指紋が出るとかね。下手をすれば、あの凶器か西村将人の死体から貴方の指紋が出る。……いや、もうそういった証拠はとっくに出ているかもしれませんね。警察が情報規制をかけているだけで」

 僕は呆然と死神を見つめる。何も言えない。

「貴方が犯人かどうかは分かりません。でも、もし貴方が犯人で、それを隠蔽しようと動いたのなら、この状況はあまりに不自然です。そう解釈するくらいなら」

「……言わないでください」

 ようやく声が出た。自分でも笑ってしまいそうなほどか細くて、懇願の響きに満ちている。

「もう分かってます。言わないでください」

「そうですか」

 死神はあっさりと頷いた。話しながら僕の頭の中を探っていたのだろう。僕が、嘘と事実が混ざっている可能性は否定できないものの、ほとんど全ての記憶を取り戻したことを悟っているはずだ。これで彼の仕事はずっとスムーズになるはずなので、内心喜んでいるのだろうか。

 死神は死神。愚かな人間に同情なんてしない。

「喜んでなどいませんよ」

 ふいに死神が呟いた。立ち上がって背を向けてしまったので、彼の表情は分からない。

「心臓の上部約十センチメートルに亘って、火傷に似たじくじくと響くような痛みがあります。何でしょう。こんなこと初めてです」

 死神はどうやら本気で困惑しているようだった。それが、人間の心が血を流してのたうちまわるときに感じる痛みだよ、と僕は頭の中で語りかける。僕の頭を読んだときに、間違ってそれも一緒に読み取ってしまったのだろうか。

 取り戻した『記憶』は、ひどく違和感があった。自分ではない誰かが体験したことを自分の頭の中に挿し込まれたような、記憶を辿っていくとふいに他人に行き着くような、そんなちぐはぐで気味の悪い感覚がある。

 僕はそれを何度も何度も反芻した。そのたびに僕の手は血で汚れ、震えながら西村将人の動かなくなった体を抱えていた。意志を失った人間の身体は信じられないほど重かった。

 栞は泣いていた。

 かすんだ目で時計を見ると、午後十一時時四十分だった。あと二十分で、僕の人生は最後の二日間を迎える。

 ふと、手を見つめた。血はついていなかった。

 間に合うだろうか。



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