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十一月二十六日・二十七日――泡沫人とあたらもの

《あたらもの》

惜しむべきもの。惜しいこと。

「あったらもの」ともいう。

 栞を送ってから家に着いたのは午後八時過ぎだった。時間の感覚と一緒に麻痺していた寒さや空腹感が、玄関をくぐった途端にやかましく騒ぎ立てる。

「おかえりなさい」

 死神がリビングから顔を覗かせた。テレビを見ているらしい。くぐもって輪郭のはっきりしない声が、扉の隙間から流れてくる。

 コートだけ脱いで椅子にひっかけ、何気なくテレビを見て、体中がぎしりと音を立てて硬直する。死神が何か言っていた気がするけれど、聞き取れなかった。

 テレビ画面の中に、僕の学校の音楽準備室が映っていた。

 レポーターがガマの穂みたいなずんぐりしたマイクを手に、プレートのかかった部屋へと向かっていく。警察官の姿はなかった。形だけの拒絶を表すように開け放たれたドアに黄色いテープがぐるぐるとまかれ、中はほぼ丸見えだ。無駄に深刻そうな声と無神経な言葉が、ささくれだった神経を逆撫でする。

 僕が一瞬覗いたときとは、部屋の中は随分と変わっていた。

 床にも棚にも積まれていた古い楽譜は全て持ち出され、意外なほど広い床が顔を見せている。不思議なシルエットの楽器たちは何の個性もないダンボールに放り込まれて沈黙していた。机も椅子も、あの時計もない。その代わりのように、今まであったことすら気付かなかったチョコレート色のオルガンが部屋の隅にぽつんと座り込んでいる。

 分厚いカーテンのかかった窓に、壁一面とその下の床をほとんど覆い隠してしまうほど大きなブルーシートがかけられていた。血痕、という単語がスピーカーから飛び出して耳を掠めていく。

「澪さんがいつも見ているチャンネルのニュースではなく、主にゴシップを扱う局の番組です。貴方の学校に間違いありませんか」

 僕はこくこくと何度も頷いた。言葉は喉の奥で固まってしまっている。

「これによると、西村将人が殺害された場所はこの部屋でほぼ間違いないそうです。大量の血痕が見つかり、全て西村将人のものと断定。凶器と思われる木製の時計からは指紋が出なかったとか。十一月二十二日にはここの鍵が閉まっていたとの情報が多数寄せられ、捜査は難航しているそうです」

 熱のこもらない、淡々とした口調で死神が説明した。彼の聡明そうな黒い瞳も画面からまったく離れない。瞬きさえしていないようだ。

 ようやく衝撃が少し和らぎ、テレビの音が戻ってくる。スタジオに切り替わった画面の中で、コメンテーターらしき肥った男がしきりに体を揺すりながら、警察の捜査の遅さと杜撰さを責め立てている。妙に甲高いその声の間を縫って、涼やかな声が囁いた。

「犯人の情報は未だ何一つ掴めていないのだそうです」

 僕は胸を撫で下ろした。よかった、まだ何も掴めていないんだ。

 ……え?

「あ――」

 背筋が一気に寒くなる。『よかった』? どうして?

 僕が犯人なのか?

 おい、答えろよ、十一月二十二日の僕。お前が殺したのか? それで、たえきれなくなって死のうとしたのか?

 恐ろしいことに、そう考えるとまったく矛盾が見つからなかった。制服についていたという血も、音楽準備室でよみがえった記憶も、僕が西村将人を覚えていない理由も、裏手の山で十一月二十二日の僕が必死で何かを探していたわけも。みんなみんな、それで説明がついてしまう。

 僕が音楽準備室で栞を襲った西村将人を殺し、その死体を裏手の山に遺棄して、それから川へ飛び降りた。記憶が正しければ、あの日、音楽準備室には西村将人と栞、僕がいたはずだ。栞を覚えていないのは、彼女がその現場にいたからなのだろうか。

 考えれば考えるほど、それが真実のように思えてきてしまう。心の中では今までずっと疑ってきたことなのに、客観的な正しさを突きつけられると、こうも恐ろしいのか。殺す。殺した。指先ががたがたと震えている。

 僕が――。

「澪さん」

 ふいに死神が呟いた。画面から視線をはずし、夜の川面のように黒い瞳で真っ直ぐに僕を見つめている。背筋に震えが走った。

「それが真実とは限りませんよ。警察だってまだ決定打となる情報をつかめていない。現場が不特定多数の人間が出入りする学校内であるという状況下で、しかも西村将人の人間性から疑わしい人間が芋づる式にぽこぽこ出てきてしまう。犯人が貴方ではないという証拠は見つかりませんが、貴方であるという証拠もまた、見つかっていないのですから」

 僕はあえぐように息を吸った。体を取り巻く酸素がひどく薄く感じる。

「記憶があるんです」

 以前も話した音楽準備室での記憶の内容を、もう一度、自分の中で整理するように話していく。悲鳴も、笑い声も、手のひらにずっしりと重い、血でぬめる時計の感覚も、あまりにリアルだった。とても妄想とは思えない。

 今度は、死神は何も言わなかった。

 ただ、哀しそうな目をして、すっかり日の落ちた窓の外を見つめていた。

 真夜中の葬列のような沈黙のあとで、死神が、かすかに溜息をつく。

「とにかく、続報を待ちましょう。判断を下すのはもっと致命的な事実が判明してからでも遅くはありません」

 僕は頷いたけれど、不安は消えなかった。その続報すらないかもしれないということは、僕も死神もよく分かっていたのだと思う。

 僕は本当に殺人犯なのかもしれない。でも、もし違ったとしても、その証拠が人々に晒されるときに僕はまだ生きているだろうか。

 あと四日。今日の夜に寝て、次に目覚めれば、あと三日になっているはずだ。時間がない。焦りが心臓を焦がして燃え上がるのを、僕はただ黙ってじっと感じていた。



 それでも人間は単純なもので、どれほど悩んで寝付けなくても、どれほど毛布の中で怯えていても、昨日の夜に何も食べなければ腹は空くし、そうなれば何か食べずにはいられない。食べれば神経に何かしらの効果がはたらいて、脳は落ち着きを取り戻す。焦りや不安は尻尾を巻いてすごすごと引き下がっていくしかないのだ。

 綺麗に晴れた冬空の下、僕は学校へと自転車を飛ばした。あと三日というどうしようもない碇は心の底に深く刺さっていたけれど、表面は穏やかに凪いでいる。本当かどうかも分からない記憶を取り戻したことが、僕に相当な安心感をもたらしていた。十一月二十二日までの僕と今の僕が、薄いフィルムを透かして見たみたいにずれているような感覚が小さくなって、ほとんど消えかけている。おかしな平穏だった。人を殺したのかもしれないのに。

 信号待ちをしながら、お前は人をこの手で殴り殺したかもしれないんだぞ、と胸をこぶしで軽く叩いてみても、心はまったく波立たなかった。しんと冷えた『殺人の自覚』とでもいうようなものが、意識の深くに沈み込んで鈍い痛みを発するだけだ。

 永いようで短かった一晩で、不思議なほどすとんと納得出来てしまっていた。心が恰好の逃げ道を見つけてしまった、と言い換えてもいい。いい加減、十一月二十二日の僕に向き合うのは疲れた。お前、どうして記憶なんて大事なものを川に落っことしたんだ。真実を綴った遺書の一つくらい書けなかったのか。お前のせいでこっちはいい迷惑なんだ。包帯の巻かれた手でもう一度強く胸を叩くと、骨に響くような痛みが指先へ抜けた。

 これが事実かどうかなど、正直もうどうでもいい。目を逸らして逃げているだけかもしれないけれど、そうやって自分の死のうとしたわけにケリをつけてしまいたかった。僕は人を殺して、耐えきれなくなって川に飛び込んだ勝手な野郎なんだ。もう、それでいいじゃないか。

 久しぶりに冬服で登校したせいだろう、学校につくころには背中にうっすらと汗が滲んでいた。手袋はとっくにはずしている。

 教室は今日も誰もいなかった。僕は放り出した鞄を枕代わりに、とろとろと眠りに落ちた。

 


 昼休みには、中庭で栞と弁当を食べた。三方を校舎に囲まれた中庭は北風が駆け抜けていくのでものすごく寒い。僕らのほかに人影はなかった。

「ごめんね、寒いよね」

 かちかちと歯の根があわなくなっている僕に、栞が申し訳なさそうに言う。彼女が差し出した魔法瓶には、ホットミルクティーが入っていた。はじめて死神に逢った夜の、スパイシーなチャイを思い出す。

 黙ってしまった僕に、栞はもう一回謝った。僕が慌てて否定すると、栞が吹き出した。僕もつられて笑い出す。白い息を吐き、肩を揺らしながら、顔を見合わせて二人で笑いあった。いつも二人でこうしていたかのように、ふんわりとした居心地のいい空気だった。他愛もなくて、あたたかくて、ちょっと気恥ずかしくて。栞のいる場所は、確かに幸せだった。

 内容なんてあってないような話をしながら弁当を食べると、いつの間にか中身は空になっていた。空っぽの玩具箱みたいな弁当箱を見るうちに、怖くなる。

 あと三日で、僕はこの感情をも感じられなくなる。栞とも話せなくなる。笑いあえなくなる。それが、死ぬということだ。

 嫌だ。喉元までこみ上げてきた叫びをなんとか押し殺す。不思議そうに覗き込んできた栞に大丈夫と笑ってみせながら、僕は思った。

 今さらどうしたんだ。八日も前から分かっていたことだろう? ふいに、いつだったか考えたことを思い出す。そうだ、死神に最初に命日を告げられたときだ。

 『飛び降りる前の自分に戻れたら、死にたくないと泣き喚くのだろうか』。

 勝手に溜息が漏れた。その通りだ。

 死のうとした理由らしきものを取り戻し、栞を思い出した今、僕は確かに死にたくないと思っている。聞き分けのない子供みたいに、死にたくないと喚き散らして暴れまわり、転げまわりたい。でも、僕がそれをしないのは、命日を変えられないことを僕なりに理解しているからだ。あんまり人間くさいので普段は忘れているけれど、死神は死神。人間が泣こうが喚こうが、モルモットを見つめる研究者のような冷徹な眼差しで見届けるだけだろう。今も僕を視界に入れて、淡々と監視しているはずだ。

 ――幸せに死んでください。

 静かに首を振る。どこかで見ているはずの死神に向かって。

 無理だよ。人間は死神みたいに死に対してドライじゃいられない。みっともなく喚き散らして、どんなに出来た人間でも必ず後悔の一つも抱いて死ぬんだ。少なくとも僕には出来ないし、今まで死神が見てきた三億七千三百五十六万二千四百八十八人もみんなそうだったんだろ?

 後悔だけはしないように、か。僕はスラックスについた芝生をはらって立ち上がり、栞の手をとって座っている彼女を引っ張り起こした。校舎で予鈴が鳴っている。早く教室に戻らないと。

 栞は目を細めて僕を見ていた。そのやわらかな視線さえもくすぐったい。僕は様々な感情を抱いてパンク寸前になった心を抱えて、足早に教室へと戻った。

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