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十一月二十二日――泡沫人のおとしもの

 がたがた震えながら咳き込むと、喉の奥を焼きながら何かがせり上がってきた。吐き出したそれは何年も放置した花瓶の水みたいにすえた嫌な匂いを撒き散らす。今も知らん顔で座り込む僕の膝のすぐ脇を流れている、川の匂いだ。僕は自分の腹を抱きしめて何度も咳き込んだ。  

 寒い。寒くて痛い。びっしょりと濡れて、肌に張り付くシャツの感覚がひどく気持ち悪い。

 真っ白に色を失い、言うことを聞かない指を必死に動かして首に巻きついたマフラーを毟り取った。べしゃりと重い音を立てて草の上に落ちた白と黒の塊は、溺れ死んだ小動物の死体を連想させて、思わず口元を押さえる。胃袋がひっくり返りそうだ。

 寒さで意識まで朦朧としてくる。嫌だ。このままでは本当に死んでしまう。腹の底から突き上げてくるような恐怖と焦りのままに立ち上がろうとして、異様に重い体にふらつき、膝を砂利に叩きつけるようにして崩れ落ちた。ひりひりとした痛みすら凍ったように鈍い。声も出なかった。

 視界がぼやけてぐるぐる回り、足元の地面すら不確かになる。ものすごい速さでまわるコーヒーカップから放り出されたら、多分こんな感じがするんじゃないだろうか。吐きそうだ。

 でも、助けてもらおうにもこんなところに人はやって来ない――妙に熱っぽい頭でそう思ったときだ。

「随分と酷いザマですね」

 大げさに肩が跳ねた。鼓動が鼓膜を何度も何度も殴りつける。

 僕は口元を押さえたまま、驚いて声のするほうを振り返った。切れ切れの明かりを暗い川面に投げかける街灯に、背の高い男が寄りかかって立っている。声は続いた。

「貴方、死のうとしてあそこから飛び降りたんでしょう? 結局死ぬんですか死なないんですか。我々の面倒も少しは考えて行動してくださいよ。ぼやーっと橋の上で突っ立って川面を見下ろしている所から未練たらしく岸にしがみついてゲホゲホゲロゲロやってる所まで見ていましたけど、本当にいつ見ても不可解ですね、人間は!」

 まるで自分が人間じゃないみたいじゃないか。不審者、という言葉が脳裏を転げ回る。

 早口にまくし立てながら、男は大股で座り込む僕まで歩み寄ると、呆然とする僕に目線を合わせるようにしゃがみこんだ。それでも彼のほうが頭一つ分と少し高い。

「で、結局、死にたいんですか? 死にたくないんですか?」

 黒いロングコートとスーツ、フレームが銀糸のように細い眼鏡、仕事鞄。服装と雰囲気はいかにもくたびれたサラリーマンといった感じなのだけれど、僕を覗き込む顔は随分若い。二十歳を二つか三つ過ぎたくらいだろうか。色白で、鼻がすっと高く、濡れたように黒い瞳が印象的な目は涼しげな一重。彼がちょっと微笑めば、大抵の女の子はぽうっとなってしまうだろう。

 誤解があったら困るので言っておくけれど、僕が一時、自分が置かれた状況を忘れてそんなことを考えたのは、決して余裕があったとかこの男が知り合いだったからとかではなく、ただ単に、急転した状況に頭がついていかなかっただけだ。

 しかし彼は僕の沈黙を――あながち間違ってはいないけれど――突然現れた自分を怪しんでのことだと考えたらしい。片膝をついて両腕を掲げ、優雅に折り、かなり芝居がかったお辞儀をして見せた。なんだこの男は。なおさら怪しい。

「私は死神です。貴方が死ぬ日を事前に知り、監視していたのですよ。それより前に死んだり、その日を迎えても貴方が死ななかったりしたら面ど……大変ですからね」

 今、面倒臭いって言いかけなかったか? ……ではなく。

「死神?」

 青紫色に変色しているであろう唇を震わせながら問いかけた僕に、彼――死神はにっこりと笑いかけた。薄い唇が綺麗な三日月形につりあがる。その友好的でさえある笑みがどこか不気味で、僕の背筋に冷えとは別の震えが走った。

「ええ。私は死神です。ぶっちゃけ貴方が死ぬ日を決めたのも私です」

 私の同業者とすれ違ったことくらいはあるはずですが、と微笑む死神。

 ぶっちゃけすぎだ。僕の命日を決めただなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 僕は言葉をなくして、ただ呆然と彼の顔を見つめた。どう見ても僕らと同じ人間だ。すれ違っても気付かないだろう。なにせ、死神が本当にいるなんて考えたこともなかったのだから。自分と同じカタチをしたものは皆ホモ・サピエンス、これが僕らの常識じゃないのか。

 それに、この男が本当に死神なのだという証拠もない。そうだ、目の前の自称『死神』は僕をからかっているんじゃないか。僕がそこまで考えた時、『死神』は一瞬真顔に戻ったあと、その横顔にどこか酷薄にさえ見える笑みを浮かべた。ほとんど反射的に動きを止めた僕の頭の上で、ジジッ……と呻いて街灯が弱々しく点滅する。

「私たちの存在を認めず、愚直なまでに否定し続け、いつか自身の死を越えられる技術が開発されるなどと思い上がるのは人間だけですよ。他の動物達は皆、私たちを受け入れる。まあ、どちらでも結果は変わりませんがね」

 先程までとは別種の震えに襲われている僕をちらりと見た死神は、ほんの少しだけ顔を歪め、皮手袋に包まれた人差し指をぴんと立てた。

「話を戻しましょう。貴方が本来死ぬはずだった日は今日から八日後の、十一月三十日だったのです。しかし貴方は今日、この橋の上から川へと飛び降りた」

 すらりと長い指が僕の詰襟のボタンを一つはずす。途端、呼吸が楽になった。大きく深呼吸する僕を尻目に、死神は仕事鞄をごそごそと漁りながら続ける。

「私は基本的に人間の意志を尊重します。後々どんな面倒な手続きが待ち構えていようとも、その期日を待たずに死のうとする人間は止めません。ですが、偶発的な事故や他の人間による殺害は全力で阻止します。何度も言うようですが、命日の前に死なれたら大騒ぎですからね。もっとも、そんなことはまず起こりませんが」

「……絶対にないと言い切れるんですか」

 それは、僕が初めて死神に投げかけた質問だった。彼はちょっと目を見開いたあと、鞄から視線を上げて僕の目を真正面から見つめた。

「ええ、そういうものなのです。今まで私が担当した三億七千三百五十六万二千四百八十八件の中に、そういうイレギュラーなケースはたった三件しかありませんでした。およそ一億二千四百五十二万八百二十九件に一件の計算になります。三件は全て殺人未遂事件の被害者です」

 僕はただ黙って聞いていた。依然がたがた震えていたので、もしかしたら頷いたように見えたかもしれない。

いい加減意識が薄れかけていた。下着までびっしょり濡れた上に、くっきりと白くたなびく息が見えるような晩秋の河原で座りこんでいるのだ。体の表面は寒くて寒くてたまらないのに、内側は火で炙られているかのようにひどく熱い。

「でも、その三件の皆さんには死なないでいただきました。関係のない人間の思惑で私の仕事が増えるのはごめんですから、ね」

 言い終えると同時に、ぽい、と彼がなにかを無造作に投げて寄越した。小さなステンレスの魔法瓶だ。

 鞄を漁っていたのはこれを探すためだったらしい。あの薄っぺらい鞄に、これほど時間をかけて魔法瓶を探さなければならなくなるほどの量の物が詰まっているのだろうか。

「それを飲んでください。生姜入りのチャイです。温まりますよ」

 ありがたくいただいて蓋を開けると、ふわっと甘い香りがした。ミルク色の湯気の向こうで死神がうっとりと微笑んでいる。

「魔法瓶、素晴らしいですよね。人間が創りだしたもっともハートフルなものです。いつ、どこにいても、あたたかいものを口に出来る。これぞ幸せ。デザインも豊富で美しく、様々なサイズがあり、衛生面も利便性も完璧。素晴らしい」

 正直、まだ彼が人間ではないということを信じたわけではなかったのだけれど、少なくとも僕の目には嘘をついているようには見えなかったし、あたたかい飲み物の誘惑には抗えなかった。恐る恐る魔法瓶に口をつける。

 ちょっぴりスパイシーなチャイを飲むうちに、少しだけ震えが治まってきた。指先にも色が戻りつつある。肌がそのまま張り付いてしまいそうなほど冷えている魔法瓶を抱えて黙っていると、死神が笑った。今までで一番素直そうな、なんとなく人間くさい笑顔だ。死神なのに。

「貴方、死にたいわけではないようですね。安心しました」

 揺れるとろりとしたチャイの水面から、死神の目に視線を合わせる。頭上に広がる夜空のようにうっすらと光を放つ瞳もまた、真正面から僕をとらえていた。

「何が何でも死にたかったら、もう一度川に飛び込むなり刃物を探すなりしそうですが、貴方はさっきから私の話を真剣に聞いてくれているだけのようだ。飛び降りた直後も岸に上がろうと必死でしたしね。なにより、これから死のうという人間はチャイを飲んで笑ったりしませんよ。予定通り、貴方の命日は十一月三十日だ」

 よかったよかった、としきりに頷く死神。面倒な仕事が増えないのがよほど嬉しいのだろう。笑っていた、と言われて首を傾げながら冷え切った頬を触っていた僕は、あらためて死神の顔を見る。

 思考が少しずつ麻痺しているのだろうか。僕には、この男が人間ではないということが嘘だとは思えなくなっていた。

やはり、死神は死神だな、と思う。死んでいく人間に同情などしないのだ。僕は手にぎゅっと力をこめて、足の下で潰れた草に目を落とす。

「あの、一つ窺ってもいいですか」

「なんなりと」

「僕は、あの橋の上から飛び降りたんですか」

 ずっと気になっていたのだ。

死神は怪訝そうな顔で頷く。

「ええ。随分と思い詰めたような眼差しで水面を見つめたあと、ふいにふらっと欄干を越えて飛び降りました」

「どうして僕は飛び降りたんでしょう」

 どうしても思い出せない。気付いたら死に物狂いで岸にしがみつき、鉛のように重い体をどうにか引っ張り上げて震えていた。そして声が響き、死神が現れ、今に至る。何一つ分からないのだ。何故飛び込んだのかも、何故生きているのかも、川に叩きつけられた瞬間の感覚さえも。

「私には分かりません」

 死神はすぐに首を振った。即答だ。

 死神なら、飛び降りる前の僕が考えていたことが分かるのではないかと期待していたが、どうやらそういうわけでもないらしい。

「いえ、今、『死神なら僕が考えていたことが分かるんじゃないか』と思ったでしょう? 貴方が考えていることなんかは分かりますよ。貴方の脳に溜め込まれた情報ならいくらでも探ることが出来ます。でも、すっぽり抜け落ちてしまっているものはどうにもなりません。橋にいたときはこのまま死ぬものだと思っていましたから、無理に探ろうとは思いませんでしたし」

 出来れば探っておいて欲しかった。この状況はどうにも気分が悪い。

「すみません。頭の中を覗かれるのは不快だと、以前担当した人間に言われましてね。時々いるんですよ、こちらから声をかけなくても監視されていることに気付く鋭い人間が」

 僕のようなケースでない限り、基本的に監視対象に声はかけないのだそうだ。僕はがっかりして溜息をつく。思い出したように震えが襲ってきた。

 死神はほっそりしたあごに指を当て、しばらく何か考え込んでいた。僕はもう一度飛び降りる前のことを思い出そうとして、やっぱりいくら引っ掻き回しても出てこない記憶にうんざりし、ぼんやりと川面に視線を彷徨わせる。黒曜石のようになめらかな黒を湛える水面で、街灯や遠い月の投げかける冴えた光が数千に砕け散って踊っていた。沈黙が足踏みする間、車も人も自転車も通らなかった。まるで世界から切り離されたみたいに。

 やわらかくうねる川を見つめるうちに、ずっと死神が言い続けていた僕の命日がようやく胸に落ちてきた。あと八日、十一月三十日に僕は死ぬ。哀しみも、痛みも、苦しみも無かった。民家から漏れる明かりの温度がひどく遠い。震えはとまらなかった。

 他人事のようでもあったし、まったく現実味が無い一方で、確かにそれを受け止めている乾いた自分がいた。いや、やけっぱちと言った方が正確なのだろう。そうか。あと八日か。僕は飛び降りたんだ、つまり死にたかったんだろ? 万々歳じゃないのか。

 それとも、飛び降りる前の自分に戻れたら、死にたくないと泣き喚くのだろうか。

「今日は何曜日でしたっけ?」

 どれくらいたったのか、ふいに声がした。死神の目は真剣だ。僕は目を瞬く。

「金曜日です」

「軽く自己紹介をしていただけますか」

 首を捻りながらも、言われるままに空虚な自己紹介をする。

「浅木澪、血液型はB型で誕生日は十二月十五日。高校一年生です」

「ありがとう」

 死神は仕事鞄をごそごそやって取り出した黒い手帳を開き、おもむろに頷く。

「正解です」

 何だか妙な気分だ。

「女の子みたいで可愛い名前ですね」

「やめてください。昔からコンプレックスなんです」

「ほう」

 言い返してからはっとした。今、僕はなんと言った?

 死神は満足げに何度も頷いている。

「基本的なことは思い出せるようですね。おそらく飛び降りた原因に関係のないことや、昔のことなんかも。ちなみに澪さん、一たす一は?」

「二です」

「残念。田圃の『田』です」

 あんたは小学生か。

 あまりに淡々と言うものだから、反応に困る。もしかして笑ったほうがよかったんだろうか。死神は微妙な顔をしている僕をちらりと見て、大いに心外そうな顔をし、すぐに何事もなかったかのように質問を続けた。

「アメリカの首都は」

「ワシントンです」

「正解。ニューヨークではありませんからね。澪さんは小学校六年生まで勘違いしていたようですが」

 かあっと頬が燃え上がるのが分かった。確かに頭の中を読まれるのは困る。死神はおかしくてたまらないというように、クツクツと笑っていた。変な笑い方だ。

「でも、飛び降りる直前のことは思い出せない。でしょう?」

「はい」

 死神は笑いをおさえ、手帳を仕事鞄に大切そうにしまった。

「思い出したいですか、原因」

 いつの間にか、死神はぺったりと尻を草につけて座っていた。気だるげな、崩れた体育座りのような体勢で僕を覗き込む。眼鏡の奥の目が濡れたように黒々と光っていた。じっと見ていると吸い込まれてしまいそうになる。

「川に飛び込むようなことがあった、もしくは川に飛び込まなければならなかった、ということでしょう。私としては今後の仕事が格段に楽になるので思い出して欲しいところですが、強制はしません。貴方の心が壊れてしまうかもしれませんからね」

 僕が黙っているので、死神は言葉を続ける。

「あと八日です。これは変わりません。しかし、貴方は自分の命日を知った」

 長い指が、とん、と僕の額をつく。その表面は、冷凍庫にでも放り込んでいたかのように冷えきっていた。

「死ぬまでの時間の過ごし方を、自由に選べるのですよ」

 ああ、そうか。そういえばその通りだ。ごわごわした革の感触を額に感じながら、僕はぼんやりと考える。意識には淡い靄がかかったようで、体を支える役にはほとんど立たなかった。どんどん力が抜けていき、地面が傾き、やがてどこにあるのかすら曖昧になっていく。

「おっと」

 死神のとぼけた声を聞きながら、僕は完全に意識を手放した。


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