第1話 歌舞伎町
「連れ戻さなくていいんですか」
黒瀬玲司が聞くと、向かいの女は膝に置いたバッグを抱え直した。篠崎葵の叔母だという。出された茶にはほとんど口をつけず、さっきからテーブルの写真ばかり見ていた。
「無理に連れて帰っても、また逃げてしまうと思うんです。姉とは、もう話もしたくないみたいで」
写真の中の葵は制服を着ていた。長い髪が片方の肩へ流れ、カメラを向けられたのが気に入らないのか、整った顔に笑みはない。十八歳。高校はすでに辞め、家を出てからは知人のところを転々としているらしい。
初めのうちは短い返信があったが、それも来なくなった。最後の目撃情報は、一週間ほど前、新宿の歌舞伎町で姿を見かけたというものだった。叔母の話から分かったのは、その程度だった。
「とにかく、生きてるかどうかだけでも知りたくて」
玲司は写真から顔を上げた。叔母は言ってから口元を押さえ、少しだけ目を伏せた。大げさな言い方になったと思ったのかもしれないが、訂正はしなかった。
「見つけたら連絡します。本人が帰るって言うなら別ですけど、嫌がってるのを引っ張ってくる仕事はしません」
「それで構いません。お願いします」
頭を下げられ、玲司は自分まで軽く頭を下げた。こういうとき、任せてくださいとは言えない。実際、任せられても困ることは多かった。
この探偵事務所は便利屋も兼ねている。玲司に回ってくるのは張り込みや聞き込み、ときには逃げた犬を捜すような仕事で、呼ばれた日に働いて日当をもらう。二十歳の見習いに、立派な肩書きも安定した給料もなかった。
写真のデータを送ってもらい、顔を拡大して確かめる。まずは見つけることだ。その先まで約束するより、靴を履いて出た方がいい。
*
歌舞伎町の入口で、玲司は自撮りをしている外国人観光客の横をすり抜けた。大きな看板を背景に収めたいらしく、何人もがスマートフォンを頭上に掲げている。その脇では酔った会社員が同僚の肩にぶら下がり、客引きの男がその二人に熱心に話しかけていた。
「お兄さん、飲み屋探してる?」
「人を探してる」
玲司が写真を見せようとすると、男はもう別の通行人に声をかけていた。商売にならない相手を見切るのが早い。こちらも追いかけるのはやめ、焼いた肉の匂いがする店先を通り過ぎた。
見上げたホストクラブの広告には、玲司よりよほど綺麗な顔をした男たちが並んでいる。その下の狭い階段を、買い物袋を提げた女が上がっていった。雑居ビルの二階からはカラオケが漏れ、通りを一本曲がると、今度はホテルの看板が続いた。
葵の写真を開くたび、画面の向こうの顔と、すれ違う女たちの顔を見比べる。似た髪型に足を止めたこともあったが、本人ではなかった。化粧や服装が写真と違えば、同じ顔でも印象は変わって見える。
ホテル街の入口に立っていた男は、写真をちらりと見て顔を背けた。
「知らないね。店の子?」
「わからない。この辺で見かけてない? 名前は葵っていうんだけど」
「知らないな」
ひどく面倒そうな声だった。知っていて言わないのか、本当に知らないのか。玲司には決められない。ここで粘っても答えが変わりそうにないので、礼だけ言って引き上げた。
映画館脇の、トー横と呼ばれる辺りまで来た頃には、靴の中が蒸れていた。建物沿いに座った若者たちは、頭上の広告より互いのスマートフォンに夢中だった。すぐそばを観光客が笑いながら通り、地面に置かれた飲み物を蹴りそうになっても、座っている子は脚を引くだけだった。
最初に声をかけた二人には無視された。三人目の女の子も手を振って断りかけたが、画面を見た途端、その手を止めた。
「ミオじゃん。何、あんた知り合い?」
「ミオ?」
「この辺じゃそう名乗ってるけど」
篠崎葵とは別の名前だった。家を出た十八歳が、この街で本名を使っていないこと自体は不思議ではない。玲司は頭の中で「ミオ」を覚えておく。
「最近見た?」
「探してどうすんの。家に連れて帰るの?」
「話をする。帰るかどうかは本人次第」
「ならいいけど。ミオ、そういうの嫌がるから。あっちの方」
黒いパーカーの袖から出した指が、ホテル街を示した。玲司が聞き返すと、女の子は少し考え、コンビニのある角を説明してくれた。その近くで夜によく見かけるそうで、昨夜も同じ場所にいたという。
そういうの、が何を指すかは聞かなくても分かった。玲司が礼を言うと、女の子はもう隣の友人へ顔を戻していた。
指された方へ歩きながら煙草を一本抜き、口へ運びかけてやめた。足元の路面に、煙草へ斜線を引いた表示がある。箱へ戻した一本が少し折れ、玲司は舌打ちして喫煙所へ向かった。
囲いの内側で火をつけると、ようやく足を休められた。一時間以上歩いて得たのは、昨夜もこの街にいたらしい、という話だけだ。それでも、一週間前の目撃情報よりはましだった。
煙を吐き、写真の葵をもう一度見る。顔が分かっていても、会ったときにどんな反応をされるかは分からない。叔母には連れ戻すつもりがなくても、葵の方はそう受け取らないだろう。見つけた途端に親の名前を出して逃げられるのは避けたかった。
煙草を消して囲いを出る。教えられたコンビニで水を買い、その周辺の通りを歩いていると、壁にもたれている女が目に入った。
黒いショートジャケットに細身のパンツ。うつむいてスマートフォンを触っていたが、通行人を避けて顔を上げたとき、玲司は足を止めた。写真より髪が伸び、目元には化粧がある。それでも、眉と目の形には見覚えがあった。
手元の画面へ目を落として確かめる。篠崎葵だった。
ようやく見つけた安堵で、危うく名前を呼ぶところだった。駅からここまで歩いた距離を思い出し、口を閉じる。逃げられたら、今度はいつ見つかるか分からない。
どう声をかけるか考えていると、先に葵が玲司を見た。壁から離れてこちらへ歩いてくるので、玲司は写真を閉じた。
「ねえ、一人?」
「まあ」
「暇なら、ちょっと遊ばない?」
予想していたよりずっと軽い声だった。写真で見た少女が、手を伸ばせば届くところにいる。玲司が返事をせずにいると、葵は口の端を上げ、顔を覗き込んできた。
「そんな警戒しなくてもいいじゃん。別に取って食わないし」
「座って話せるところなら」
「いいよ。こっち」
葵はあっさり歩き出した。こちらを振り返るのは、交差する人の流れを抜けたときだけだった。自分が知らない男を連れて歩いていることに、ためらいがないように見える。
玲司が連れていかれたのは、表通りから少し入ったホテルだった。明るい入口を見て立ち止まると、葵も足を止めた。
「嫌なの?」
「いや。ここなんだなと思って」
「ほかがよかった?」
立ち話で済ませられる相手ではないとは思っていたが、これはこれで厄介だった。写真を見せて事情を話すだけのつもりでも、外から見れば、女に誘われてついてきた男でしかない。
それでも、葵はもうガラスの扉に手をかけている。今ここで正体を明かして、逃げられても追いかけきれる自信はなかった。玲司は、部屋に入ったら早めに話そうと決めて後を追った。
「部屋代、そっちね」
「分かってる」
玲司が財布を出すと、葵はその手元を横から見ていた。仕事の経費にしてもらえるかどうか、今は考えないことにした。
*
部屋へ入るなり、葵はベッドの脇にバッグを置いた。玲司が声をかけるより早く、上着を脱いで浴室へ向かう。
「ちょっとシャワー借りるね」
返事を待たずにドアが閉まり、しばらくして水音がし始めた。立ったまま話しかけそこねた玲司は、壁際の小さなソファへ腰を下ろした。
ここまで来れば見失わずに済む、と思っていたのに、どう話を切り出すかという問題は残っている。葵の方は何をするにも慣れているらしく、知らない男と部屋にいる緊張すら見せなかった。
持ってきた水をテーブルへ置き、スマートフォンの画面を開く。叔母への連絡は、本人と話してからにしたかった。今はまだ、写真の女を見つけた以上のことは分かっていない。
浴室の水音が止まった。玲司がスマートフォンを伏せると、服を着直した葵が、髪の先をタオルで拭きながら出てきた。ソファの玲司を見て一度立ち止まり、それからベッド脇のバッグへ手を伸ばした。
「……何してんの?」
「待ってた」
「いや、それは分かるけど」
葵はバッグから手を離し、改めてこちらを見た。玲司は上着も脱がず、ソファに座ったままだった。立ち上がろうともせずにいると、葵の顔から、外で見せていた愛想が薄れていった。
「ねえ。何しに来たの?」
濡れた髪から落ちた雫が、葵の袖に染みた。玲司はその顔を見上げたまま、ようやく用件を切り出した。
「悪いけど、俺、客じゃない」




