先住猫の憂鬱
うちの猫は、私の愚痴を聞くのが好きだ。
毎晩仕事から帰ると、玄関のドアを開けた音を聞きつけて、ミタラシが小走りで迎えに来る。私が着替えを済ませてソファに腰を下ろすころには、当然のように隣にやってきて丸くなる。私はその背中を撫でながら、今日あった理不尽なことを話す。上司が会議で手柄だけを持っていった話。取引先からの無茶な依頼の話。帰りの電車で、後ろの人に思いきり足を踏まれた話。
「聞いてよ、ミタラシ。本当にありえないんだから」
ミタラシはじっと聞いてくれる。たまに「にゃあ」と相槌を打つように鳴く。その声を聞くと、一日の疲れがすっと軽くなる気がする。
「もう今日は疲れた」と私が呟くと、ミタラシは決まって前足をそっと私の膝に乗せてくる。
「慰めてくれてるの?」
そう聞くと、ミタラシは私の顔を見上げて、ゆっくり瞬きをする。私は、それが「大丈夫だよ」という意味だと思っていた。
これはもう、相思相愛と言っていいと思う。
ただ、最近すこし気になることがあった。ミタラシが、以前より苛立っているように見えるのだ。撫でようとすると耳を伏せる。愚痴を話している最中に、ふいっと顔をそむける。先週などは、私が話している途中で、ソファから飛び降りて隣の部屋に行ってしまった。
(疲れてるのかな)
そう思ったが、考えてみれば無理もない。私が仕事に出ている間、ミタラシはこの部屋に一匹きりだ。誰とも遊べず、誰とも話せず、ただ日がな一日、窓の外を眺めて過ごしている。寂しいに決まっている。
友人にその話をしたら、「二匹目を迎えてあげたら」と言われた。猫は単独行動を好む生き物だと聞いていたので迷ったが、寂しそうなミタラシの顔を思い出すと、決心がついた。
保護猫の譲渡会で、トライアルという制度を知った。何匹か候補の猫を順番に自宅で預かり、相性を見てから正式に迎えるかどうかを決められるらしい。これは良い、とさっそく申し込んだ。
ところが、一匹目のキジトラを連れて帰った瞬間、ミタラシが毛を逆立てて「シャーッ」と威嚇した。キジトラはびくりと後ずさり、私はあわてて二匹を引き離した。数日様子を見たが、ミタラシの態度は変わらなかった。
二匹目の黒猫のときも同じだった。むしろ初日より威嚇の勢いが増していたくらいだ。三匹目の三毛猫にいたっては、私が目を離した隙に部屋の隅まで追いかけまわしていて、慌てて仲裁に入ったほどだった。三毛猫は怯えてキャリーに逃げ込み、それ以来、私が近づくだけで身を縮めるようになった。
「ミタラシ、そんなに気難しい子だったのね……」
私は少し落ち込んだ。友人に相談すると、「相性の合う子が見つかるまで根気強く」と言われたが、正直、次の候補を探すのも億劫になっていた。
それでも、これが最後のつもりで申し込んだ四匹目――生まれつき耳が聞こえないという、白い子猫だった。トライアルを始めて数時間、私は身構えていた。今度もシャーッとやるに違いない。
しかし、何も起こらなかった。
ミタラシは白猫のそばに近づいていくと、匂いを嗅いで、そのまま隣に座った。威嚇どころか、まるで最初からそこにいたかのような落ち着きようだった。私は思わず拍子抜けした。
「あら、この子とは仲良くなれそうね」
私は胸を撫でおろした。こうして白猫――シラタマと名付けた――は、正式にうちの一員になった。
それから数週間、二匹は驚くほど平和に暮らしていた。朝、私が身支度をしている間、二匹は窓辺で並んで日向ぼっこをしている。夜、私が帰宅するとミタラシが迎えに来て、少し遅れてシラタマも顔を出す。私は相変わらず、帰宅するとミタラシに愚痴を聞いてもらう。シラタマはその隣で、素知らぬ顔をして毛づくろいをしている。二匹がじゃれ合う様子を見ると、二匹目を迎えて良かった、としみじみ思った。
シラタマが眠っていると、ミタラシはそのそばを通るときも、起こさないようにそっと歩く。私はそれを見て、ミタラシはやっぱり優しい猫なんだと思った。
少し前、見守りカメラのアプリに新しい機能が追加された、という通知が届いた。「感情解析」というものらしい。鳴き声だけでなく、耳や尻尾の動き、ひげのしぐさからも気分を読み取れるようになったという。留守中の様子が気になっていた私は、さっそく試してみた。
昼休みにアプリを開くと、ミタラシのそばに「警戒」のアイコンが出ていた。シラタマには「緊張」。
「あらら、まだ慣れてないのかな」
と思ったのは最初の週だけで、そのうち二匹のアイコンは並んで「安堵」に変わった。私はそれを見て、ふふ、と笑った。ちゃんと仲良くなれているようだ。
さらに数週間後、アプリがまたアップデートされた。今度は感情だけでなく、鳴き声やしぐさの一部を単語として拾えるようになったらしい。完璧な会話にはならないが、断片がぽつぽつと表示されるようになった。
ある昼休み、カメラを覗くと、二匹がソファに並んで座っていた。ミタラシがシラタマに顔を近づけている。画面の下に、こう表示された。
ミタラシ:また/大変/逃げたい
私は首をかしげた。
「何の話かしら」
きっと猫同士の、じゃれ合いのようなものだろう。私はそう思って、画面を閉じた。
数日後、また似たような表示を見た。今度は夜、私が帰宅する少し前の時間帯だった。
ミタラシ:無理/我慢/疲れた
「我慢?何を我慢してるのかしら」
私は首をひねりながらも、特に気にとめなかった。猫の言葉なんて、人間に完璧にわかるはずがない。翻訳アプリだって、まだ発展途上なのだろう。
シラタマを迎えてから、ミタラシが以前ほど苛立った様子を見せなくなったのも、私にとっては良い変化だった。きっと、話し相手ができて寂しさが紛れたのだろう。二匹目を迎えて、本当に正解だった。
ある晩、いつものようにミタラシを撫でながら愚痴をこぼしたあと、私はふと二匹に向かって話しかけた。窓の外はもうすっかり暗くなっていて、部屋には照明の温かい光だけが灯っていた。
「ねえ、二匹とも、私のこと大好きだよね?」
テーブルの上のスマートフォンが、小さく反応していた。画面には、こう表示されるところだった。
ミタラシ:好き/謎/困る
けれど私は、そのとき鳴りだした着信に気を取られていた。友人からの電話だった。私は画面を切り替え、通話に出ながらリビングを離れた。
「最近警戒も取れてきて、仲良くなってくれたみたいなの!」
電話の向こうの友人にそう言いながら、私は満足そうに笑った。
カメラの向こうでは、私が部屋を出ていったのを確かめてから、二匹がようやく顔を見合わせていた。
『今日も一通り、愚痴を聞かされたよ』とミタラシ。
シラタマは耳を軽く動かし、ミタラシの張り詰めた尻尾の先を見てから、ゆっくり瞬きを返した。
『また?』とシラタマ。
『朝から晩まで三時間だ。ここのところ、毎日だぞ』
『大変だな、お前も』
『お前はいいよな。聞こえなくて』
シラタマは少し間をおいてから、こう返した。
『他の奴らにはシャーッてやったくせに、俺には何もしなかったな』
『……あいつらまで巻き込むわけにはいかないだろう』
『……そうか』
『お前は聞こえないからな』
二匹はしばらく黙って、それから示し合わせたように、また素知らぬ顔で毛づくろいを始めた。窓の外を車のライトが横切り、部屋の壁をゆっくりと照らして消えた。
その夜、通話を終えた私は、二匹を撫でながら眠りについた。二匹とも、私のそばで気持ちよさそうに目を細めている。
やっぱり、二匹目を迎えてよかった。私は、そう思った。
「二匹が癒してくれたから、明日もお仕事頑張らなくちゃね」
私がそう言うと、ミタラシが目を細めた。
テーブルの上のスマートフォンに、短くこう表示された。
ミタラシ:明日/続く/憂鬱




