第8話 遠き雷鳴
帝都の空は、重たい鉛色の雲に覆われていた。
遠くで微かに、雷鳴が轟いている。湿った風が、スラム特有の腐敗臭と鉄錆の匂いを運んできていた。
「……チッ。また弾かれたか」
私は舌打ちをして、こめかみを指で押さえた。
万屋の薄暗い作業机の上で、炭化した紙人形がパラパラと崩れ落ちる。
偵察用に飛ばした式神が、日野家の屋敷を取り囲む結界に触れ、焼き尽くされたのだ。これで十回目。全滅だ。
「……今の私の手持ち(粗悪なチョークと再生紙)では、屋敷の門をくぐることすら叶わないわね」
私は焦げた紙片を息で吹き飛ばした。
日野家の本邸を守る結界は、一人の術者がどうこうできる代物ではない。あれは数百年の時をかけ、歴代当主が積み上げてきた、堅牢な城壁そのものだ。
中枢へのアクセス権を持たない外部の術式は、ウィルスのように瞬時に焼却される。
「無駄な骨折りだな、ご主人様」
部屋の隅で、ヒセツがリンゴを皮ごと齧りながら嘲笑った。
彼は行儀悪く木箱の上に足を組み、古新聞の株式欄を眺めている。
「お前が大事そうに隠し持っているその古本――『奥義書』とやらを使えば、結界など顔パスで通れるのではないか? それが『鍵』なのだろう?」
彼の視線の先には、枕元に隠された一冊の和綴じ本がある。
亡き夫・彰が、私の父の葬儀の混乱に乗じてすり替え、死の間際に私に託した本物の『日野家奥義書』。
これには、屋敷の結界を解く呪歌も、歴代当主が契約してきた守護神魔の制御式も、すべて記されている。
「……通じないのよ。今はまだ」
私は唇を噛んだ。
「陰陽師の世界は、血統ではなく『儀礼』が全て。……この書は、五摂家の立会いの下で行われる『継承の儀』を経て、初めてその効力を発揮するの」
今の私は、銀行の金庫の鍵を持っているだけの「泥棒」に過ぎない。
システム側――屋敷の結界や守護神魔は、私を正統な主とは認めていない。だから、鍵穴に鍵を差し込むことすらできないのだ。
「ふうん。……まあ、俺には関係ない話だ」
ヒセツは興味なさそうに新聞をめくった。
そう、彼は日野家の守護神魔ではない。私が奥義書から盗み見た「野良の羅刹」の真名を使い、無理やり呼び出しただけの存在だ。
だからこそ、今の私に従っている。
その時、窓の隙間から滑り込んできた一枚の紙人形が、私の肩に止まった。
スラムの酒場に放っておいた、情報収集用の個体だ。
紙人形から伝わる微弱な振動を、私の指先が読み取る。
『……聞いたか? 日野の旦那様、ついにやるらしいぜ』
『ああ、来月の満月の夜だろ? 「当主襲名のお披露目」だってな』
『五摂家の連中も招いて、盛大にやるそうだ』
――ッ!
私はガタリと椅子を蹴倒して立ち上がった。
全身の血が逆流するような感覚。冷静な計算が一瞬で吹き飛びそうになる。
「襲名……だと?」
叔父貴、正気か。
貴様が持っているのは、彰がすり替えた「中身のない偽書」だぞ。奥義書を持たない分際で、どうやって当主を名乗るつもりだ?
「……焦っているようだな、ご主人様」
ヒセツが面白そうに目を細めた。
私はギリギリと奥歯を鳴らしながら、壁の古地図を睨みつけた。
「……『既成事実』よ」
叔父には奥義書がない。だから、家の最高戦力である守護神魔は動かせないし、屋敷の結界も完全には掌握できていない。いわば、鍵のない金庫の前に座っているだけの状態だ。
だからこそ、彼は「政治」を使おうとしている。
裏帳簿にあった通り、資産を九条家にばら撒き、五摂家の権威を借りて「日野家の次期当主は私である」と無理やり認めさせる気だ。
周囲が認め、儀式が完了してしまえば、理の方が捻じ曲げられる。
そうなれば、私が持つ本物の奥義書はただの「盗まれた古文書」になり、私は正統性を失った逆賊として、社会的に抹殺される。
「……時間がない」
私は爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。
来月の満月。
それまでに、私が「本物」であることを証明しなければならない。
だが、どうやって?
屋敷の結界は私を拒絶している。金もない。資材もない。
対する叔父は、要塞のような屋敷と、私兵団、そして帝国の権力を握っている。
詰んでいる?
――いいえ。
作法から入れぬなら、力尽くで壁を砕くまで。
そのために必要なのは、きれいな「数式」ではなく、圧倒的な「質量」だ。
「……ヒセツ」
私は顔を上げた。
雷光が窓の外で閃き、私の顔を白く照らし出した。
「ドブさらいは終わりよ。……大きなヤマを踏むわ」
「ほう?」
ヒセツがリンゴを放り投げ、空中で紙吹雪に変えて消した。
その顔には、久々に「捕食者」の獰猛な笑みが浮かんでいた。
「金がいる。屋敷の結界を物理的に突破し、あの襲名披露の晴れ舞台を、私の復帰の大舞台に変えるための、莫大な軍資金が」
私は机の上の、薄汚い小銭の山を払い落とした。
チャリチャリと音を立てて落ちる小銭は、もはや私の眼中にない。
「死ぬかもしれないわよ。次は野良犬相手じゃない」
「ククッ、上等だ」
ヒセツはゆらりと立ち上がり、天井を仰いだ。
「退屈なドブ掃除よりはマシだ。……見せてみろよ、お前の言う『復讐』の続きを」
遠雷が、より大きく響いた。
それは、帝都を揺るがす嵐の前の、最初の一撃だった。
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