第7話 小さな名声
噂というものは、病原菌に似ている。
目に見えない速度で伝播し、人々の意識を侵食し、やがて事実とは異なる形に変異して定着する。
「……で、その井戸に幽霊が出ると?」
私は腕組みをして、目の前の依頼人を見下ろした。
長屋の自治会長だという初老の男は、揉み手をしながら必死に頷いた。
「へぇ、そうなんです魔女様。夜な夜な井戸の底から女のうめき声が聞こえるとか、汲んだ水が血のように赤くなるとか……。おかげで皆、気味悪がって水も汲めねえ状態でして」
男はチラチラと私の背後を見ている。
そこには、ヒセツが退屈そうに寝転がり、古雑誌をパラパラと捲っていた。彼が見えているわけではないだろうが、その場に漂う異質な「圧」に怯えているのだ。
「お祓いをして欲しいんです。お布施なら、みんなで出し合ってこれだけ用意しました」
差し出されたのは、煤けた封筒に入った紙幣と硬貨。
金額にして、チョーク三箱分といったところか。
悪くない。
「……分かったわ。案内しなさい」
*
問題の井戸は、スラムの中央広場にあった。
すでに野次馬が遠巻きに囲んでいる。私が到着すると、彼らはモーゼの海割れのように道を開けた。
「魔女様だ」「あの紙の人だ」というささやき声が波のように広がる。
私は井戸の縁に立ち、底を覗き込んだ。
暗く、淀んだ水面。
確かに異臭がする。鉄錆と、腐敗した有機物の臭い。
「おい、ご主人様。なんか臭うぞ」
ヒセツが私の肩越しに顔を出した。
「誰かが死体でも投げ込んだか? それとも、廃棄された呪具の成れの果てか?」
「……いいえ」
私は懐から一枚の紙人形を取り出し、井戸の中へ落とした。
ヒラヒラと舞い落ちる紙片は、水面に着水すると同時に波紋を広げ、私の脳内に解析データを送信してくる。
水質、成分、音響解析。
――幽霊? 馬鹿馬鹿しい。
「ただの配管詰まりよ」
私は野次馬たちに向かって淡々と告げた。
「地下水脈からつながるパイプに、錆びた鉄くずと泥が詰まっているわ。水が赤く見えるのは鉄錆、うめき声は空気が抜ける音よ」
住人たちは顔を見合わせ、ぽかんとしている。
彼らは「呪い」や「祟り」という物語を期待していたのだ。物理的な原因など求めていない。
自治会長がおずおずと尋ねた。
「で、でも魔女様。じゃあどうすれば……」
「掃除すればいいだけの話よ」
私は指を鳴らした。
「展開」
私の袖口から、数十枚の紙人形が飛び出した。
それらは意思を持つ魚の群れのように井戸の中へ飛び込み、暗い水底へと潜っていく。
水没すれば紙は溶ける?
常識的にはそうだ。だが、私の紙人形は表面に撥水加工の術式をコーティングしてある。数分程度なら水中でも稼働する。
「貫通」
イメージを送る。
水底で一塊になった紙人形たちが、詰まっていた泥の塊に特攻し、回転しながら削り取る。ドリルだ。
ゴボッ、ゴボボボッ!
井戸の底から巨大な気泡が上がり、やがてシュァァァッという音と共に、水が勢いよく循環し始めた。
「あ、水が澄んできた!」
「音も止まったぞ!」
歓声が上がる。
私は濡れた紙人形たちを回収することなく、そのまま水底の泥の一部として廃棄した。
仕事を終えた道具に未練はない。
「終わったわ。……今後、井戸の蓋はちゃんと閉めておくことね」
私が背を向けて歩き出すと、背後から感謝の言葉と拍手が湧き起こった。
「さすが魔女様だ」「ありがてえ」
彼らにとっては、私が何をしたかは重要ではない。「異常が解決された」という結果こそが魔法なのだ。
*
帰り道。
私は商店街の文具店で、白いチョークを三箱購入した。
これでまた数日、ヒセツを繋ぎ止めておける。
「……つまらん仕事だ」
隣を歩くヒセツ(他人には見えないよう認識阻害をかけている)が、不満げにぼやいた。
「俺は高位の神魔だぞ? それがドブ掃除の監督とはな。……もっとこう、国を傾けるような大仕事はないのか?」
「文句を言わないの。あんたの飯代を稼ぐためよ」
私はチョークの箱を鞄にしまいながら答えた。
確かに、こんなドブさらいのような仕事は、私の本来の目的(復讐)とはかけ離れている。
だが。
「……無駄じゃないわ」
私は路地裏ですれ違うスラムの住人たちが、私に畏怖と敬意のこもった視線を向けてくるのを感じた。
情報は金になる。信用は力になる。
かつて私を「可哀想な未亡人」と嘲笑った連中は、まだ気づいていない。
泥の中で、私が着実に「根」を張っていることに。
「今はまだ、地下で力を蓄える時期よ。……いずれ、この根が奴らの屋敷を下から突き破るまでね」
私の言葉に、ヒセツは呆れつつも、少しだけ楽しそうに口角を上げた。
「気が長い話だ。……まあいい、付き合ってやるよ。退屈しのぎくらいにはなる」
廃屋に戻ると、また次の客が待っていた。
猫探しに、家の雨漏り修繕。
私は溜息をつき、新しいチョークを手に取った。
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