第5話 紙屑の魔女
看板を出して一時間もしないうちに、最初の客が現れた。
扉を叩く音は乱暴で、悲鳴に近かった。
「……いるのかい! 『魔女』がいるってのは本当かい!」
転がり込んできたのは、痩せこけた女だった。
髪は振り乱れ、目は充血し、着物の裾は泥で汚れている。スラムの長屋に住む洗濯女だろう。彼女は私の姿を見るなり、床に膝をついて崩れ落ちた。
「頼む……! あんた、あの紙切れを飛ばしてた人だろう? あの子を、ケン太を探しておくれ!」
彼女は私の足元にすがりつき、わななく手でスカートの裾を掴んだ。
恐怖と混乱で過呼吸気味だ。指の関節が白く浮き出るほど強く、私の服を握りしめている。
「落ち着いて。状況を話しなさい」
私は彼女の手を外し、冷ややかに促した。
女の話はこうだ。共同井戸で洗濯をしている僅かな隙に、五歳になる息子がいなくなった。近所の子供たちは「黒い服の男たちに連れて行かれた」と言っているらしい。
神隠しではない。人攫いだ。
この界隈では珍しくもない。借金のかたに売られるか、あるいはもっと悪い目的か。
「金なら払う! これだけしかないけど……!」
女が懐から出したのは、しわくちゃの小銭と、数枚の銀貨だけだった。命の値段にしては安すぎる。
だが、宣伝には十分だ。
「……依頼、受領したわ」
私は窓際に歩み寄ると、空に向かって指を弾いた。
「検索開始」
意識を切り替える。
私の脳裏に、五百の視覚情報が雪崩れ込む。
路地裏、屋根の上、どぶ川の縁。スラム中に散らばった古新聞の「目」が、一斉にターゲットの捜索を開始した。
だが、現実は甘くない。
膨大な画像データが脳を焼くが、肝心の「黒い服の男と子供」が見当たらないのだ。
スラムは迷路だ。入り組んだ路地、重なり合う違法建築の庇、地下水道への入り口。上空からの視点だけでは、死角が多すぎる。
「……くっ」
こめかみに鋭い痛みが走る。
ノイズが酷い。雨音、怒号、蒸気の音。それらが視覚情報と混ざり合い、私の処理能力を削っていく。
見つからない。時間が過ぎれば、子供は帝都の外へ売り飛ばされるか、殺される。
「おい、顔色が悪いぞご主人様。諦めたらどうだ?」
ヒセツが意地悪く囁く。
私は唇を噛み切りそうなほど強く結んだ。
諦める? 私が? この程度の計算も解けずに?
「……視覚を変更」
私は思考を切り替えた。
目で見えないなら、耳で探す。
私は五百の紙人形を、スラムの「風下」へと移動させた。
音を拾う。匂いを拾う。
路地を吹き抜ける風が運んでくる、微かな情報の断片をかき集める。
――鉄の錆びた匂い。
――湿ったカビの臭気。
――そして、微かな、男たちの下卑た笑い声。
座標を絞る。
三番街、旧工業区画。今は使われていない廃倉庫群。あそこなら、屋根があって「目」が届かない。
私は集中力を極限まで高め、その区画に潜伏させていた一枚の紙人形の聴覚感度を最大まで引き上げた。
『……泣くんじゃねえよ、ガキ』
『高く売れるかな、こいつ』
ノイズ混じりの音声。
間違いない。
「……確保」
私は目を開けた。
鼻からツーと熱いものが垂れる。限界ギリギリだった。
「三番街の廃倉庫、B棟。……急ぐわよ」
*
廃倉庫の鉄扉は、錆びついて赤茶けていた。
中から漏れる声を再確認する。間違いない、ここにいる。
「おい、どうするんだご主人様」
私の影に潜んでいたヒセツが、音もなく実体化した。
「相手は人間だ。しかも三人。お前のようなひ弱な女が正面から入れば、慰み者にされて終わりだぞ? 俺が皆殺しにしてやろうか?」
「結構よ。……氣の無駄遣いだわ」
私はヒセツを制し、鉄扉を蹴り開けた。
ガンッ! と大きな音が反響し、倉庫内の空気が凍る。
薄暗い屋内には、木箱に縛り付けられた少年と、それを囲む三人の男たち。見るからに質の悪いゴロツキだ。
「あぁ? なんだ姉ちゃん。迷子か?」
リーダー格らしき大柄な男が、ナイフを弄びながらニヤついた。
彼らは私を値踏みするように舐め回し、嗜虐的な視線を送ってくる。
「……ここから立ち去りなさい。その子を置いて」
私が淡々と告げると、男たちは顔を見合わせ、爆笑した。
「ハハハ! 傑作だ! おい聞いたか、このアマ! 震えてるくせに命令しやがった!」
男の一人が歩み寄ってくる。
私は動かない。震えているのは恐怖ではない。脳のオーバーヒート寸前の興奮を抑え込んでいるからだ。
「おいおい、いい女じゃねえか。ガキのついでに、こいつm……」
男が私の肩に手を伸ばした、その瞬間。
「窒息」
私は指先を振るった。
頭上の梁に張り付いていた数百の「古新聞」が、一斉に剥がれ落ちた。
白い嵐が男たちを襲う。ただ舞っているのではない。明確な殺意を持って、彼らの「呼吸器」に殺到したのだ。
「ぐ、がッ!?」
男の顔面に、濡れた新聞紙が張り付いた。一枚、二枚、十枚。
男は悲鳴を上げようとして息を吸い込み、さらに紙を口内へと引き込んだ。
人間の呼吸反射を利用した、単純な物理攻撃。
「ぐ、お、ご……ッ!!」
男はのたうち回り、自分の顔を爪で掻きむしる。だが、唾液と脂で湿った紙は、皮膚のように密着して剥がれない。
酸素を求めて喉がヒューヒューと鳴る。顔色がみるみる赤黒く変色し、白目を剥いて泡を吹く。
「な、なんだこれは!? 化け物か!?」
残りの二人も同様だ。鼻と口を塞がれ、視界を奪われ、見えない敵と戦うように空を殴りつけている。
私は窒息寸前の男たちの間を悠然と歩き、縛られた少年の元へ向かった。
縄を解くと、少年は私の服にしがみついて泣き出した。
「……殺しはしないわ。死体の処理が面倒だから」
私は床を転げ回る男たちを見下ろし、指を鳴らした。
顔に張り付いていた紙が一斉に剥がれ落ちる。
男たちは、陸に上がった魚のように口をパクパクさせ、大量の空気を貪った。
「ぜぇ、はぁ、ぁ……!」
「二度とこの街で商売するんじゃないわよ。次は、肺の中まで詰め込んであげる」
私の警告に、男たちは失禁しながら何度も頷き、這うようにして逃げ出した。
*
倉庫の外には、いつの間にか人だかりができていた。
母親が泣きながら息子を抱きしめる中、彼らは私を遠巻きに見つめていた。
そこに軽蔑や嘲笑はない。
あるのは、理解不能な「力」に対する、純粋な畏怖だけだった。
「……おい、見たかよ。あの紙……」
「指一本触れずに、あのゴロツキどもを……」
「本物だ……『紙屑の魔女』だ……」
さざ波のように、その名が広がっていく。
私はドレスの裾を翻し、彼らの視線を背中で受け止めながら歩き出した。
「やるじゃないか、ご主人様」
ヒセツが私の横に並び、皮肉っぽく笑った。
「脳を焼き切る寸前まで計算して、ただのゴミで人間を屈服させるとはな。……性格が悪いにも程がある」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
私は小さく笑った。
鼻血を拭う手が微かに震えているのを、彼に見えないように隠しながら。
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