第39話 老兵の涙
帝都の北端。華やかな山の手とは対照的な、雑木林に囲まれた古びた平屋。
庭には手入れされていない雑草が生い茂り、錆びついた鉄条網が訪問者を拒絶している。
風が吹くたびに雨戸が軋むその場所は、かつて帝国陸軍・第一魔導師団を率いた英雄、宗像元少将の隠居所だった。
「……帰れ。貴様のような性悪女に書く推薦状など、一枚もない」
薄暗い縁側で、宗像老人は私を見るなり吐き捨てた。
着古した着流し姿。左目には眼帯。顔に刻まれた無数の傷が、彼が生きてきた戦場の過酷さを物語っている。
私は無言で、懐から「裏帳簿」のコピーを取り出し、畳の上に滑らせた。
宗像の現役時代の軍規違反――部下の不始末を隠蔽した記録だ。
「過去の古傷ですわ、閣下。これが公になれば、残された名誉も年金も……」
「下らぬ」
宗像は書類を一瞥もしなかった。
彼は手元の火鉢に、無造作にその紙束を放り込んだ。
ジュッ、という音と共に、私が切り札としていた脅迫材料が灰へと変わっていく。
「なっ……」
「脅しか? そんな紙切れで、儂が動くとでも思ったか」
老人は独眼で私を射抜いた。
そこには、恐怖も動揺もない。あるのは、俗世の全てを諦観した虚無だけだ。
「名誉? 地位? そんなものは三十年前、長安の城壁と共に崩れ落ちたわ」
老人は火箸で灰をかき回しながら、憎々しげに呟いた。
「あの『長安陥落』の戦い……。最前線で血を流し、城門をこじ開けたのは我々軍人だった。だが、凱旋パレードの先頭を歩いたのは誰だ? ……後方で術式を唱えていただけの、陰陽師どもだ」
彼の言葉に、歴史の教科書には載っていない真実が滲む。
三十年前の大戦。その勝利の実績を独占した陰陽師勢力は、それを政治力に変え、貴族院議会の過半数を乗っ取った。
今の五摂家支配、魔導院の権威主義。その全ての始まりがあの日だったのだ。
武人は排除され、術師が特権階級としてふんぞり返る国。
「奴らは議会を私物化し、国を食い物にした。……儂らが命を懸けて守った国は、こんな陰陽師どもの遊び場ではなかったはずだ」
老人の目には、深い絶望と、決して消えない憤怒の炎が燻っていた。
私は一歩、縁側に踏み出し、靴のまま庭の土を踏みしめた。
この老人に必要なのは、損得ではない。「弔い合戦」の狼煙だ。
「同感です。……ですから私は、その狐の巣穴を焼き払いに来ました」
老人が顔を上げた。
「九条鷹人。五摂家。魔導院。……彼らが作った既得権益という名の城壁を、私が内側から食い破ります。長安の城壁のように」
私は彼を真っ直ぐに見つめた。
「彼らが積み上げた『法』と『権威』を、私が新しい理で解体し、更地に戻してみせる。……陰陽師が支配するこのふざけた時代を、私の手で終わらせます」
綺麗事ではない。私の個人的な復讐だ。
だが、その破壊衝動は、老人が三十年間抱え続けてきた無念と、奇妙に共鳴していた。
「私の目をご覧なさい、閣下。……これが、ただお勉強がしたいだけの小娘の目に見えますか?」
私の瞳の奥にある昏い炎。
彰を失い、全てを奪われ、それでも世界に牙を剥く狂気。
老人は、私の瞳に吸い込まれるように息を呑んだ。
――あの方だ。
老人の脳裏に、遠い日の記憶が鮮烈に蘇る。
まだこの国が「侍」の国だった頃。
松下村塾で学び、革命のために命を燃やし、初代内閣総理大臣となった男。
若き日の伊藤博文。
かつて老人が憧れ、共に戦場を駆けたその英雄の瞳に宿っていた、世界を焼き尽くすような狂気が、目の前の少女の姿に重なった。
理屈ではない。
ただ、「許せない」という激情だけで時代をひっくり返そうとする、美しい怪物の目。
「……ふ、ふふふ」
老人の喉から、乾いた音が漏れた。
やがてそれは、腹の底からの哄笑へと変わった。
枯れ木のような体に血が巡り、目尻に涙が浮かぶ。
「カッカッカ! 面白い! まさか死ぬ間際に、こんな化物にお目にかかるとはな!」
老人は笑い涙を指で拭うと、震える手で筆を執った。
迷いはない。羊皮紙の上を、筆が踊るように走る。
「持って行け、日野の娘よ。……その狂気で、陰陽師どもの喉笛を食いちぎってやれ」
渡された推薦状には、元帝国陸軍少将としての力が込められた、力強い署名があった。
それは、ただの書類ではない。
敗れ去った武人たちから、次代の革命家への、復讐の委任状だった。
私はそれを恭しく受け取り、深く頭を下げた。
「感謝いたします、閣下。……必ずや、素晴らしい火事をご覧に入れましょう」
私はヒールを鳴らし、錆びついた門を出た。
これで、全ての手札は揃った。
背中で老人の高笑いが響いていた。それは、これから始まる動乱を予祝する歌のように、寂れた雑木林にいつまでも木霊していた。
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