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第35話 夢枕(2回目)

 九条家の屋敷から戻った私は、泥のように眠っていた。

 肉体的な疲労ではない。あの男――九条鷹人から受けた侮辱に対する怒りで、脳が焼き切れそうだったからだ。

 深い闇の中へ沈んでいく意識。

 その底で、私は白い霧の中に立っていた。


 日野家の庭園。

 そこで、一人の青年が彼岸花を眺めていた。

 黒髪に、縁無しの眼鏡。優しげで、どこか儚げな背中。


「……あきら?」


 私が呼びかけると、彼はゆっくりと振り返った。

 彰だ。ヒセツが見せた死体姿ではない。記憶の中のままの、穏やかな彼。

 だが、その表情はどこか困ったような、苦笑いを浮かべていた。


「……桜子。またそんな怖い顔をして」


 彰が私の名を呼ぶ。その声は、春の日差しのように温かく、私の強張った心を溶かそうとする。


「もういいんだ。引き返してくれ」


 彰は静かに首を横に振った。


「これ以上、進んではいけない。あの男……九条鷹人に関わってはいけない。君が傷つく姿を見たくないんだ」

「……は?」

「忘れて、どこか遠くで幸せに暮らしてくれ。君は、君のままでいてくれ。私が愛した、清らかな桜子のままで……」


 それは、どこまでも優しい、私を案じる夫としての言葉だった。

 生前の彼なら、きっとそう言っただろう。復讐なんて忘れて、平穏に生きてくれと。


 ――ふざけないで。


 私の腹の底から、どす黒い熱が湧き上がった。

 それは悲しみではない。苛立ちだ。


「……私を、馬鹿にしないで」


 私は彼を睨みつけた。


「私が傷つく? 可哀想だから逃げろ? ……貴方まで、私を『守られるだけの弱い女』として扱うの?」


 叔父も、九条も、そして目の前の彰さえも。

 どいつもこいつも、私を憐れみ、同情し、勝手に私の限界を決めつけてくる。


「冗談じゃないわ。……ここで尻尾を巻いて逃げたら、私は一生、あの男たちに『所詮は女だ』と嘲笑われることになる。そんな屈辱、死んでも御免よ」


 私は彰に一歩近づいた。


「私は貴方のために戦うんじゃない。私のために戦うの。私をコケにした連中を、土下座させるために!」


 私は彼が差し伸べてきた手を、思い切り振り払った。

 パチン、と乾いた音が霧の中に響く。

 だが、彰は驚かなかった。

 それどころか、私の剣幕を見て、ふっと肩の力を抜き、呆れたように、けれど愛おしそうに微笑んだ。


「……ああ、やっぱり。君はそういう人だね」

「な、何よ」


 予想外の反応に、私はたじろいだ。


「君は昔から、一度言い出したら聞かない。負けず嫌いで、強情で……私が守ってあげようとしても、『余計なお世話よ』と肘鉄を食らわせる」


 彰はクスクスと笑い、私の頭にそっと手を伸ばした。

 今度は、振り払えなかった。


「私の知っている桜子だ。……清らかで大人しい花嫁なんかじゃなかったね。ごめんごめん」

「……っ! わ、笑うな、馬鹿!」


 私は顔が熱くなるのを感じた。

 この人には敵わない。私の虚勢も、プライドも、全てお見通しだ。

 悔しいけれど、その温かい手の感触が、どうしようもなく心地よい。


「行くといい。……君の気が済むまで、暴れておいで」


 彰の手が離れていく。

 彼の姿が、霧に溶け始める。


「でも、これだけは覚えておいて。……どんなに泥にまみれても、君は私の一番美しい人だよ」

「……うるさいわね。知ってるわよ、そんなこと」


 私はそっぽを向きながら、消えゆく彼に向かって悪態をついた。

 でも、声が少し震えてしまったのは、きっと霧のせいだ。


 ハッとして、私は目覚めた。

 万屋の薄暗い天井。窓の外はまだ夜明け前だ。

 頬が少し熱い。

 あんな夢を見るなんて。


「……調子が狂うわ」


 私は小さく呟き、シーツに顔を埋めた。

 でも、不思議と胸のつかえは取れていた。

 もう、迷いはない。


 私はベッドから起き上がり、鏡の前へ立った。

 映っているのは、やつれた、けれど不敵な笑みを浮かべた女の顔。

 夫のお墨付きをもらった、最強の復讐者だ。


「見ていなさい、彰。……貴方が惚れた女がどれだけ恐ろしいか、世界中に知らしめてあげるから」


 私は鏡の中の自分にウィンクを投げた。

 さあ、夜明けだ。狩りの時間だ。

ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。

次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。

作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/

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