第32話 空っぽの金庫
嵐のような夜が明けた。
叔父・重道が特高警察に連行された後、日野家の本邸は死んだように静まり返っていた。
使用人たちは昨夜の騒ぎに恐れをなして逃げ出し、残っているのは広大な屋敷と、破壊された調度品の山だけだ。
「……静かね」
私はメインホールの瓦礫をヒールで踏み越え、再び二階の書斎へと向かった。
私の家。私の城。
それを取り戻したはずなのに、胸にあるのは達成感ではなく、焦げ付くような乾きだけだった。
「おい、女王様。まずは腹ごしらえにしないか? 厨房にまたローストビーフがあったぞ」
ヒセツが欠伸をしながらついてくる。
私は彼を無視して書斎に入り、昨夜こじ開けた金庫の前に立った。
中には、叔父の裏帳簿と、まだ手付かずの資産管理ファイルが残されているはずだ。
私は帳簿を広げ、電卓も使わずに、目にも止まらぬ速さで数字を追った。
ページをめくる音が、部屋に虚しく響く。
数分後。
私はパタンと帳簿を閉じた。
「……笑えるわね」
「あん? 大金持ちに戻ったんじゃないのか?」
「逆よ。……すっからかん」
私は帳簿を放り投げた。
数字の上では、日野家の資産は叔父の浪費によって食いつぶされていたのではない。
もっと計画的に、合法的に、移動させられていたのだ。
不動産の権利、特許使用料、株式、そして銀行預金に至るまで。
叔父が当主代行を務めていた数ヶ月の間に、その大半が寄付や投資という名目で、ある一つの口座へ送金されていた。
送金先の名義は、九条家。
「叔父様は、ただの中継地点だったのよ。日野家の富を吸い上げ、九条へ流すためのね」
叔父は当主の座という餌に釣られ、家の財産を九条へ貢いでいた。
おそらく、昨夜公開した売買契約書は、その仕上げだったのだろう。あれが成立していれば、日野家は抜け殻どころか、名実ともに消滅していたはずだ。
「……ふん。気に食わねえな。俺の獲物が食い荒らされた後ってのは」
ヒセツが不機嫌そうに牙を剥く。
私も同感だ。だが、私の怒りの矛先は金ではない。
私はデスクに置かれた、一枚の写真を手に取った。
生前の彰と、私が並んで写っている結婚写真。
その写真立てのガラスには、襲撃事件の際のヒビが入ったままだ。
(……おかしいわ)
ふと、冷たい違和感が脳裏をよぎった。
叔父・重道は、小心者で俗物だ。金と地位への執着は人一倍だが、権威というものを過剰に恐れる男だ。
そんな男が、私だけでなく、あの彰を殺す計画を立てただろうか?
彰は、五摂家筆頭である近衛家の血筋だ。
たとえ傍流とはいえ、近衛の人間を殺せば、どのような報復を受けるかわからない。叔父のような保身の塊が、日野家の当主になりたいというだけの理由で、そこまでの特大のリスクを冒すとは思えない。
それに、襲撃はあまりに手際が良すぎた。
私たちが移動するルート、護衛の配置、そして逃走経路の遮断。
まるで、警察や軍の作戦行動のように無駄がなかった。
あれは、叔父のような素人が立てられる作戦ではない。
「……掃除、ね」
私はポツリと呟いた。
叔父が私を殺そうとしたのは、単に自分が当主になりたかったからだけではない。
もっと大きな力――九条鷹人の意志が働いていたのではないか?
九条が日野家の資産を欲していたのは明白だ。
だが、彼は彰が死ぬことも計算に入れていたはずだ。あるいは、近衛家の人間が死ぬことを黙認できるほどの権力が、彼にはあるということか。
「……九条鷹人」
私はその名を噛み締めた。
まだ確証はない。これは状況証拠からの推論に過ぎない。
だが、もし彼がこの一件を主導したのなら、叔父など比較にならないほどの怪物が、そこにいる。
「ヒセツ」
「なんだ」
「予定変更よ。……この家を掃除したら、出かけるわ」
私は写真立てを伏せ、立ち上がった。
「奪われたものを取り返しに行く。金も、誇りも。……そして、真実もね」
ターゲットは明確だ。
帝都の支配者、九条鷹人。
彼に会いに行かなければならない。この空っぽの金庫の落とし前をつけさせるために。
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