表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/35

第3話 主従の定義

 現実は、数式のように冷徹だ。

 生きるためには、カロリーが必要であり、それを確保するためには通貨が必要となる。

 そして今の私の財布の中身は、限りなくゼロに収束していた。


「……計算が合わないわね」


 文机の上で家計簿(といっても、拾った裏紙だが)を睨みつけ、私は溜息をついた。

 スラムでの潜伏生活に必要なコスト。道具の調達費。そして、この大飯食らいの神魔を現界させておくための維持費。

 どう計算しても、マイナスだ。


「おやおや、眉間に皺が寄っているぞ、ご主人様」


 ヒセツが、天井の梁から逆さまにぶら下がりながら声をかけてきた。

 重力を無視したその姿は、まるで悪趣味な蝙蝠だ。


「金がないなら、俺が調達してきてやろうか? そこの通りを歩く人間を一人吊るして、財布を抜き取れば済む話だ」

「却下よ。……私の美学に反するわ」

「美学? ハッ、乞食の分際で高尚なことだ」


 ヒセツは音もなく床に着地すると、私の背後へ回り込んだ。

 首筋に、冷たい氣の余波が這う。

 私が張り巡らせた「拘束術式」がある以上、彼は私に物理的な危害を加えることはできない。

 だからこそ、この悪魔は別の手で私を支配しようと試みたようだ。


「なあ、桜子。お前はまだ分かっていないようだが、俺は羅刹級の『神魔』だぞ? ごっこ遊びに付き合う義理はない」


 彼の声色が、変わった。

 低く、甘く、そして鼓膜が震えるほど懐かしい響きへと。


「……無理をしていないかい? 可哀想な桜子」


 ペンを持つ手が止まる。

 振り返ると――そこにいたのは、ヒセツではなかった。


 穏やかな目元。少し癖のある黒髪。

 あの日、炎の中で散ったはずの、最愛の夫。


「……」

「ああ、辛かったね。僕が慰めてあげるよ」


 彰の顔をした「それ」が、優しく微笑んだ。

 その表情は、記憶の中の彼そのものだった。完璧な模倣。

 だが、その瞳の奥底には、私の動揺を楽しんで嗤う、冷酷な獣の光が宿っている。


「こっちへおいで。君のその傷ついた魂を、僕が癒やしてあげる」


 偽物が、手を伸ばしてくる。

 私の頬に触れようとするその指先は、冒涜的なほどに優しげだった。

 物理的な暴力が通じないなら、心に入り込んで内側から喰い破る。それが神魔の搦め手。


 だが、あいにくだったわね。

 私は、そこまで感傷的な女じゃない。

 愛しているからこそ。彼を神聖視しているからこそ。

 その顔で、そんな下卑た真似をされることは――私の世界において、万死に値する。


「……のこぎり」


 私は彼の手を払うことすらなく、冷徹に宣告した。


「え?」


 間抜けな声を上げた偽物の彰に向け、私は無慈悲に詠唱を叩きつけた。


「オン・ギリ・ギリ・ノコビキ・ウン ヒセツ・ナフ・サツ・サツ」


 瞬間、ヒセツの体が弓なりに跳ねた。


「ガッ……ァアアアアッ!?」


 彼は私の頬に触れる寸前で手を引き、その場に崩れ落ちた。

 自分の体を抱きしめ、床を転げ回る。

 血は出ていない。傷一つない。

 だが、彼の構成要素である「氣」そのものに、錆びついた鋸が食い込んでいるのだ。ギコ、ギコと、神経を直接ヤスリで削られるような幻痛が、一定の周期で彼を襲う。


 私は鼻からツーと垂れる鮮血を手の甲で拭い、転げ回る彼を見下ろした。

 脳が焼けるように熱い。

 彼が部屋に入った瞬間から、私は部屋の四隅に配置した術式を起動させていたのだ。彼の存在を定義する氣の波長を計算式で囲い込み、その循環を強制的に阻害する拷問術式。


「物理的に攻撃できないなら、精神を攻めればいいとでも思った? ……浅はかね。あんたが私を舐めて不用意に近づくことさえ、計算済みよ」


 私は動けないヒセツの胸ぐらを掴み、その顔を至近距離で睨みつけた。


「いいこと、ヒセツ。よく聞きなさい」


 私は彰の顔をした彼に、唾を吐きかけるように告げた。


「あんたは神でもなければ、私の恋人でもない。ただの『道具』よ。私の復讐を遂行するための、便利なシステムに過ぎない」

「……ぐ、ぅ……、この、人間風情が……ッ!」

「機能美のない道具は、叩いて直す。……次、その顔を使って私を侮辱したら、術式を書き換えて、その舌を使えなくしてやるわ」


 私の言葉に合わせて、見えない鋸が彼の氣を深々と引き裂く。

 ヒセツは苦悶の表情を浮かべ、やがて忌々しげに舌打ちをした。

 ポン、と煙が弾ける。

 彼は彰の姿を解き、元の銀髪の少年の姿に戻っていた。額には脂汗が滲んでいる。


「……チッ。分かった、分かったよ! 止めろ、ご主人様!」

「謝罪は?」

「……悪趣味な冗談でした。申し訳ありません」


 屈辱に顔を歪めながら、彼は絞り出した。

 私は手のひらをクルリと返す。

 途端に、ヒセツを苛んでいた幻痛が霧散した。


 ドサリと床に膝をついたヒセツは、肩で息をしながら、私を睨み上げた。その瞳には殺意と、そして隠しきれない僅かな戦慄が混じっていた。


「……覚えておけよ、桜子。いつかその計算が狂った時、真っ先にお前の氣を喰らい尽くしてやる」

「ええ、楽しみにしているわ」


 私はハンカチで鼻血を拭き取り、再び文机に向かった。

 手は震えている。脳の血管が切れそうなほどの負荷だった。だが、ここで弱みを見せるわけにはいかない。


 私は山積みの古新聞と和紙の束を引き寄せた。


「さあ、遊んでいる暇はないわ。開業準備よ」

「……何をする気だ?」

「決まっているでしょう。ゴミを金に変えるのよ」


 私はハサミを手に取り、紙の束に刃を入れた。

 ジョキ、ジョキ、という無機質な音が、廃屋に響き始めた。

ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。

次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。

作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/

Xアカウント:@tukimatirefrain

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ