第3話 主従の定義
現実は、数式のように冷徹だ。
生きるためには、カロリーが必要であり、それを確保するためには通貨が必要となる。
そして今の私の財布の中身は、限りなくゼロに収束していた。
「……計算が合わないわね」
文机の上で家計簿(といっても、拾った裏紙だが)を睨みつけ、私は溜息をついた。
スラムでの潜伏生活に必要なコスト。道具の調達費。そして、この大飯食らいの神魔を現界させておくための維持費。
どう計算しても、マイナスだ。
「おやおや、眉間に皺が寄っているぞ、ご主人様」
ヒセツが、天井の梁から逆さまにぶら下がりながら声をかけてきた。
重力を無視したその姿は、まるで悪趣味な蝙蝠だ。
「金がないなら、俺が調達してきてやろうか? そこの通りを歩く人間を一人吊るして、財布を抜き取れば済む話だ」
「却下よ。……私の美学に反するわ」
「美学? ハッ、乞食の分際で高尚なことだ」
ヒセツは音もなく床に着地すると、私の背後へ回り込んだ。
首筋に、冷たい氣の余波が這う。
私が張り巡らせた「拘束術式」がある以上、彼は私に物理的な危害を加えることはできない。
だからこそ、この悪魔は別の手で私を支配しようと試みたようだ。
「なあ、桜子。お前はまだ分かっていないようだが、俺は羅刹級の『神魔』だぞ? ごっこ遊びに付き合う義理はない」
彼の声色が、変わった。
低く、甘く、そして鼓膜が震えるほど懐かしい響きへと。
「……無理をしていないかい? 可哀想な桜子」
ペンを持つ手が止まる。
振り返ると――そこにいたのは、ヒセツではなかった。
穏やかな目元。少し癖のある黒髪。
あの日、炎の中で散ったはずの、最愛の夫。
「……」
「ああ、辛かったね。僕が慰めてあげるよ」
彰の顔をした「それ」が、優しく微笑んだ。
その表情は、記憶の中の彼そのものだった。完璧な模倣。
だが、その瞳の奥底には、私の動揺を楽しんで嗤う、冷酷な獣の光が宿っている。
「こっちへおいで。君のその傷ついた魂を、僕が癒やしてあげる」
偽物が、手を伸ばしてくる。
私の頬に触れようとするその指先は、冒涜的なほどに優しげだった。
物理的な暴力が通じないなら、心に入り込んで内側から喰い破る。それが神魔の搦め手。
だが、あいにくだったわね。
私は、そこまで感傷的な女じゃない。
愛しているからこそ。彼を神聖視しているからこそ。
その顔で、そんな下卑た真似をされることは――私の世界において、万死に値する。
「……のこぎり」
私は彼の手を払うことすらなく、冷徹に宣告した。
「え?」
間抜けな声を上げた偽物の彰に向け、私は無慈悲に詠唱を叩きつけた。
「オン・ギリ・ギリ・ノコビキ・ウン ヒセツ・ナフ・サツ・サツ」
瞬間、ヒセツの体が弓なりに跳ねた。
「ガッ……ァアアアアッ!?」
彼は私の頬に触れる寸前で手を引き、その場に崩れ落ちた。
自分の体を抱きしめ、床を転げ回る。
血は出ていない。傷一つない。
だが、彼の構成要素である「氣」そのものに、錆びついた鋸が食い込んでいるのだ。ギコ、ギコと、神経を直接ヤスリで削られるような幻痛が、一定の周期で彼を襲う。
私は鼻からツーと垂れる鮮血を手の甲で拭い、転げ回る彼を見下ろした。
脳が焼けるように熱い。
彼が部屋に入った瞬間から、私は部屋の四隅に配置した術式を起動させていたのだ。彼の存在を定義する氣の波長を計算式で囲い込み、その循環を強制的に阻害する拷問術式。
「物理的に攻撃できないなら、精神を攻めればいいとでも思った? ……浅はかね。あんたが私を舐めて不用意に近づくことさえ、計算済みよ」
私は動けないヒセツの胸ぐらを掴み、その顔を至近距離で睨みつけた。
「いいこと、ヒセツ。よく聞きなさい」
私は彰の顔をした彼に、唾を吐きかけるように告げた。
「あんたは神でもなければ、私の恋人でもない。ただの『道具』よ。私の復讐を遂行するための、便利なシステムに過ぎない」
「……ぐ、ぅ……、この、人間風情が……ッ!」
「機能美のない道具は、叩いて直す。……次、その顔を使って私を侮辱したら、術式を書き換えて、その舌を使えなくしてやるわ」
私の言葉に合わせて、見えない鋸が彼の氣を深々と引き裂く。
ヒセツは苦悶の表情を浮かべ、やがて忌々しげに舌打ちをした。
ポン、と煙が弾ける。
彼は彰の姿を解き、元の銀髪の少年の姿に戻っていた。額には脂汗が滲んでいる。
「……チッ。分かった、分かったよ! 止めろ、ご主人様!」
「謝罪は?」
「……悪趣味な冗談でした。申し訳ありません」
屈辱に顔を歪めながら、彼は絞り出した。
私は手のひらをクルリと返す。
途端に、ヒセツを苛んでいた幻痛が霧散した。
ドサリと床に膝をついたヒセツは、肩で息をしながら、私を睨み上げた。その瞳には殺意と、そして隠しきれない僅かな戦慄が混じっていた。
「……覚えておけよ、桜子。いつかその計算が狂った時、真っ先にお前の氣を喰らい尽くしてやる」
「ええ、楽しみにしているわ」
私はハンカチで鼻血を拭き取り、再び文机に向かった。
手は震えている。脳の血管が切れそうなほどの負荷だった。だが、ここで弱みを見せるわけにはいかない。
私は山積みの古新聞と和紙の束を引き寄せた。
「さあ、遊んでいる暇はないわ。開業準備よ」
「……何をする気だ?」
「決まっているでしょう。ゴミを金に変えるのよ」
私はハサミを手に取り、紙の束に刃を入れた。
ジョキ、ジョキ、という無機質な音が、廃屋に響き始めた。
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