第23話 喪服への変身(ショータイム)
警備室の扉を背中で閉めると、そこは静寂と微かな駆動音に満ちていた。
壁一面に埋め込まれた巨大な水晶盤が、屋敷中の霊的数値をリアルタイムで表示している。結界の強度、招待客の魔力反応、そして廊下を巡回する警備兵の位置。
ここが日野家の防衛システムの中枢だ。
「……タマの言った通りね。誰もいない」
私は部屋を見渡した。
当直の陰陽師が飲んでいたであろう茶が、まだ湯気を立てている。急な腹痛か、あるいは別の用事で席を外しているのか。
どちらにせよ、あの異質なメイドが私のために道を空けたことだけは確かだ。気味は悪いが、利用できるものは利用する。
私は水晶盤の前に立った。
盤面には、光のラインが幾何学模様を描き、複雑に明滅している。これが屋敷全体を覆う結界の制御回路だ。
「……さて。心臓外科手術の時間よ」
私は懐から、あの白い絶縁手袋を取り出し、両手に装着した。
朱色の経文が、水晶の青い光を吸って鈍く輝く。
指を鳴らし、感覚を研ぎ澄ます。
バッ!
私は躊躇なく、水晶盤の表面に展開されている「光のライン」そのものに指を突っ込んだ。
バチバチバチッ!!
激しい火花が散り、部屋全体が明滅する。
重い。
帝都の氣導管ほどではないが、それでも数百年の歴史を持つ名家の結界だ。拒絶の意志が、泥のような圧力となって私を押し返そうとする。
だが、私の手袋はそれを「物理的」にねじ伏せる。
「……認証領域、捕捉。……警報ライン、切断」
私は脂汗を流しながら、空中に浮かび上がる光の糸を指先で摘み、引きちぎり、そして結び直していく。
魔力を持たない私には、遠隔操作などできない。
だからこそ、こうして直接、配線盤に指を突っ込み、エネルギーの流れを物理的に組み替えるしかない。
ブォン……。
低い唸り声を上げて、水晶盤の光の色が変わった。
赤から、青へ。
拒絶から、受容へ。
「……システム掌握。メインホール、照明制御、音響設備……全アクセス権限を奪取」
私は震える手で、最後の一本を結び終えた。
これで、この屋敷は私のものだ。
警報は鳴らない。扉もロックされない。私が歩く道は、すべて自動的に開かれる。
「……ふぅ」
私は手袋を外し、大きく息を吐いた。
額の汗を拭うと、手に黒い煤がついた。給仕に変装するために塗った汚れだ。
「……汚らわしい」
私は近くにあった布巾で、顔の煤を乱暴に拭い取った。
もう、隠れる必要はない。
ネズミの時間は終わりだ。ここからは、女主人の時間。
私は着ていた給仕服の胸元に手をかけた。
安っぽい布地。薄汚れたエプロン。
指に力を込める。
ビリッ!
ブチブチブチッ!!
ボタンが弾け飛ぶ音が、静かな部屋に響いた。
私は給仕服を左右に引き裂き、脱ぎ捨てた。
薄汚れた皮を脱ぎ捨てたその下から現れたのは、闇よりも深い漆黒。
――リメイクされた、黒紋付のドレス。
肌に吸い付くような絹の光沢。
大胆に露出した背中が、室内の冷気に晒されて粟立つ。
だが、その寒ささえも心地よい。
コルセットできつく締め上げられた腰。深くスリットが入ったスカート。そして胸元に輝く、純白の「上がり藤」。
私は割れた鏡の破片を拾い上げ、口紅の状態を確認した。
鮮血のような赤は、まだ落ちていない。
髪を束ねていた三角巾を取り払い、手櫛で乱れた黒髪をかき上げる。
「……待たせたな」
背後の通気口から、ヒセツが音もなく降り立った。
彼もまた、作業着を脱ぎ捨て、下に着込んでいた燕尾服姿に戻っている。
その顔には、埃と汗が少しついているが、それがかえって野性的な色気を醸し出していた。
ヒセツは私を見て、口笛を吹いた。
「へぇ。……馬子にも衣装とは言ったもんだ」
「減らず口を」
「違いない。……だが、悪くないぜ。その殺気立った背中」
ヒセツは私の背後に立ち、落ちていた埃まみれの給仕服を蹴飛ばした。
「準備はいいか? 女王様」
「ええ。舞台装置は整ったわ」
私は水晶盤を操作し、メインホールの照明パターンをセットした。
叔父が用意した退屈な演出は、すべてキャンセルした。
代わりに流すのは、地獄の底から響くようなレクイエム――ではなく、とびきり優雅で、残酷なワルツだ。
「さあ、ヒセツ。地味な裏方は終わりよ」
私はドレスの裾を翻し、警備室の扉を開けた。
その先には、煌びやかな光と音楽が溢れるメインホールが待っている。
「……派手に行きましょう」
私の言葉に合わせて、遠くでファンファーレが鳴り響いた。
それは叔父のためのものではない。
私たちが乱入するための、開戦の合図だ。
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