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第22話 サボり魔のタマ

 厨房の裏手にある廊下は、薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。

 表の喧騒が嘘のように遠ざかり、時折、配管の中を水が流れる音だけが響く。


「……ヒセツ、貴方はその酒樽を倉庫へ運んで。私はその隙に、別館の警備室を制圧するわ」


 私は声を潜め、ヒセツに指示を出した。


「おい、一人で行くのか? 護衛なしじゃ危ないぞ」

「大丈夫よ。この時間は警備の交代タイミング。それに、給仕の格好をしていれば、怪しまれることはないわ」


 私はヒセツと二手に分かれ、単身、屋敷の中枢へと繋がる廊下を進んだ。

 かつて暮らしていた家だ。地図を見なくとも、使用人が使う隠し通路や死角は熟知している。

 足音を消し、呼吸を整える。ここまでは完璧だ。私の式に狂いはない。


 角を曲がった先。

 廊下の突き当たりにある給仕用の配膳室から、咀嚼音が聞こえてきた。


 クチャ、クチャ……。


 私は足を止めた。

 誰かいる。壁に張り付きながら中の様子を窺う。


 そこにいたのは、一人のメイドだった。

 年齢は私より少し下だろうか。豪奢なフリルのついたメイド服を着ているが、その着こなしはだらしなく、エプロンの紐は解けかけている。

 彼女は立ったまま、銀の大皿に乗ったローストビーフを手掴みで貪り食っていた。

 口の端から赤い肉汁とソースが垂れ、白いエプロンを汚しているが、彼女は気にする素振りもない。


(……うわ、すごい食べっぷり)


 私は呆気にとられたが、すぐに安堵した。

 警備兵でも陰陽師でもない。仕事に疲れてサボっているだけの、行儀の悪い使用人だ。

 関わる必要はない。無視して通り過ぎればいい。


 私は何食わぬ顔を作り、配膳室の前を素通りしようとした。

 メイドは肉を噛むのに夢中で、こちらを見ていない。

 よし、行ける。


 そう思った、その時だった。


「……ん」


 ガシッ!


 私の右手首が、鉄のような力で掴まれた。


「ひっ!?」


 私は思わず短い悲鳴を上げ、心臓が跳ね上がった。

 いつの間に?

 気配がなかった。足音も、衣擦れの音さえもしなかった。今の今までローストビーフにかぶりついていたはずの彼女が、瞬きする間に私の背後に張り付いていたのだ。


「な、何!?」


 私は驚愕に目を見開き、振り返った。

 至近距離。

 メイドの顔が目の前にあった。

 ガラス玉のような無機質な瞳が、私を覗き込んでいる。


「……匂う」


 彼女は私の手首を掴んだまま、鼻を近づけ、私の首筋のあたりをクンクンと嗅いだ。


「泥と、焦げた鉄の匂い。……それと、懐かしい匂いが混じってる」


 彼女は恍惚とした表情で目を細めた。


「彰の匂い」


 思考が停止した。

 え? 今、何て言ったの?

 彰?

 私の夫の名を、どうしてこの見知らぬメイドが口にする。


「貴女……誰、よ……」


 私の声が震える。

 彼女は私の問いには答えず、つまらなそうに私を見上げた。

 その視線が、私の全身を舐めるように這い回る。

 それは、恋人の新しい女を品定めするような、粘着質で不愉快な視線だった。


「貴女が『奥さん』? 彰が自分の命と引き換えにしてまで守りたかった女」


 彼女は鼻で笑った。


「……ふーん。氣も何もない、ただの空っぽな器じゃない。あーあ、がっかり。こんな凡人のために、彼は死んだの?」


 プツン、と私の中で何かが切れた。

 驚きと恐怖が一瞬で吹き飛び、代わりにどす黒い怒りが湧き上がる。

 この女が何者かは知らない。

 だが、私の夫の死を、その選択を、部外者が「がっかり」などと値踏みすることは許さない。


「……訂正なさい」


 私は彼女の手を振りほどこうと力を込めた。物理的にはびくともしない。だが、睨みつける視線だけは逸らさない。


「私が空っぽ? 節穴ね。ここにはあの人の無念と、復讐の炎が詰まっているわ。……貴女みたいな化け物に、私たちののろいの味が分かって?」


 私は一歩踏み出し、彼女の無機質な瞳を睨み返した。

 数秒の沈黙。

 彼女はキョトンと目を丸くし――次の瞬間、口元を三日月のように歪めた。


「……あはっ」


 それは、無垢で残酷な少女の笑みだった。


「いい性格。……生意気なところは嫌いじゃないわ」


 彼女はパッと私の手を離した。

 そして、ソースのついた指先を舐め取りながら、満足げに喉を鳴らした。


「合格。……その『呪い』、腐る前に使い切りなさいよ」


 彼女は興味を失ったようにあくびをすると、ローストビーフの乗った皿を持ち上げ、廊下の奥を無造作に顎でしゃくった。


「警備室はあっち。……今は誰もいないわ」

「……どういうつもり?」

「特等席で見たいだけ。彰が選んだ『女』が、どんな踊りを見せてくれるのか」


 彼女はそれだけ言い捨てると、ヒラヒラと手を振って、再び配膳室の闇の中へと消えていった。


 私はしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。

 手首には、赤い手形がくっきりと残っている。

 心臓が早鐘を打っている。


 何だったの、あの子は。

 使用人? 彰の知り合い?

 人間離れした動きと、あの不気味な気配。

 頭の中が疑問符で埋め尽くされそうになるが、私は強く頭を振った。


「……考えている時間はないわ」


 私は手首の跡をさすり、自分を鼓舞した。

 誰であろうと関係ない。

 彰が選んだのは私だ。その証明を、今からして見せる。


 私はメイド――タマが消えた闇を一瞥し、逃げるように警備室の方角へと足を向けた。

 ただ、背中にへばりついた「視線」の冷たさだけが、いつまでも消えなかった。

ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。

次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。

作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/

Xアカウント:@tukimatirefrain

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