第20話 いざ、敵地へ
万屋「日野」の重たい扉を背に、私は夜の路地へと踏み出した。
雨上がりのスラム街は、沈殿した汚泥と鉄錆の臭いが充満している。
普段なら顔をしかめるその瘴気も、今夜ばかりは心地よく感じられた。これから向かう場所――香水と宝石と欺瞞に満ちた華やかな夜会に比べれば、この掃き溜めの空気の方がよほど正直で、清浄にすら思える。
「……静かね」
私は灰色のみすぼらしいコートの襟を立て、呟いた。
コートの下には、切り刻んで再構築した漆黒のドレスを隠している。
皮膚一枚隔てた内側に、戦闘用の「喪服」と、懐に忍ばせた数百の紙人形、そしてあの禍々しい絶縁手袋。
傍目にはただの貧しい娘に見えるだろうが、その実態は、火薬を詰め込んだ歩く爆弾だ。
小脇には、風呂敷に包んだ「給仕服」と「作業着」を抱えている。
屋敷の裏口を通過するための、屈辱的な変装道具。
だが、それもまた復讐という舞台を盛り上げるための小道具に過ぎない。
「おい、足元気をつけろよ。水たまりだらけだ」
隣を歩くヒセツが、呆れたように声をかけた。
彼は盗んできた燕尾服を完璧に着こなし、スラムの泥道には似つかわしくない優雅さで歩いている。銀髪が街灯の頼りない光を弾き、その美貌は浮世離れしていた。
すれ違う浮浪者や酔っ払いたちが、ギョッとして道を開ける。彼らは本能で悟っているのだ。この美しい青年が、自分たちとは違う食物連鎖の上にいる捕食者であることを。
「心配無用よ。……この靴は、泥を踏むためにあるんじゃないわ」
私はコツコツと、鉄芯入りのピンヒールを鳴らした。
踵から伝わる硬質な振動が、私の闘争本能を刺激する。
私たちはスラムの入り組んだ路地を抜け、上層区画へと続く長い坂道にかかった。
勾配を登るにつれて、景色が変わっていく。
崩れかけたバラック小屋は姿を消し、整然とした煉瓦造りの建物が増えてくる。ガス灯の光は明るさを増し、路上のゴミも消えていく。
そして、丘の頂上。
そこには、帝都の夜景を見下ろすようにして建つ、壮麗な洋館があった。
日野家本邸。
かつて私が生まれ育ち、父と母と、そして夫・彰と過ごした場所。
今は、強欲な叔父と、その腰巾着たちが占拠する魔窟。
屋敷の窓からは、溢れんばかりの光が漏れている。
シャンデリアの輝き。楽団が奏でるワルツの調べ。
遠目にも、着飾った紳士淑女たちを乗せた高級車が、次々と正門へ吸い込まれていくのが見えた。
「……へえ。随分と派手にやってるじゃないか」
ヒセツが口笛を吹いた。
「五摂家の人間も来てるな。あの紋章は九条家、あれは西園寺家か。……お前の葬式より盛り上がってるぞ」
「ええ、そうね。私の時は、もっと静かで、寒々としていたわ」
私は冷ややかに笑った。
あの日、雨の中で追い出された時の記憶が、鮮明に蘇る。
誰も私を助けなかった。誰も私を見ようとしなかった。
無能な娘。哀れな未亡人。
そうレッテルを貼って、ゴミのように捨てた連中が、今夜あそこに集まっている。
最高じゃない。
全員まとめて、絶望の底に叩き落としてあげる。
「ヒセツ」
私は足を止め、屋敷を見上げたまま名を呼んだ。
「あ?」
「確認しておくわ。……貴方は私の『道具』よ」
私はヒセツを睨みつけた。
かつて、この場所で私は全てを失った。守ってくれる人はもういない。
だからこそ、私は私自身の力で――そして、私が支配する「暴力」で、この場所を奪還しなければならない。
「私の命令なしに動かないこと。私の許可なく人を殺さないこと。そして……私がどんなに無様に泥を這おうとも、最後まで私の『復讐』を見届けること」
ヒセツはポケットに手を突っ込んだまま、面白そうに私を見下ろした。
その深紅の瞳には、かつてのような侮蔑の色はない。
あるのは、狂った共犯者としての、奇妙な信頼のようなもの。
「注文の多い飼い主だ。……だが、悪くない」
ヒセツはニヤリと笑い、牙を覗かせた。
「安心しろ。今の俺にとって、この世で一番美味そうな魂はテメェだ。最高のスパイス(絶望)で味付けされるまで、他の雑魚には手を出さねえよ」
「……上等よ」
私は風呂敷包みを持ち直し、空いている右腕を、少しだけ高く上げた。
それは、夜会へ向かう貴婦人が、パートナーにエスコートを求める仕草。
みすぼらしい灰色のコートを着たまま。
手には安っぽい給仕服を持ったまま。
けれど、その魂だけは、誰よりも高潔な当主として。
「さあ、エスコートなさい。駄犬」
私の言葉に、ヒセツは一瞬きょとんとした後、喉の奥でクツクツと笑った。
そして、芝居がかった優雅な動作で、私の前に跪く真似事をした。
「仰せのままに、女王様」
彼の手が、私の腕を恭しく取る。
その手は冷たく、人間離れした硬さを持っていたが、今の私には何よりも頼もしい支えだった。
「行きましょう。……私の家に」
私たちは腕を組み、光溢れる丘の上へと歩き出した。
スラムの魔女と、人喰いの羅刹。
招かれざる二人の怪物が、今、最も華やかな宴の幕を開けに行く。
遠くで雷鳴が轟いた気がした。
嵐が来る。
いいえ、嵐はもう、ここにある。
ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。
次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です
活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。
作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/
Xアカウント:@tukimatirefrain




