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第19話 鏡の中の魔女

 決戦の夜。

 帝都の空は、鉛を流したような重苦しい雲に閉ざされていた。

 月は見えない。星明かりすら届かない漆黒の天蓋が、湿った街を押し潰すように覆っている。

 雨は上がっていたが、スラム特有の澱んだ空気――腐敗した生ゴミと、鉄錆と、安酒の混じり合った臭気――は、冷たい夜風に吹かれても晴れることはない。


 万屋「日野」の最も奥にある小部屋。

 かつては倉庫として使われていたその狭い空間には、割れたガラスを拾い集めて補修した、等身大の姿見が置かれている。

 私はその鏡の前に立ち、己の姿を凝視していた。


 肌を刺すような冷気の中、私は最後の「着替え」を終えたところだった。


 身に纏うのは、漆黒の絹。

 かつて最愛の夫・彰の葬儀のために袖を通した、由緒ある黒紋付。

 だが、今のそれは、未亡人の慎ましさを象徴する着物ではない。私の鋏と針によって切り刻まれ、再構築された、夜会に相応しいイブニングドレスへと変貌を遂げている。


 最高級の浜ちりめんの生地は、部屋の薄暗い灯りを吸い込み、闇そのもののように沈んでいる。

 その黒が、私の肌の白さを病的なまでに際立たせていた。

 背中は肩甲骨の下まで大胆に切り開かれ、露わになった脊椎のラインが、華奢さと同時に肉感的な生々しさを主張している。

 帯を解いて作り直したコルセット風のベルトが、腰を限界まで締め上げる。呼吸をするたびに肋骨がきしむような圧迫感。だが、その窮屈さが、これから戦場へ向かう私の神経を研ぎ澄ませてくれる。


 そして、左胸――心臓の真上。

 そこには、切り取らずに残しておいた純白の染め抜き紋、「下がり藤」ならぬ日野家本家の証である「上がり藤」が、暗闇の中で唯一の光のように鎮座していた。

 この紋こそが、私が何者であるかを語る唯一の証明。


「……」


 私は無言で、鏡の中の女と視線を絡ませた。

 そこに映っているのは、数ヶ月前、あの大雨の日に屋敷を追い出され、泥水をすすって泣いていた無力な少女ではない。

 頬はこけ、顎のラインは鋭角になり、眼窩の奥には凍てついた殺意の炎が、青白く揺らめいている。


 私は作業机の上に置いてあった、小さな紅筆べにふでを手に取った。

 露店で買った安物の筆だ。だが、それに含ませる紅は、私の全財産をはたいて買った、最高級の京紅。

 水で溶くと、鮮血のように鮮やかな赤が蘇る。


 震える指先を、もう片方の手で押さえつける。

 筆先を、乾燥してひび割れた唇へと運ぶ。


 下唇に、一筋。

 上唇に、一筋。


 モノクロームの世界に、強烈な「赤」が差される。

 それは装飾のための化粧ではない。

 インディアンが戦の前に施すという、戦化粧ウォーペイントそのものだった。

 紅を引いた瞬間、私の顔から「人間らしさ」が抜け落ち、代わりに能面のような、あるいは妖魔のような、異質な美しさが張り付いた気がした。


「……彰」


 私は鏡の向こうの闇に潜んでいるはずの、亡き夫の幻影に語りかけた。

 声に出さず、唇の動きだけで紡ぐ。


「貴方は、私のこの姿を嘆くかしら」


 清らかで、優しくて、世間の汚さを何一つ知らない箱入り娘。

 貴方が命を賭して守ろうとした「日野桜子」は、もう死んだわ。スラムの泥と脂にまみれ、屈辱の中で息絶えた。


 今、ここに立っているのは、貴方のむくろを食い荒らしたハイエナどもを、骨まで噛み砕くために地獄の底から這い戻った怪物よ。

 叔父を欺き、家名を騙り、禁忌の技術テックで結界を破る、稀代の悪女。


「でも、見ていて。……これが、貴方が愛した女の成れの果てよ」


 私は鏡に向かって、艶然と微笑んでみせた。

 口角をつり上げる筋肉の動き一つひとつを意識して作る、完璧な仮面。

 その笑みは、自分でもゾッとするほど冷たく、そして魅惑的だった。


 悲劇のヒロインは舞台を降りた。

 今夜、幕を開けるのは、涙も救いもない、魔女による残虐な復讐劇だ。


 ガチャリ。


 不意に、背後の扉が無造作に開かれた。

 錆びついた蝶番の音が、張り詰めた静寂を引き裂く。


「……準備はいいか、ご主人様」


 ヒセツが部屋に入ってきた。

 彼もまた、いつものボロ布のような格好ではない。

 今夜のために、古着屋の裏倉庫から拝借……いえ、半ば強引に「調達」してきた燕尾服に身を包んでいる。

 サイズはあつらえたようにぴったりで、深紅の裏地がついた黒のジャケットが、彼の銀髪と褐色の肌によく映えていた。

 ただ立っているだけで絵になる。中身が人喰いの羅刹だとは、会場の誰も想像できないだろう。


 彼は鏡越しに私を見て、一瞬だけ足を止めた。

 その深紅の瞳が、細められる。

 値踏みするような視線が、私の足先から頭のてっぺんまでを舐めるように這い上がり、最後に私の赤い唇で止まった。


 そこには、呆れも軽蔑もない。

 あるのは、同類の捕食者を見るような、嗜虐的な称賛の色。そして、これから始まる殺戮への期待に満ちた、昏い熱量だった。


「悪くない。……葬式帰りにしては、随分と派手だ」


 ヒセツは口元を歪め、牙を隠すように笑った。


「その紅、血を吸った後みたいでゾクゾクするぜ」

「褒め言葉として受け取っておくわ」


 私は紅筆を置き、鏡の前から離れた。

 足元には、古道具屋で見つけたピンヒール。ヒールの部分には鉄芯が入っており、踏み抜けば人間の足の甲くらい簡単に砕ける凶器だ。


 そして懐には、あの禍々しい「白手袋」を忍ばせる。

 指先から手首までびっしりと経文が書き込まれた、対魔導絶縁装備。

 さらに、喪服ドレスのスカートのスリットの内側に縫い付けた隠しポケットには、五百枚を超える紙人形(式神)のストックが眠っている。


 最後に、作業用の上着として使っていた地味な灰色のコートを、ドレスの上から羽織った。

 ボタンを首まで留めると、華やかなドレスも、白い肌も、すべて隠れてしまう。

 美しい黒蝶は、まだ繭の中に隠しておかなければならない。

 あの煌びやかな会場の中心、シャンデリアの輝きの下で、劇的に羽化するために。


「行ってきます、あなた」


 私はもう一度だけ、部屋の空気に溶けた夫の気配に別れを告げた。

 未練はない。恐怖もない。

 あるのは、冷徹な計算式と、燃え盛る執念だけ。


「行くわよ、ヒセツ。……迎えの馬車なんてないけれど」

「歩けよ。地獄への道行にはお似合いだ」


 ヒセツがニヤリと笑い、大仰な仕草で扉を開けて待っている。エスコートの真似事だ。


 私はカツカツと硬いヒールの音を響かせ、部屋を出た。

 店の外に出ると、湿った夜風が頬を打った。

 スラムの闇の向こう、遠くに見える小高い丘の上。

 そこには、明々と光が灯り、まるで宝石箱をひっくり返したように輝く日野家の屋敷が見える。

 あの光の一つひとつが、私の不幸の上に成り立っている虚飾だ。


 待っていなさい、叔父様。

 そして、私の席を奪い、のうのうと笑っている客人たちよ。


 本物の当主が、今、帰るわ。

ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。

次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。

作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/

Xアカウント:@tukimatirefrain

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