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第18話 前哨戦

 決戦の前日。

 曇天の帝都は、湿った風が吹き抜けていた。

 私は日野家本邸を望む路地裏の影に身を潜めていた。


 身に纏っているのは、古着屋で調達した作業着と、目深に被ったハンチング帽。顔には煤を塗り、どこからどう見ても、パーティの設営に駆り出された下雇いの労働者にしか見えないはずだ。


「……随分と賑やかだな」


 隣で同じく労働者に変装したヒセツが、退屈そうに欠伸をした。

 彼の言う通り、屋敷の勝手口にはトラックや大八車が列をなし、明日の夜会に向けた食材や装飾品の搬入でごった返していた。


「好都合よ。人の出入りが激しい分、個々の識別が甘くなっている」


 私は懐からオペラグラスを取り出し、勝手口の様子を観察した。

 昨日、図面で確認した通りだ。

 搬入口の柱に埋め込まれた「神魔検問結界」の紋章は、古びて苔むしている。最新鋭のセンサーが導入されている正門とは雲泥の差だ。

 あそこなら、私の白手袋でこじ開けられる。


「ルート確認、完了。……戻るわよ」


 私が踵を返そうとした、その時だった。


 ガシャンッ!


 何かが割れる激しい音が、勝手口の方から響いた。

 搬入作業をしていた若い使用人の少年が、酒瓶の入った木箱を落としたのだ。


「ひぃっ! も、申し訳ありません!」


 少年が青ざめて土下座する。

 その目の前に、豪奢な着流しを着た男が現れた。

 日野重道。今のこの家の支配者であり、私を殺そうとした叔父だ。


「……何をしている」


 重道の声は低く、苛立ちを含んでいた。

 彼は割れた瓶の中身――芳醇な香りを放つ赤ワインが、地面に染み込んでいくのを冷ややかに見下ろした。


「それは明日の夜会で、九条公にお出しするはずのヴィンテージだぞ。……貴様の命より高い」

「お、お許しください旦那様! 手が滑って……」

「滑った?」


 ドガッ。


 重道は無言で、少年の顔面を蹴り上げた。

 少年が悲鳴を上げて転がる。だが、重道は止まらない。執拗に、何度も、何度も、革靴のつま先で少年の腹や背中を蹴り続ける。


「無能が! ゴミが! どいつもこいつも、私の足を引っ張りおって!」


 それは、ただの折檻ではなかった。

 明日の夜会へのプレッシャー、私が生きていたことへの恐怖。それらのストレスを、弱い立場の者にぶつけるだけの、醜い八つ当たりだ。


「……あいつ、俺が殺しておいてやろうか?」


 ヒセツが私の耳元で囁く。その声には殺気が混じっていた。

 彼の瞳は、獲物を前にした獣のように細められている。ここから指を弾けば、空気の刃で叔父の首を飛ばすことなど容易いだろう。


 私は無言でヒセツの腕を掴み、止めた。


「……いいえ」

「何だ、情けか?」

「違うわ」


 私はオペラグラス越しに、血を流してうずくまる少年を見た。

 見覚えがある。

 あれは、まだ私が「お嬢様」だった頃、私が折るための古紙をこっそり集めてきてくれた、心優しい少年だ。

 魔力のない私を馬鹿にせず、慕ってくれていた数少ない味方。


 叔父は、まだ蹴り続けている。

 少年が動かなくなっても、その顔には侮蔑と優越感が張り付いている。

 今ここで殺すのは簡単だ。

 だが、それでは足りない。

 あんな男に一瞬の「死」という安らぎを与えることすら、今の私には我慢ならない。


「……死よりも重いものを背負わせるのよ」


 私はギリリと歯を食いしばり、震える拳を抑え込んだ。

 今、騒ぎを起こせば警備が強化される。そうなれば、明日の計画は水泡に帰す。

 あの子を助けるためにも、今は耐えなければならない。


「社会的抹殺、全財産の没収、そして……生涯消えない恐怖」


 私は叔父の醜い顔を脳裏に焼き付けた。


「待っていなさい、叔父様。……その暴力の代金ツケ、明日の夜に利子をつけて払ってもらうわ」


 重道はようやく気が済んだのか、唾を吐き捨てて屋敷の中へと戻っていった。

 残された少年が、他の使用人たちに抱えられていく。


「……行くわよ、ヒセツ」

「へいへい」


 私たちは影に溶けるようにして、その場を離れた。

 空からは、再び冷たい雨が落ち始めていた。

 偵察は終わりだ。

 次は、本番。

 あの門をくぐる時は、こんな薄汚れた作業着ではない。

 日野家当主の名に相応しい、漆黒の戦闘服ドレスで踏み込んでやる。

ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。

次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。

作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/

Xアカウント:@tukimatirefrain

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