第17話 物理的ハッキング(実践編)
深夜の帝都。スラム街の上空には、上層都市へエネルギーを供給するための巨大な「氣導管」が、黒い大蛇のように張り巡らされていた。
ブォォォォン……という重低音が、頭上で絶えず鳴り響いている。
管の継ぎ目からは、漏れ出した余剰な氣が青白い火花となって散り、周囲の空気を焦がしていた。
「……ここにするわ」
私は、太さ一メートルはある巨大なパイプの真下で足を止めた。
ここは「大動脈」だ。帝都の心臓部から送り出される高出力のエネルギーが、奔流となって流れている。
日野家の結界出力と同等か、それ以上の負荷がかかる場所。実験場としては申し分ない。
「正気か?」
背後で、ヒセツがパイプを見上げて口笛を吹いた。
「ここは高圧送氣管だぞ。触れれば一瞬で炭になる。それに、もし誤って管を破裂させれば、この辺り一帯が吹き飛んで、俺たちは文字通り星になるぜ」
「だからいいのよ。失敗が許されない環境こそが、計算速度を極限まで高めるの」
私は懐から、あの白い手袋を取り出した。
びっしりと書き込まれた朱色の経文が、パイプから漏れる微弱な光を浴びて、毒々しく浮かび上がる。
装着。
指先までしっかりと布を密着させる。
「ヒセツ、万が一私が失敗して黒焦げになったら……私の骨は貴方にあげるわ。カルシウム不足の足しになさい」
「ハッ、骨だけかよ。ケチな飼い主だ」
ヒセツは瓦礫の上に腰を下ろし、特等席で観劇を決め込むようだ。
彼の手出しは無用。これは、私と「物理法則」との決闘だ。
私はパイプの点検用ハッチの前に立った。
本来なら専用の鍵と認証が必要な、頑丈な鉄の扉。その表面には、接触を拒絶するための防護結界が薄く展開されている。
目には見えない。だが、近づくだけで肌がピリピリと痛み、髪の毛が逆立つのが分かる。
「……見える」
私は目を閉じ、脳内で視覚情報を変換した。
肌で感じる静電気、空気の振動、熱の分布。それらを数値化し、逆算する。
闇の中に、幾何学的な「流れ」が浮かび上がる。
赤は高熱。青は冷却。そして黄色が――拒絶の力場。
カッ!
私は目を見開き、迷いなく右手を突き出した。
白い手袋が、見えない「壁」に接触する。
バチバチバチッ!!
激しいスパークが飛び散った。
重い。
まるで高速回転する巨大な歯車の中に、素手を突っ込んだような感覚。
凄まじい反発力が、私の腕を弾き飛ばそうとする。
「ぐっ……!」
私は歯を食いしばり、全身の体重を乗せて踏ん張った。
経文が発光し、手袋の表面で「斥力界」が展開される。
絶縁。拒絶と拒絶の衝突。
その僅かな隙間に、私は指をねじ込んだ。
「掴ん……だ!」
指先に、確かな感触があった。
ヌルリとした、それでいて鋼鉄のように重い、エネルギーの束。
これが「結界のライン」だ。
実体のないはずの氣が、私の手袋越しに、暴れる大蛇のようにのたうち回っている。
「警告が来るぞ」
ヒセツが楽しげに声をかけた。
その通りだ。異物の侵入を感知した防護システムが、迎撃用の電流を流し込もうとしてくる。
熱い。手袋越しでも、指が焼けるような熱を感じる。
ここで手を離せば楽になる。だが、離せば失敗だ。
「……黙りなさい」
私は脂汗を流しながら、脳内計算を加速させた。
迎撃システムの波長を解析。
逆位相の振動を指先から送り込み、物理的に相殺する。
――ねじ切る。
ブチッ。
鈍い音が、私の脳内でのみ響いた。
掴んでいた「警報ライン」を、物理的な力と斥力操作で引きちぎったのだ。
瞬間、手にかかっていた圧力がフッと消えた。
「バイパス手術……完了」
私は切断したラインの端と端を、手際よく結び直した。
ただし、私の侵入を「正規のアクセス」と誤認させるような形にねじ曲げて。
ガコン。
重厚な金属音が響き、目の前の点検ハッチがひとりでに開いた。
警報は鳴らない。
システムは、私が扉をこじ開けたことに気づいてすらしない。
「……ふぅ」
私は大きく息を吐き、膝をついた。
右手から煙が上がっている。
手袋を外すと、手のひらが赤く腫れ上がり、火傷の水膨れができ始めていた。
絶縁手袋の性能限界ギリギリだ。日野家の本番では、もっと手早く、もっと正確にやらなければ、腕ごと持っていかれる。
「……どう? ヒセツ」
私は震える手で汗を拭い、羅刹を振り返った。
ヒセツはニヤリと笑い、ゆっくりと拍手をした。
「悪くない。……泥棒にしちゃ、いい手際だ」
「泥棒じゃないわ。……これは『解錠』よ」
私は腫れた手を握りしめ、痛みを確認した。
この痛みは、私が戦っている証だ。
魔力がなくても、才能がなくても、この手は「理」を掴むことができる。
「さあ、帰りましょう。……明日は本番。叔父様の喉元に、この手を突き立てに行くわよ」
頭上のパイプラインが、変わらず重低音を響かせている。
だが、今の私には、その音が勝利へのファンファーレのように聞こえていた。
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