第16話 物理的ハッキング
スラムの朝は遅い。
万屋「日野」の薄暗い店内で、私は作業机に広げた屋敷の図面を前に、朱墨の筆を走らせていた。
傍らには、完成したばかりの黒いドレスがトルソーにかけられ、静かに「出番」を待っている。
「……で? どうするつもりだ、ご主人様」
ヒセツがリンゴを齧りながら、私の手元を覗き込んだ。
「狙い目は裏口の『神魔検問結界』だというのは分かった。だが、あそこは旧式とはいえ、腐っても名門日野家の結界だぞ。出力はお前が普段相手にしている野良神魔とは桁が違う」
ヒセツの言う通りだ。
結界とは、高密度の「氣」を幾何学的に循環させ、物理的・霊的な壁を作るシステムだ。
通常、これを解除するには、正規の「通行手形(符)」を持つか、あるいは相手を上回る膨大な「氣」をぶつけて中和するしかない。
「お前には『氣』がない。ゼロだ。鍵穴に鍵を差すこともできなければ、扉を蹴破る力もない」
ヒセツは冷徹な事実を突きつけた。
「触れた瞬間に、お前の体は高圧電流を浴びたみたいに黒焦げだ。……あの雨の日、俺を無理やり召喚した時のように、毎回都合よく回路が繋がると思うなよ」
「都合よく? 心外ね」
私は筆を置き、作業台の引き出しから「あるもの」を取り出した。
それは、白地の布手袋だった。
指先から手首に至るまで、極小の文字でびっしりと経文が書き込まれている。陰陽師や神官が、呪われた道具や危険な霊薬を扱う際に着用する、極めて一般的な道具だ。
「……絶縁手袋か。そんなありふれたもん出してどうする」
ヒセツが退屈そうに鼻を鳴らした。
「それは『呪い』が肌に触れないようにするための防具だろ。それを着けて結界に触れば、確かに感電はしないだろうが……それだけだ。扉は開かないぞ」
「ええ。普通の術師ならそう考えるわね」
私は手袋を装着し、指をパチンと弾いてみせた。
経文が朱色に鈍く光る。
「ヒセツ、この世界の現象はすべて物理法則で説明がつくわ。術師たちが扱う『異界の氣』……あれは要するに、高出力のエネルギー流体よ。電信線の中を流れる電気と同じ」
私は図面に書き込んだ結界のラインを指差した。
「結界は、目に見えない電気回路のようなもの。術師たちは、自分の体内に流れる微弱な氣を使って、この回路に『共鳴』し、信号を送って開閉させる。だから魔力(氣の感受性)が必要になる」
そこまでは常識だ。だからこそ、魔力を持たない者は術師になれないと言われている。
「でもね、共鳴が無理なら、直接『配線』を弄ればいいじゃない」
私は白い手袋をはめた手を握りしめた。
「電信技師は、通電したままの電線をどうやって修理すると思う? ……絶縁体で身を守り、物理的に線を掴んで繋ぎ変えるのよ」
ヒセツがリンゴを齧る手を止めた。
その深紅の瞳が、面白そうに細められる。
「お前……まさか、その薄っぺらい布切れ一枚で、結界の奔流を直接掴む気か?」
「ご名答」
私はニヤリと笑った。
「氣はエネルギーの塊。質量がある以上、干渉は可能よ。ただし、生身で触れれば死ぬ。だから、この手袋の『斥力界』を利用するの」
この手袋は本来、呪いを弾くためのものだ。
だが、その反発力を利用すれば、実体のないエネルギーラインを、まるで固形物のように掴むことができる。
「……ハッ、傑作だ」
ヒセツが喉の奥で嗤った。呆れているのではない。明らかに楽しんでいる。
「理論上は可能かもしれないが、それは『落雷』を手で掴んで蝶結びにするようなもんだぞ。結界の出力はお前の許容量を遥かに超えている。一歩間違えれば、手袋ごと腕が炭になって消し飛ぶ」
「だから計算が必要なのよ」
私は自分のこめかみを指先でトントンと叩いた。
「どのラインが『警報』で、どれが『認証』か。その色と波長を瞬時に見極め、瞬きする間に配線を物理的にねじ切って、バイパスを作る。……一種の外科手術ね」
動脈(高出力ライン)を切らずに、神経(信号ライン)だけを繋ぎ変える。
それを、目に見えないエネルギーの濁流の中で、己の指先の感覚と計算だけで行うのだ。
失敗すれば即死。だけど、それがどうしたというの?
「魔力がないなら、技術でカバーすればいい。権限がないなら、配線を切って直結すればいい」
私はヒセツに向かって、白い手を差し出した。
「行くわよ、ヒセツ。……理論は完璧だわ。あとは、私の手が焼き切れる前にやり遂げる『練習』あるのみ」
ヒセツはリンゴをムシャリと一口で飲み込んだ。
「……本当にお前は賭けが好きだな。まあいい。お前の手が燃え尽きて絶望する顔も、それはそれで見ものだからな」
さあ、実証実験の時間だ。
このありふれた白手袋で、鉄壁の日野家をこじ開けてやる。
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