第12話 契約の履行
「……三」
私の唇が、音のない数字を紡ぐ。
男の革靴が、私が床に描いたチョークの円を踏んだ。
そこは、粉砕されたショーケースの中身――強力な酸化剤と、炭素の粉末が混ざり合った死の混合地点。
「二」
男が火球を構える。
彼が展開している「酸素を食い尽くす結界」は、皮肉にも、この混合物を最も効率よく起爆させるための環境を整えてしまっていた。
純粋な酸素の枯渇。だが、酸化剤があれば、燃焼に必要な酸素はそこから供給される。
外部からの酸素供給を絶たれた閉鎖空間で、局所的な爆発的燃焼を起こせばどうなるか。
「一」
私は床に這いつくばったまま、最後の力を振り絞って、指先の紙片に微弱な静電気を起こした。
種火は、それで十分。
「……ゼロ」
カッ!
万屋の中が、真っ白な閃光に包まれた。
爆音はない。空気がすでに焼き尽くされているからだ。
代わりに発生したのは、強烈な光と、急激な気圧変動による衝撃波。
不意を突かれた男の集中が乱れ、彼が維持していた「熱遮断結界」と「酸欠結界」に、ほんの一瞬だけ綻びが生じる。
その隙間を、羅刹が見逃すはずがない。
「――待たせたな」
ヒセツが笑った。
私が作ったコンマ数秒の隙。
それが、ヒセツを縛っていた鎖を解き放つ合図だった。
ドォォォォン!!
男の身体が、砲弾のように吹き飛んだ。
ヒセツの拳が、男の展開していた防御結界ごと、その鳩尾を叩き抜いたのだ。
男は店の奥の壁に激突し、棚をなぎ倒して瓦礫の中に埋もれる。
「ガハッ……!?」
男が初めて苦悶の声を漏らし、血を吐いた。
結界が解除され、新鮮な空気が店内に流れ込んでくる。
私は床に突っ伏したまま、貪るように酸素を吸い込んだ。肺が焼けつくように痛むが、生ている実感がある。
「……馬鹿な。……術式に干渉された形跡はない……何をした……」
男はよろめきながら瓦礫を押しのけ、立ち上がろうとする。
頑丈だ。羅刹の一撃をまともに食らって、まだ意識があるとは。さすがは叔父が金に糸目をつけずに雇ったプロだ。
だが、今の彼はもう脅威ではない。
ヒセツが、その目の前に立っている。
「俺の飼い主に手を出した代償だ。高くつくぞ、三流」
ヒセツが無造作に男の腕を掴んだ。
バキリ、と湿った音が響く。
男の利き腕――火球を生成するための「回路」となる右腕が、枯れ木のようにへし折られる。
「ぐぅぅッ……!!」
「いい声だ。だが、まだ足りない」
ヒセツは男の顔面を鷲掴みにし、そのまま壁に叩きつけた。
圧倒的な暴力。
男も隠し持っていたナイフや予備の術式で抵抗しようとするが、ヒセツの赤い氣がそれを全て弾き飛ばす。
物理的な格が違う。
人質というハンデがなくなった今、この怪物は誰にも止められない。
「……ヒセツ、待ちなさい」
私はふらつく足で立ち上がり、声をかけた。
ヒセツが男の首を絞め上げようとしていた手を止める。
「殺すなと言ったはずよ。……情報は、まだ吐かせていない」
「チッ。こいつは自爆するような手合いだぞ? 口を割る前に舌を噛むか、脳を焼いて記憶を消すさ」
ヒセツの言う通りだ。
男の目は死んでいない。隙あらば自害し、任務の秘密を守ろうとする意志が見える。
物理的な拷問は通用しないタイプだ。
「ええ。だから、喋らせるんじゃないわ」
私は喪服の袖を払い、床に散らばる黒い粉を見下ろした。
それは、男の炎によって焼き尽くされた、私の愛しい紙人形たちの残骸――「灰」だ。
「物質は消滅しない。形を変えるだけよ」
私は絶縁手袋をはめた手で、空中の見えないラインを弾いた。
すると、床に積もっていた灰が、生き物のように渦を巻き始めた。
紙人形としての形は失っても、そこにはまだ私の式が残留している。
炭化した繊維の一粒一粒が、私の命令を待つ微細なドローンだ。
「……喰らいなさい」
私が指を振ると、黒い灰の嵐が男の顔面に殺到した。
「ぐ、が……!?」
男が息を吸おうとした瞬間、灰が口と鼻に侵入する。
ただの埃ではない。
灰は男の気管支に入り込むと、そこで凝固し、呼吸の道を物理的に塞ぐ。さらに、一部は胃の中へ、一部は粘膜へ。
「火元を塞げば、火は消える。……貴方が私にやろうとしたことよ」
男が白目を剥き、喉をかきむしる。
呼吸ができない苦しみ。それは彼が数分前、私に与えた絶望そのままだ。
だが、私は殺しはしない。
気道を完全に塞ぐ寸前で、灰のコントロールを調整する。生かさず殺さず、意識を保ったまま、無限の窒息感を味わわせる。
「ガッ……ヒュッ……」
男が膝から崩れ落ち、痙攣して床に転がった。
戦意喪失。
自害するための術式を練る集中力さえ、この呼吸困難の中では維持できないだろう。
「……悪趣味な女だ」
ヒセツが呆れたように私を見た。
私は乱れた髪をかき上げ、冷ややかに男を見下ろす。
「褒め言葉として受け取っておくわ。……さて、仕事の続きよ」
私は男の胸ポケットから、叔父との契約書代わりの手形を抜き取った。
雨音が戻ってきた店内には、男の苦しげな呼吸音だけが響いていた。
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