第11話 炎の刺客
ドロリと溶け落ちた鍵穴から、白い煙が吐き出されるように室内へ流れ込む。
蝶番が軋む音と共に、扉がゆっくりと内側へ押し開かれた。
逆光の中に立っていたのは、背の高い男だった。
仕立ての良い三つ揃えのスーツを着ているが、その体躯は岩盤のように分厚く、服の上からでも鍛え上げられた筋肉の密度が透けて見える。
雨の夜だというのに、男の周囲だけ空気が揺らいでいた。
「失礼する」
男が革靴で土足のまま、万屋の床を踏みしめる。
その瞬間、ヒセツが動いた。
「遅い」
紅い残像がブレる。
羅刹級の身体能力は、人間の動体視力を遥かに凌駕する。
瞬きする間もなく男の懐へ潜り込み、その心臓を素手で抉り抜こうと腕を突き出す。
必殺のタイミング。待ち伏せしていた以上、これで終わるはずだった。
だが、男は反応しなかった。
避ける素振りも見せず、ただ無表情に懐から取り出した物体――魔導信管が埋め込まれた焼夷手榴弾を、自分自身の足元へ叩きつけたのだ。
「――ッ!?」
ヒセツが舌打ちをする。
彼がそのまま腕を振り抜けば、男は確実に死ぬ。
だが、同時に至近距離で炸裂すれば、数メートル後ろにいる生身の桜子は衝撃波と破片で挽き肉になるだろう。
この男は、それを分かった上で相打ちを狙ったのだ。
護衛が主人を守るという習性を利用した、冷徹な計算。
「チッ、面倒な!」
ヒセツは攻撃を中断し、瞬時にバックステップで私の前へ戻った。
両腕をクロスさせ、展開した赤い氣の障壁で爆風を受け止める。
――ドォォォォン!!
鼓膜をつんざく爆音と熱風が、万屋の内部を蹂躙した。
商品は吹き飛び、ガラスケースが粉砕され、破片が弾丸のように壁に突き刺さる。
だが、ヒセツの強固な背中に守られた私には、指一本分の衝撃も届かなかった。
「……随分とイカれた野郎だ」
硝煙の向こうで、ヒセツが不機嫌そうに腕を振った。
爆心地に立っていたはずの男は、無傷だった。自身の周囲にだけ、完璧な球形の熱遮断結界を展開している。
攻撃と防御を同時に行う、軍隊仕込みの特攻術式。
「確認した。標的の護衛、高出力の羅刹級個体。……物理排除は困難と判断」
男は機械的な口調で呟くと、パチンと指を鳴らした。
瞬間、室内の空気が変わった。
部屋の四隅に設置されていた火種が一斉に燃え上がり、天井まで届く炎の柱となる。
だが、それは私を焼くための炎ではなかった。
「な、に……?」
私は膝をついた。
熱いのではない。息ができない。
肺が激しく収縮し、視界が急速に狭まっていく。まるで濡れた雑巾で顔を覆われたような閉塞感。
「術式『強制燃焼』。召喚した下級邪鬼を薪にして燃やし尽くし、室内酸素濃度を強制的にゼロにする」
男が淡々と告げた。
密閉空間での急激な燃焼。
この部屋は今、巨大な真空パックと化している。
ヒセツのような神魔なら、多少の酸欠は耐えられるだろう。だが、人間である私は、あと数十秒で脳が壊死する。
「ご主人様!」
ヒセツが私を抱え上げる。
彼は男を殺しに行こうと身構えるが、踏み込めない。彼が私から離れれば、その瞬間に私は熱波と窒息で死ぬからだ。
敵はヒセツと戦おうとしていない。
ただ、「私という弱点」を人質に取って、最強の矛を封じ込めている。
「……カハッ、ゲホッ……!」
私は喪服の胸元を掴み、床に這いつくばった。
意識が遠のく。指先の感覚が消えていく。
男がゆっくりと、酸欠の空間を平然と歩いてくる。酸素ボンベなど持っていない。おそらく、自身の血中に酸素を過剰供給する術を使っているのだろう。
「終わりだ。……仕事にかかる」
男が右手に、トドメの火球を生成する。
ヒセツが牙を剥き、私を背に守りながら威嚇する。
詰みか?
力押しのヒセツでは、この状況は覆せないのか?
――いいえ。
酸素がないなら、作ればいい。
あるいは、相手の領域を破壊すればいい。
私は薄れゆく意識の中で、床に散らばったあるものを見つめた。
爆風で粉砕されたショーケースの中身。
売り物の強力な酸化剤と、私が作業中に削っていた炭素の粉末。
私の瞳に、冷徹な式の光が宿る。
震える指先で、床に式を描く。恐怖も苦痛も、すべて計算のための燃料にくべる。
「……ヒセツ、三秒だけ、耐えなさい」
「あ?」
「三秒後、私がこの部屋のルールを変えるわ」
男が火球を振り上げる。
私は喉の奥で鉄錆のような血の味を感じながら、床に描いた最期の罠を起動させた。
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