表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/30

第10話 迫る影

 スラムの夜は、泥と汚水の臭いが沈殿する。

 外は冷たい小雨が降り続いていたが、「万屋・日野」の中は奇妙な静寂に包まれていた。


 カサ……。

 カサカサ……。


 天井から吊り下げられた数百の紙人形たちが、風もないのに微かに震え、互いの体を擦り合わせている。

 それはまるで、冬眠から目覚めた蝙蝠の群れがざわめくような、不気味な音だった。


「……来たわね」


 私は作業机の上で、削りかけのチョークを置いた。

 視線は、紙人形たちを繋いでいる一本の「糸」に向けられている。


「早いな。予想より十分早い」


 ヒセツが壁にもたれかかりながら、面白そうに口元を歪めた。


「どうする? 裏口から逃げるか? 今ならまだ、ドブ川を泳げば撒けるかもしれんぞ」

「お断りよ。ドブの臭いはもうたくさん」


 私は立ち上がり、薄汚れた黒紋付(喪服)の襟を正した。

 天井の紙人形がざわめいているのは、霊的な予知能力などではない。

 店の周囲五十メートル四方に張り巡らせた、極細の絹糸――「物理センサー」が反応したからだ。

 蜘蛛の巣のように張り巡らせた糸の端は、店内の紙人形に接続されている。侵入者が糸に触れれば、その振動が増幅されて紙人形に伝わり、この「ざわめき」を生む。


 カサカサッ!


 ざわめきが強くなる。

 東側。路地裏のマンホールのあたりだ。


「……触れ方が鋭いわね。野良猫や酔っ払いじゃない」


 私は目を細め、振動の波形を脳内で解析する。

 糸は切断されていない。触れた瞬間に「跨いだ」か、あるいは「溶かした」か。

 どちらにせよ、こちらの罠に気づく程度には手練れだということだ。


「数は?」

「一人。……いや、足音を消しているが、氣が重いな。……それなりの使い手だぞ」


 ヒセツが低い声で唸る。

 彼がこれほど警戒心を露わにするのは、チンピラ相手の時にはなかったことだ。

 叔父様め。

 政治工作には金を惜しむくせに、私を殺すための刺客には随分と奮発したらしい。


「……気温が、上がっているか?」


 ヒセツが鼻をひくつかせた。

 言われてみれば、湿気が多いはずの店内が、妙に乾燥し始めている。

 肌にまとわりつくような熱気。

 雨音に混じって、ジュッ、ジュッという、水滴が蒸発するような音が微かに聞こえる。


「熱源反応……。炎の神魔、かしら」


 私は最悪の可能性ケースを計算に入れた。

 私の武器は「紙」。

 相手が「炎」ならば、相性は最悪だ。一瞬で灰にされる。

 だが、逃げるわけにはいかない。

 ここで逃げれば、私は一生、叔父の影に怯えてドブ川を這いずり回ることになる。


 私は机の引き出しから、一組の「絶縁手袋」を取り出し、手に通した。

 するり。

 そして、床に散らばるチョークの粉末を靴底で踏みしめる。

 ジャリ。


「ヒセツ」

「ああ?」

「契約の確認よ。……私の命令は絶対。いいわね?」

「分かってるよ、……ご主人様。」


 ヒセツの深紅の瞳が、暗闇の中でギラリと光った。

 彼の指先から、赤い氣の粒子が立ち上り始める。


 ――トン、トン。


 不意に、店の扉が軽くノックされた。

 丁寧で、礼儀正しく、それでいて底知れない殺意を秘めたノック。


「こんばんは。……夜分に失礼いたします」


 扉の向こうから、くぐもった男の声がした。

 同時に、扉の隙間から白い煙が漏れ出し、木材が焦げる匂いが漂い始める。


「日野家当主代行、重道様の命により――お迎えに上がりました、桜子様」


 鍵穴が赤熱し、ドロリと溶け落ちる。

 私は大きく息を吸い込み、冷たい式で思考を埋め尽くした。


 逃亡生活は終わりだ。

 ここからは、ケンカの時間よ。


「……入りなさい。鍵なら開いているわ」


 私は喪服の袂から、数枚の紙人形を指の間に挟み込んだ。

 嵐の前の静寂が破れ、灼熱の夜が幕を開ける。

ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。

次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。

作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/

Xアカウント:@tukimatirefrain

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ