第10話 迫る影
スラムの夜は、泥と汚水の臭いが沈殿する。
外は冷たい小雨が降り続いていたが、「万屋・日野」の中は奇妙な静寂に包まれていた。
カサ……。
カサカサ……。
天井から吊り下げられた数百の紙人形たちが、風もないのに微かに震え、互いの体を擦り合わせている。
それはまるで、冬眠から目覚めた蝙蝠の群れがざわめくような、不気味な音だった。
「……来たわね」
私は作業机の上で、削りかけのチョークを置いた。
視線は、紙人形たちを繋いでいる一本の「糸」に向けられている。
「早いな。予想より十分早い」
ヒセツが壁にもたれかかりながら、面白そうに口元を歪めた。
「どうする? 裏口から逃げるか? 今ならまだ、ドブ川を泳げば撒けるかもしれんぞ」
「お断りよ。ドブの臭いはもうたくさん」
私は立ち上がり、薄汚れた黒紋付(喪服)の襟を正した。
天井の紙人形がざわめいているのは、霊的な予知能力などではない。
店の周囲五十メートル四方に張り巡らせた、極細の絹糸――「物理センサー」が反応したからだ。
蜘蛛の巣のように張り巡らせた糸の端は、店内の紙人形に接続されている。侵入者が糸に触れれば、その振動が増幅されて紙人形に伝わり、この「ざわめき」を生む。
カサカサッ!
ざわめきが強くなる。
東側。路地裏のマンホールのあたりだ。
「……触れ方が鋭いわね。野良猫や酔っ払いじゃない」
私は目を細め、振動の波形を脳内で解析する。
糸は切断されていない。触れた瞬間に「跨いだ」か、あるいは「溶かした」か。
どちらにせよ、こちらの罠に気づく程度には手練れだということだ。
「数は?」
「一人。……いや、足音を消しているが、氣が重いな。……それなりの使い手だぞ」
ヒセツが低い声で唸る。
彼がこれほど警戒心を露わにするのは、チンピラ相手の時にはなかったことだ。
叔父様め。
政治工作には金を惜しむくせに、私を殺すための刺客には随分と奮発したらしい。
「……気温が、上がっているか?」
ヒセツが鼻をひくつかせた。
言われてみれば、湿気が多いはずの店内が、妙に乾燥し始めている。
肌にまとわりつくような熱気。
雨音に混じって、ジュッ、ジュッという、水滴が蒸発するような音が微かに聞こえる。
「熱源反応……。炎の神魔、かしら」
私は最悪の可能性を計算に入れた。
私の武器は「紙」。
相手が「炎」ならば、相性は最悪だ。一瞬で灰にされる。
だが、逃げるわけにはいかない。
ここで逃げれば、私は一生、叔父の影に怯えてドブ川を這いずり回ることになる。
私は机の引き出しから、一組の「絶縁手袋」を取り出し、手に通した。
するり。
そして、床に散らばるチョークの粉末を靴底で踏みしめる。
ジャリ。
「ヒセツ」
「ああ?」
「契約の確認よ。……私の命令は絶対。いいわね?」
「分かってるよ、……ご主人様。」
ヒセツの深紅の瞳が、暗闇の中でギラリと光った。
彼の指先から、赤い氣の粒子が立ち上り始める。
――トン、トン。
不意に、店の扉が軽くノックされた。
丁寧で、礼儀正しく、それでいて底知れない殺意を秘めたノック。
「こんばんは。……夜分に失礼いたします」
扉の向こうから、くぐもった男の声がした。
同時に、扉の隙間から白い煙が漏れ出し、木材が焦げる匂いが漂い始める。
「日野家当主代行、重道様の命により――お迎えに上がりました、桜子様」
鍵穴が赤熱し、ドロリと溶け落ちる。
私は大きく息を吸い込み、冷たい式で思考を埋め尽くした。
逃亡生活は終わりだ。
ここからは、ケンカの時間よ。
「……入りなさい。鍵なら開いているわ」
私は喪服の袂から、数枚の紙人形を指の間に挟み込んだ。
嵐の前の静寂が破れ、灼熱の夜が幕を開ける。
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