第1話 散り際こそ美しく
運命というのは然るべきところに来る。此方と彼方のリズムに乗って。私は、「然るべき存在」だろうか。
チョークを持つ手が、震えた。濡れた、この喪服のせいか、これから行うことへの、恐怖か。私は――日野桜子は、汚れた裾を引き摺り、術式の最後の一文字を床に刻んだ。
――「名を以て門を開く。印を以て道を定む。意を以て形を与う」
床板の軋む音が、私の鼓動と重なる。
廃屋の床に描いた幾何学模様が、燐光を放ち始めた。呼吸をするたびに、肺の奥が焼けるように熱い。これは空気ではない。濃密な「氣」だ。
ノウマク・サンマンダ・キリャク・ウン・バザラ・ナフ・ヒセツ・タラ・カンマン。
視界が歪む。
三半規管が狂い、上下の感覚が消失する。
足元の魔法円から噴き上がる風が、濡れた髪を逆立て、頬を切り裂くように吹き抜ける。それは物理的な風ではなく、異界からの圧力そのものだった。
目の前に置いた紙人形――安っぽい和紙で作った依り代が、カタカタと痙攣するように震えだす。
――「ヒセツ、来臨せよ」
喉が裂けそうなほどの叫び。
全身の血液が沸騰し、指先から魔力が吸い上げられていく感覚。
オン・テンダイ・コクウ・バンリキ・ウン・ヒセツ・ナフ・バザラ・ダン・カンマン。
閃光。
世界が白一色に染まった。
硝子が砕け散るような鋭い音が鼓膜を突き破り、無数の白い断片が、視界を埋め尽くすように舞い散る。
それは紙吹雪だった。
美しくも不吉な、純白の乱舞。
舞い落ちる白片の向こうで、私は、かつて見た別の「白」を思い出していた。
あれは、桜の花弁だったか。
*
揺れる人力車の振動が、硬く締めた帯を通じて腹の底に伝わってくる。
視界を遮る純白の綿帽子。その隙間から覗く帝都の空は、抜けるように青い。だが、私の網膜に焼き付いているのは、その青さよりも、風に舞い狂う桜の花弁だった。
視界を埋め尽くす薄紅色の乱舞。それはまるで、これから始まる私の人生を祝福する紙吹雪のようであり、同時に、何か不吉なものを隠蔽しようとする幕のようにも見えた。
「桜子」
不意に、隣から温かな音がした。
膝の上に置いた私の強張った手に、大きな手が重ねられる。近衛彰。今日から私の夫となる人。
彼の手のひらは、驚くほど熱かった。春先の風が運ぶ微かな冷気を、その熱がじわりと溶かしていく。
「そんなに難しい顔をしないで。君のその瞳は、難解な術式を睨むためだけにあるんじゃないだろう?」
彰の声音には、春の日差しに似た柔らかな響きがある。
私は伏せていた睫毛を持ち上げ、隣に座る許嫁の横顔を盗み見た。整った鼻梁、理知的な光を宿した瞳。
彼は、女だてらに魔導書を読み漁り、呪符の構造解析に没頭する私を「変わり者」と蔑むことなく、「その知性が国を変える」と肯定した唯一の人間だ。
私は、誰よりも貪欲だった。ただ守られるだけの存在ではなく、この世界の理を知り、より高い場所へ行くための力を欲していた。彼はそんな私の歪さを、愛してくれた。
聖人。そう呼ぶにふさわしい清廉さが、彼の纏う紺の紋付羽織からすら漂っている気がした。というより、私には、余りある男だ、と率直に思う。誰が相手でも、この男は幸せにしただろう。私と違って。
「……式を組む方が、よほど簡単ですわ。変数は定義されていますもの」
「はは、君らしい。だが、僕たちの結婚という式は、きっと『幸福』という解を導き出すよ」
根拠のない楽観。けれど、彰が言うとそれが天体の運行のように確かな事実に聞こえるから不思議だ。
車夫の威勢の良い掛け声とともに、行列が角を曲がる。
その瞬間、世界の色が変わった。
ビュッ……。
空気が、裂けた。
先頭を歩いていた使用人の提灯が、前触れもなく爆ぜた。
青白い炎が撒き散らされ、祝祭の空気は瞬時に焦げ臭い硝煙の匂いへと変貌する。
御簾の向こう、沿道の人々の歓声が悲鳴に変わるよりも早く、アスファルトの影から「それ」は湧き出した。
黒い、泥のような塊。
不定形の闇が、物理的な質量を持って空間を歪ませている。
「――ッ、結界!」
彰の叫びと共に、彼が懐から取り出した護符が金色の光を放つ。
だが、遅い。
展開されかけた幾何学の光壁を、黒い質量が紙細工のように食い破る。あれは神魔だ。それも、この帝都の治安を守るための管理された式などではない。殺意のみをプログラムされた、名もなき暗殺用の異形。
人力車が横転した。
天と地が逆転し、私は重力に従って石畳へと放り出される。
激痛。
しかし、それを感じる暇さえ与えられず、視界の端で黒い影が鎌首をもたげるのが見えた。狙いは私だ。死の冷気が、私の喉元へと正確に迫る。
「させるか……!」
私の視界を、紺色の背中が覆った。
鈍い、肉が焼ける音。
彰が私を庇い、その身を黒い炎の盾として立ちはだかっていた。
「彰……様?」
喉から掠れた音が出た。
彼が展開した防護円は、ぼこぼこと煮えたぎる邪気の前にガラスのようにひび割れ、砕け散っていく。彼の肉体が、霊的な炎に焼かれ、炭化していく臭いが鼻腔を突き刺した。
それでも、彼は倒れない。
崩れ落ちそうになる膝を叱咤し、懐から一冊の本を引き抜いた。
古びた革表紙。カビと、異国のインクの匂い。
「桜子、これを……」
血に濡れた手で、その本を私の胸に押し付ける。
白無垢の胸元に、彼の鮮血が牡丹の花のように赤く滲んでいく。
「君なら、解ける。この帝都の、呪いを……」
「彰様、だめ、血が……!」
「生きろ。知恵で、生き延びるんだ」
最期の言葉は、命令だった。
直後、閃光。
彰の体が、残った全魔力を解放し、黒い神魔ごと自爆したのだ。
爆風が私を吹き飛ばす。
熱波が頬を撫で、視界が白一色に染まり、やがて漆黒に塗りつぶされた。
*
雨音で、目が覚めた。
いいや、違う。
目を開けた先にあるのは、見覚えのない廃屋の天井だ。隙間風が蝋燭の炎を揺らしている。
全身が汗でびっしょりと濡れていた。
夢を見ていたのだ。あの日の、終わりの夢を。
私はゆっくりと上体を起こした。
目の前には、チョークで描かれた魔法円。そして、その中心に佇む人影。
心臓が早鐘を打つ。成功したのか。
薄暗い部屋の中、蝋燭の僅かな光が、その姿をぼんやりと照らし出した。
学生帽を目深に被り、漆黒の詰襟を纏った青年。
その肩にはマントがかかり、銀色の髪が月光のように冷たく輝いている。
足元には、無数の白い紙片が散らばっていた。先ほどまで「紙人形」だったものの成れの果てだ。
「……おい」
少年が口を開いた。
その声は低く、そして驚くほど不機嫌だった。
「随分と手荒な呼び出しだな。おかげで身体中がバラバラになりそうだ」
彼は帽子を指先で押し上げ、切れ長の瞳で私を見下ろした。
その瞳には、人間を見下すような冷ややかな光と、隠しきれない倦怠の色が混じっている。
「君か? 俺をこんな狭苦しい『形』に押し込めたのは」
私は震える膝を叱咤し、立ち上がった。
彰から託された本を胸に抱きしめる。この本に書かれていた術式は、正しかった。
私は、呼び出したのだ。
神魔を。
「……私の名は、桜子」
乾いた唇を舐め、私は彼を真っ向から睨み返した。
恐怖はある。だが、それ以上に熱いものが、胸の奥で燃えていた。
「あなたに、解いてもらいたい式があるの」
青年――ヒセツは、きょとんとした顔をし、桜子の顔をじっと見ると、やがて口の端を吊り上げて笑った。
それは、どこか懐かしむような、それでいて空虚な笑みだった。
「……いいだろう。暇つぶしくらいにはなりそうだ」
彼が指を鳴らすと、周囲に散らばっていた紙吹雪がふわりと舞い上がった。
廃屋の湿気た空気が、一瞬にして冷涼な異界の風に変わる。
私の、甘美たる、復讐劇のはじまり、はじまり。
ぐるん。
私の視界は白く、染まった。
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