天神姉妹
地獄の底まで落ちた男の前に、一本の蜘蛛の糸が垂らされた。
その糸は、あまりにも美しく、あまりにも甘く、そして、あまりにも強固だった。
それは、救済か。
それとも、新たなる隷属の始まりか。
これは、一人の男が、二人の女神と出会い、
世界で最も美しく、最も危険な「契約」を結ぶ物語。
さあ、反撃の鐘を、鳴らそうか。
【取調室】
鉛色の空が、窓の外で重く垂れ込めていた。磨りガラス一枚隔てただけの外界の気配は、この狭い取調室には届かない。湿気を帯びたコンクリートの壁が、圭佑の疲弊した精神をさらに圧迫する。蛍光灯の白い光が、古びた金属製の机と椅子、そして彼の顔を無機質に照らし出していた。徹夜の尋問で、彼の思考はすでに霧散寸前だった。乾いた唇はひび割れ、数日髭も剃っていない顔は、まるで廃人のようだった。
「神谷圭佑。お前がやったんだろうが」
机の向かいに座る刑事の低い声が、疲労の奥に潜む威圧感を滲ませ、室内に響き渡る。その声は、重く冷たい鉄槌のように、圭佑の頭蓋に直接叩きつけられる。
圭佑は力なく首を振るだけだった。やっていない。だが、証拠はすべて彼が犯人だと示していた。どうして。誰が。思考は霧散し、泥のように重い絶望だけが、彼の腹の底に澱のように溜まっていく。
「黙秘か? いい加減に認めろ! お前のくだらない動画のせいでどれだけの人間が迷惑してると思ってるんだ!」
刑事が机をドンと叩く。その音に、圭佑の体がびくりと震えた。その一瞬、彼の視界の片隅に、刑事のネクタイのわずかな歪みと、目の下に刻まれた深い疲労の影が映った。圭佑は、乾いた喉から声を絞り出す。それは諦めにも似た、しかし微かな抵抗の意思だった。
「…あなたの言う『くだらない動画』で、救われている人間もいるかもしれません。それに…」 圭佑は虚ろな目で刑事をじっと見つめ、続けた。「…あなたのネクタイ、少し曲がってますよ。昨日、家に帰れていないんじゃないですか? 大変ですね、刑事さんも」
そのあまりにも場違いで、しかし的を射た指摘に、刑事は一瞬、言葉を失った。彼の顔に、微かな動揺が走る。圭佑は、自分の疲弊した意識の底で、かすかに感じていた。自分の目は、人の本質や、周囲の微細な「ズレ」を無意識のうちに見抜いているのだと。
「貴様、馬鹿にしているのか!」
刑事が怒りを露わにした、その時だった。
重い鉄の扉が、控えめに、しかし二度、規則的にノックされた。許可を待たず、扉は静かに開かれる。
そこに立っていたのは、黒縁メガネをかけたスーツ姿の若い男と、その背後に現れた、息を呑むほど美しい少女だった。年の頃は二十一歳くらいだろうか。シンプルなデザインでありながら、上質な仕立てのお嬢様ワンピース。プラチナブロンドの髪が、蛍光灯の光を吸い込んで、銀糸のように輝いている。その佇まいだけで、澱んだ取調室の空気が、まるで聖域のように浄化される錯覚を覚えた。その凛とした存在感は、この閉塞した空間に、一筋の清冽な風を吹き込んだようだった。
「なんだあんたたちは。ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」
刑事が色めき立つ。だが、その声は、彼女たちの存在感に弾かれるように、空虚に響いた。別の刑事が少女の顔を見て、椅子から転げ落ちんばかりに目を見開く。
「て、天神財閥の……玲奈様!? なぜこのような場所に……」
天神玲奈と呼ばれた少女は、刑事たちの動揺など存在しないかのように、ただ冷たい視線で室内を見渡すと、まっすぐに圭佑を見据えた。その琥珀色の瞳は、感情を一切映さず、まるでガラス玉のようだった。
「この男、私が引き取ります」
有無を言わせぬ、絶対的な所有者の言葉だった。その声には、一切の迷いも、交渉の余地も感じられない。隣の弁護士が黒縁メガネをくいと上げ、冷静に告げる。
「不当な取り調べは即刻中止してください。証拠不十分なままの拘束は人権侵害にあたります。これ以上の異議は、我々天神法律事務所が正式に申し立てます」
玲奈は圭佑に向かって小さく頷いた。その微かな動作は、しかし、確かな意志を伝えていた。
「行きましょう、神谷圭佑」
圭佑は夢遊病者のように、ふらりと立ち上がった。彼の意識は、まだ現実と夢の狭間を彷徨っていた。
【偽りの日常】
手錠が外された手首には、まだ冷たい金属の幻影が残っていた。皮膚に食い込んだ痕が、数日間の拘束の記憶を刻んでいる。
警察署の自動ドアを抜けると、弁護士の桐島が玲奈に深く一礼した。
「お嬢様、私は別件がございますのでこれにて。後のことは柏木にお任せしております」
そう言い残し、彼は人混みへと音もなく消えていった。その背中は、どんな雑踏の中にも溶け込むことのない、孤高のシルエットだった。
目の前には、一台の黒塗りのセダン。その傍らに、石像のように佇む初老の男。完璧に仕立てられた燕尾服を身につけたその姿は、まるで絵画のようだった。
圭佑たちの姿を認めると、男は滑らかな動作で完璧なお辞儀をし、後部座席のドアを音もなく開けた。
「執事の柏木と申します。圭佑様、どうぞ」
古びた教会の鐘のように低く、それでいて明瞭な声。その声には、一切の感情の揺らぎが感じられない。
導かれるまま、圭佑は柔らかな本革のシートに身体を沈めた。ドアが閉まると、外界の喧騒は嘘のように遠ざかり、そこは完全に外界と隔絶された静謐な空間となった。シートの奥からは、新車の匂いに混じって、わずかに高級な革製品の香りがする。外界の埃や騒音とは無縁の、あまりにも完璧な空間は、圭佑の心をかえって落ち着かせなかった。
「……俺をどうする気だ」
不信感を剥き出しにした圭佑の声に、隣に座った玲奈は足を組み、顔色一つ変えずにただ静かに自分のスマホを取り出した。その動作は、すべてが計算され尽くしたように優雅だった。
彼女は慣れた手つきでロックを解除すると、圭佑に何も言わずに、その画面をこちらに向けた。画面に表示されていたのは、美しい彼女のアイコンと、その横に並ぶ、信じられない数字だった。
『天神玲奈 フォロワー 1.2M』
120万人。圭佑が血反吐を吐くような思いで動画を投稿し続けても、決して届くことのない天文学的な数字。それは、彼の努力が、この少女の圧倒的な存在感の前では、取るに足らないものだと突きつける、残酷な現実だった。
「…降ろしてくれ」
圭佑は、その圧倒的な力の差と、自らの無力さを前に、そう言うのが精一杯だった。声が震えているのが自分でも分かった。
玲奈は執事に目配せした。車が静かに停まり、ドアが開く。外の生ぬるい空気が、車内の冷たい静寂を破るように流れ込んできた。
「どうぞ。その汚れた服で、容疑者のまま、あの地獄へお帰りなさい」
その「汚れた服」という言葉に、圭佑は思わず自分の姿を見下ろした。何日も着っぱなしで襟がヨレヨレになったTシャツ。膝にはいつ付いたかもわからないシミがある色褪せたジーンズ。この服には取調室の埃っぽい匂いと、俺自身の冷や汗、そして拭いきれない絶望の匂いが、深く染み付いている。玲奈の言う通りだった。これは社会から拒絶された、敗者の「ユニフォーム」だ。
彼女は冷ややかに言い放った。「家は特定され、殺害予告まで届いている。会社も、もうあなたの居場所ではない。それでもいいのなら」
降りかけた足が止まる。そうだ、俺にはもう帰る場所なんてない。逃げ帰る場所も、受け入れてくれる人も。玲奈は悪魔のように微笑んだ。その完璧な笑顔の裏に、底知れない支配欲が透けて見えるようだった。
「私はあなたのガチ恋リスナーよ。あなたには才能がある。私にあなたの夢を見させて」
圭佑は、その蜘蛛の糸にすがるしかなかった。彼の魂は、もう抵抗する気力すら残っていなかった。
車が向かったのは、高級レストランではなく、どこにでもあるファミリーレストランだった。店内は、昼時を過ぎた時間帯で、家族連れの楽しそうな声が響いていた。その、あまりにも日常的な喧騒が、圭佑には酷く場違いに感じられた。
「ステーキです。一番大きいの」
メニューを渡された圭佑は、何かに憑かれたように注文した。一番大きいものを。それは、彼の心の奥底に宿る、満たされない飢えの表れだった。玲奈は可愛らしい苺のパフェを頼んでいる。その対比が、二人の世界の隔たりを際立たせていた。
フォークを弄びながら尋ねると、玲奈はパフェのスプーンを口に運び、ゆっくりと答えた。
「……あの弁護士、腕いいのか?」
「桐島のこと? 彼は天神が抱える中でも最高の駒よ。負けを知らない」
数時間前まで爆破予告犯として詰問されていた男が、財閥令嬢とファミレスにいる。あまりの非現実に眩暈がした。
「お姉ちゃーん! Kくーん!」
その時、店の入り口から、金髪ツインテールの制服少女が、弾けるような笑顔で駆け寄ってきた。天神莉愛。その明るさは、部屋の澱んだ空気を一瞬で吹き飛ばす。
彼女も席に着くなり、姉と同じパフェを注文する。そして、圭佑の隣に座ると、キラキラした目でスマホの画面を見せてきた。
「Kくんのガチ恋リスナー天神莉愛だよ!」
彼女もまた、百万フォロワーを超えるアカウントを圭佑に見せつけた。「Kくん大変だったね! でももう大丈夫! 私たちがKくんの女神だもん!」
圭佑は、そのあまりの明るさに、かえって戸惑いを覚えた。
「莉愛。騒がしいわよ」
姉妹のやり取りを、圭佑は呆然と眺めていた。だが、その異様な組み合わせは、当然のように周囲の注目を集めていた。
「……あれ、天神姉妹じゃね?」
「隣の男、誰だろ。彼氏かな?」
ひそひそと交わされる会話。圭佑たちに向けられる好奇の視線。その空気の変化を敏感に感じ取った玲奈は、パフェのスプーンを置くと、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で妹に告げた。
「莉愛。爺を呼んで」
「おっけー」
莉愛は即座にスマホを取り出し、一言二言メッセージを送る。その手慣れた様子に、圭佑は、自分とは全く異なる世界に生きる少女だと改めて思い知らされた。
会計の際、玲奈が当たり前のように漆黒のカードを取り出したのを見て、圭佑は改めて彼女たちの住む世界の途方もなさを思い知らされた。そのカードは、どんなものをも支配できる絶対的な権力の象徴に見えた。
レストランを出ると、まるでタイミングを計ったかのように、執事の柏木が運転する黒塗りのセダンが、静かに店の前に停まっていた。その完璧なタイミングは、彼らの日常のすべてが、完璧に管理されていることを示唆していた。
車が向かったのは、都心にあるシネマコンプレックスだった。エントランスに足を踏み入れるなり、女性スタッフが駆け寄り、深々と頭を下げた。
「玲奈様、莉愛様お待ちしておりました。本日は何をご覧になられますか?」
スタッフは、玲奈たちの隣に立つ場違いな服装の圭佑を一瞥したが、その存在などまるで無いかのように、完璧な笑顔を姉妹に向け続ける。
玲奈が「アクション映画を一本。いつものシアターで」と短く告げると、スタッフは「かしこまりました」と、圭佑たちを特別なエレベーターへと案内した。そのエレベーターは、一般客とは隔絶された、選ばれた者だけが利用できる通路だった。
案内されたのは、ビロードのソファが並ぶプライベートシアター。柔らかなシートに体を沈めると、外界の喧騒は完全に遮断され、そこは二人だけの、あるいは三人だけの聖域となった。
巨大なスクリーンに派手な爆発シーンが映し出される。その轟音に、莉愛が大げさに肩をすくめ、圭佑の腕にぎゅっと抱きついてきた。
「きゃーっ! こ、怖くなんてないんだからねっ!」
そのあからさまなアピールに、反対隣に座っていた玲奈の眉がピクリと動く。その表情は、僅かながら嫉妬の色を帯びていた。
彼女は何でもない素振りを装いながら、そっと圭佑の手に自分の指を絡ませてきた。その指は、映画の迫力に偽装された、圭佑への牽制、あるいは甘えのようにも感じられた。
暗闇の中、左右から伝わる二人の少女の全く異なる温もり。圭佑の心臓がうるさくて仕方なかった。それは恐怖か、興奮か、あるいはその両方か。
映画が終わると、莉愛が「ねえ、ゲーセン行きたい!」と提案した。
シネコンを出て歩いて数分のゲームセンターへ向かう。街の雑踏の中、圭佑はなぜか無意識に、華やかなオーラを放つ天神姉妹と少し距離を取って、その後ろを歩いていた。まだ自分が彼女たちと並んで歩くべき人間ではないと、どこかで感じていたのだ。彼の心には、拭いきれない劣等感が根付いていた。
「わー! Kくんの動画で見たレースゲームだ!」
莉愛に手を引かれ、三人でプリクラを撮る。狭いブースの中、玲奈のシャンプーの香りがして、圭佑の心臓が変な音を立てた。彼女は無表情だったが、ほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。その微かな変化が、圭佑の心をかき乱す。
レースゲームでは、意外にも玲奈が圧倒的なドライビングテクニックを見せつけ、圭佑は惨敗した。その冷静で的確な操作は、彼女の普段の立ち居振る舞いをそのまま表しているようだった。
「Kくん、あれ取って!」
莉愛が指さすクレーンゲームには、今流行りのアニメの可愛らしいキャラクターぬいぐるみが入っていた。圭佑は彼女たちの前でいいところを見せようと挑戦するが、アームはぬいぐるみを掴んでは、無情にも落とすばかり。焦れば焦るほど、アームの動きはぎこちなくなる。
「あーもう!」莉愛がじれったそうに声を上げた、その時。近くにいた男性スタッフが駆け寄り、慣れた手つきでクレーンゲームの扉を開けると、ぬいぐるみを絶対に取れる位置へとずらしてくれた。
そして、圭佑の存在などまるで無いかのように、姉妹に向かって完璧な笑顔でこう言った。
「玲奈様、莉愛様、どうぞ」
圭佑は、その屈辱的な「お膳立て」を前に、ただ苦笑いするしかなかった。彼の無力感が、再び胸を締め付ける。
莉愛がコインを入れて、簡単にアームを操作する。ぬいぐるみがゴトンと景品口に落ちた。
「Kくん、取れたよ!」
彼女は満面の笑みでぬいぐるみを抱きしめ、圭佑に自慢げに見せてくる。
「……ああ、よかったな」
その無邪気な笑顔を前に、圭佑はそう答えるのが精一杯だった。心の中では、言いようのない空虚感が広がっていた。
【美しい鳥籠】
車は、夜景の美しい高台にあるモダンな邸宅に着いた。ガラス張りの壁が特徴的な、まるで建築雑誌から抜け出してきたような、非現実的な家だった。
「ここが、あなたの物語の舞台よ」
ソファに座る圭佑の前に、玲奈が立った。ゲームセンターでの柔らかな雰囲気は消え、彼女は再びすべてを見透かすような、冷たい瞳をしていた。その表情は、圭佑を完全に支配していることを示唆していた。
「正直に言うと、妹に布教されるまで、あなたのことなど全く興味がなかったわ。でも…見なければ分からないこともあるものね」
その言葉は、圭佑の心を深く抉った。彼の存在価値は、彼女にとって、たかが「コンテンツ」に過ぎなかったのか。
「あなたの才能は音楽だけではないわ。あなたの『自宅紹介』の切り抜き動画、見たわよ」
「なっ…!?」
圭佑は顔から火が出るほど恥ずかしかった。彼の最も惨めな部分を、この少女は知っているのだ。
玲奈はそんな圭佑の反応を楽しむように続ける。
「動画の中で、妹さんにお給料でゲーム機を買ってあげたと話していたでしょう? ふふっ、優しいのね」
彼女は圭佑の全てを知っていた。彼の才能も、惨めな過去も、そして誰にも気づかれていないと思っていた不器用な優しさも。その事実に、圭佑の背筋に冷たいものが走った。まるで、魂の奥底まで見透かされているかのようだった。
「あなたの作る音楽、書く言葉、そしてその不器用な優しさ。そのすべてを最初に享受するのは私たち。あなたの時間も、音楽も、未来も、全て私たちのもの」
助けられたのではない。捕らえられたのだ。その言葉は、圭佑の心を完全に支配する、絶対的な宣告だった。
圭佑が言葉を失っていると、玲奈は決定的な一言を、まるで天気の話でもするかのように告げた。
「生活の心配はいらないわ。何しろ明日から、私もここに住むのだから」
圭佑の第二の人生は、天神姉妹という二人の女神への甘美な隷属から始まった。それは、華やかで、しかしどこにも逃げ場のない、美しすぎる鳥籠だった。彼の心は、この新たな牢獄の中で、緩やかに、しかし確実に、囚われていくのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
神谷圭佑です。
ファミレス、映画館、ゲームセンター…。
まるで、普通のカップルのような、甘い一日。
でも、忘れてはいけません。
これは、デートなんかじゃない。
全ては、僕という駒を、この美しい鳥籠に閉じ込めるための、完璧に仕組まれた「儀式」だったのです。
助けられたのではない。捕らえられたのだ、と。
…ですが、面白い。
こんな最高の舞台を用意されたんだ。黙って飼われているだけの、お利口なペットで終わるつもりはありません。
次回、第三話「反撃の城と、甘すぎる共犯者たち」。
この美しすぎる城から、僕の、最高にクレイジーな反撃が始まります。
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