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地獄の始まり

ネットの向こう側に、顔のない悪意が渦巻いていることを、僕らは知っている。


一つの「いいね」が承認欲求を満たし、

一つの「炎上」が人生を破壊する。


これは、そんな現代いまの地獄で、

全てを失った一人の男の物語。


そして、彼が、世界をひっくり返す「神」になるまでの、

最高に痛快な、反撃の記録である。

 春の陽気とは裏腹に、俺の心は鉛のように沈んでいた。卒業を目前に控えたコンピュータ専門学校の退学届を提出した、あの日から、俺の社会との繋がりは、プツンと音もなく断ち切られた。親の脛をかじり、膨大な学費をドブに捨てた罪悪感が、胃の腑の底でねばつく。担任からの連日の電話は、もはや恐怖だった。スマホの画面に表示される見慣れた名前に、俺は反射的に電源ボタンを長押しした。途切れる音。外界との細い糸が、プツンと、音もなく千切れていく。親はきっと、無駄金をドブに捨てたと嘆いただろう。俺は、正真正銘の親不孝者だった。


 こうして俺は自ら社会のレールを外れ、外界と閉ざされた六畳の自室で、ひたすらに時間を溶かし始めた。世間が求める「大人」の定義から、俺はあまりにもかけ離れていた。神谷圭佑、25歳。無職童貞。この三文字が、今の俺という人間を形作る全てだった。


 外界と閉ざされた俺の世界は、唯一外界と繋がるリビングの食卓から始まった。リビングの薄暗い天井に、テレビのバラエティ番組の作り物めいた笑い声だけが、虚しく反響していた。それは、俺がこの家に存在を許される、唯一外界と繋がる時間、家族揃っての夕飯だった。テーブルの中央には、母さんが揚げた黄金色の豚カツが置かれている。バターとパン粉の香ばしい匂いが、食欲をそそる。だが、俺の心に食欲はなかった。母さんの日課だった。黄金色に揚げられた豚カツ。衣のサクサクとした食感の向こうに、この家を覆う重苦しい空気に、ほんの少しでも「勝つ」という、母のささやかな願掛けが透けて見えた。その不器用な優しさが、かえって俺の胸を締め付けた。


 俺は、喉の奥に広がる鉄錆のような虚無感を押し殺しながら、もはや味のしないその肉塊を、黙々と白米と共に口に運んだ。それが、俺がこの家に、かろうじて「人間」として存在することを許される、唯一の儀式であり、同時に、外界との最後の繋がりを保つ、細い蜘蛛の糸だった。


 向かいに座る父親は、新聞から決して顔を上げようとはしなかった。ただ、その紙面の向こうから、澱んだ、しかし鋭い刃のような言葉を、吐き捨てた。


「……何もせずに、よく一日中パソコンなんか見てられるな」


 隣に座る高校生の妹、美咲は、一瞬だけ俺に視線を向けた。その瞳は、深海の底のように冷たく、そこに宿る感情を読み取ることはできなかった。しかし、その声は、凍える氷の刃となって、俺の心臓を直接貫いた。


「働いたらどう? 聞いてんの? この、引きこもり」


 父は、再び、その重く、冷たい言葉を、食卓に落とした。


「――やめろ。飯が、不味くなる」


 その一言が、食卓に張り詰めていた最後の細い糸を、ブツン、と、音もなく千切った。空間は、完全な沈黙に支配された。作り物めいたテレビの笑い声だけが、遠く、そして虚しく反響する。


 俺は、喉の奥にこみ上げてくる鉄の味を押し殺し、ただ俯くことしかできなかった。この家で、俺はもはや透明人間だった。外界から閉ざされた小さな世界の中で、俺は、自らの存在意義さえも失っていた。


 誰も、俺を見ていない。俺が席を立った後、妹の美咲は俺の茶碗にご飯をよそい直しラップをかけた。その不器用な優しさに、まだ誰も気づいていない。俺自身も、その時の美咲の行動に気づいてはいなかった。ただ、冷え切った自室のドアを閉ざし、外界との接触を完全に遮断した。世界は、四方の壁と、天井と、床。そして薄暗いモニターの光だけになった。


 ある日、リビングの卓上ノートパソコンで、俺はひたすらに時間を溶かしていた。動画サイトを彷徨い、ホラーゲームの実況動画を見ている時だった。画面の中で、実況者が悲鳴を上げ、恐怖に慄きながらも、楽しそうにゲームをクリアしていく姿を見ていた。その時、ふと、心の奥底から、微かな、しかし確かな声が聞こえた。


(……俺も、やってみたいな)


 その瞬間の心の揺れに、俺はハッと我に返った。何をやっているんだ、俺は。こんなことをしている場合じゃない。いつまでも親の脛をかじっているわけにはいかない。働かないと。頭では理解していた。だが、その考えが、後になって思えば、俺の地獄への第一歩だったのだ。


 社会復帰への道は、想像以上に険しかった。ハローワークの求人票を睨む度、鉛のように重い足取りで面接へと向かった。工場の検品作業では、些細な計算ミスを大声で怒鳴られ、派遣の現場では、童顔のせいで高校生と間違われた。周囲の冷たい視線が、俺の心を深く抉り続けた。それでも、わずかながら得られた給料で、美咲に欲しがっていた携帯ゲーム機を買ってやった時だけが、唯一の救いだった。妹の、ほんの一瞬だけ見せた嬉しそうな顔が、俺の乾いた心に、わずかな潤いを与えてくれた。


 そして、俺が最後に流れ着いたのが、この製氷工場だった。ひたすらに単調な作業の繰り返し。ガシャン、ガシャン、とリズムを刻む機械の稼働音だけが、広大な工場に虚しく響く。ラインから流れてくる、氷袋が詰まった箱を、寸分の狂いもなくパレットに積み上げていく。無心で作業を続けるうちに、俺の心は、次第に外界から切り離され、この機械音と、自分の動作だけが全ての世界になっていった。


 ある日、作業中に、俺はラインの機械が発する稼働音の中に、ほんの僅かな「ズレ」を感じ取った。金属が擦れるような、微かで、しかし不吉な不協和音。それは、耳で聞く音というよりも、俺の頭の中に直接響く、不快な振動だった。俺はすぐに上司に報告したが、上司は呆れたような顔で言った。「神谷、お前またか。気にしすぎなんだよ」以前にも、何度か同じようなことを指摘していたからだ。だが、俺の言葉を無視できないと感じたのか、念のためにと業者に点検を依頼してくれた。結果、俺の指摘通り、内部の部品に深刻な金属疲労が見つかったのだ。この一件がきっかけで、工場は老朽化した機械を新調することになった。だが、俺の功績が誰かに認められることも、給料が上がることもなかった.。俺の能力は、誰にも理解されないまま、ただ消費されるだけだった。


 気づけば、製氷工場での勤務は三年を迎え、俺は28歳になっていた。あのホラーゲーム実況を見て「やってみたい」と思った時から、稼いだ金で配信機材を買い揃え、「K」という名で動画投稿を始めて二年が経っていた。だが、再生数は一向に伸びず、アンチコメントすらつかない、空気のようなチャンネル。それが俺の立ち位置だった。


 昼休憩。休憩スペースの隅に座り、コンビニで買ったカップ麺を啜っていると、スーツ姿の女性が、いつも笑顔で声をかけてくれる。保険営業の佐々木さん。彼女の明るい声と、はにかんだ笑顔だけが、俺の唯一の癒やしだった.。


 ある日、彼女は可愛らしいバスケットを手に、少し照れくさそうに言った。「趣味でクッキーを焼いてみたんですけど、作りすぎちゃって。これ、良ければ皆さんで食べてください」バターと小麦粉の甘い香りが、休憩スペースに広がる。佐々木さんは、パートのおばちゃんたちにクッキーを配った後、一番形の良いものを、そっと俺の机に置いてくれた。そのバターの甘い香りと、彼女の少しだけはにかんだ笑顔が、俺のモノクロの世界に差し込んだ、唯一の色彩だった。俺は、そのクッキーを、一口ずつ、大切に口に運んだ。


 事務所のカウンターへ向かう彼女の後ろ姿を、俺は目で追っていた。「佐々木さん、お疲れ様です」カウンターの内側から、事務員の相川さんが声をかけた。「相川さんもお疲れ様。そういえば、彼氏さんとは、うまくいってる?」「うーん、お互い仕事が忙しくて。佐々木さんは?」「私も、微妙かな」働く女性同士の、軽やかで、しかし少し影のあるやり取り。俺はその光景を、まるで分厚いガラスの向こう側から眺めている気分だった。彼女たちの世界は、俺の世界とは、あまりにも遠すぎた。


 その数ヶ月後、俺の配信チャンネルは、ある動画をきっかけに炎上した。自暴自棄になっていた俺のSNSに、同業者の今宮という男からDMが届く。『炎上大変ですね。俺で良ければ話聞きますよ? 良ければコラボしませんか?』この地獄から抜け出せるなら、悪魔にだって魂を売る。そんな思いで、俺はその誘いに乗ってしまった。


 炎上後、アンチコメントに煽られた俺は、さらに自暴自棄になっていた。「金持ちのボンボンだろ」「どうせ実家暮らしのニート」。そんなコメントに反発するように、注目を集めようと「自宅紹介動画」を投稿した。親がいない隙を狙って撮ったその動画に、テレビ台に置かれた『〇〇宿舎』と書かれた入居資料が一瞬映り込んでいることに、気づく余裕はなかった。


 今宮とのコラボ配信で、俺は道化にされた。「アンチに特定されるものが映ってますよ?」正義を気取る今宮に、俺の自宅紹介動画を晒し上げられる。追い詰められた俺は、「特定されても、うちは笑顔で返しますよ」という、その時の最悪の感情を乗せた最悪の失言を犯した。匿名掲示板では、俺の自宅が特定されるまで時間はかからなかった。『〇〇宿舎』という情報と、去年の夏に投稿した、宿舎の踊り場から撮った花火大会の動画。二つの情報から、部屋番号まで完璧に割り出されていた。


 その夜、インターホンが鳴る。外には、複数の警察官。そして、青ざめた顔でこちらを見つめ、声にならない悲鳴を上げながら、その場に崩れ落ちる、母の姿があった。バタン、と無慈悲な音を立てて、パトカーのドアが閉まる。その音は、俺と、俺の世界の全てを、完全に断絶した。


 俺の人生は、ここで終わった。


 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

神谷圭佑です。


…いや、元・神谷圭佑、と言うべきでしょうか。


パトカーのドアが閉まったあの瞬間、僕の人生は、確かに一度、終わりました。

自作自演の炎上配信者。爆破予告犯。家族を泣かせた、最低の親不孝者。

それが、世間から見た、今の僕の全てです。


でも、物語は、まだ始まったばかりです。


この地獄の底で、僕を待っていたのは、果たして「天使」か、それとも「悪魔」か。


次回、第二話「女神アクマの契約」。


全てを失った男の、本当の「成り上がり」が、ここから始まります。


よろしければ、ブックマーク(★)や応援(♡)で、圭佑のこれからを見守っていただけると、嬉しいです。

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