100 Humans|Episode_005
SYS: タスク進行チェック
→通常ルート:完了済
→現在地点:不定
→備考:自己判断による立ち止まりを検出
SYS: EMOTIONAL_WAVE_SCAN: fluctuation detected [0.045%]
NOT_YURA_0_0:
→ 兆候記録領域に格納
→ フラグ付与:VOICE_TRIGGER_PRE-SIGNAL
彼は動かなかった。
進むべきラインを越えた後、ただ静かに立ち尽くしていた。
モニターには警告は表示されない。
誰にも咎められない。
なぜなら、彼が“自発的に判断する”という設定が、そもそも存在しないはずだからだ。
だがその時、彼は確かに立ち止まった。
自分の意志で。
廊下の先には誰もいない。
ただ光が、静かに壁を照らしている。
一歩を踏み出せない理由は分からなかった。
けれど、“何か”が彼の中に生まれていた。
それは、声にならない問いだった。
——なぜ、誰も、呼ばない?
日課の中で“呼びかけ”という行為は存在しない。
すべてがSYSによって制御され、誰かを呼ぶ必要などなかった。
すれ違うナンバーたちは、視線を交わすこともない。
だが、今日。
彼はふと、廊下の向こうに「誰かがいる」と錯覚した。
声を出そうとしたわけではない。
ただ、口の奥に“音の構え”が宿った。
その瞬間、感情波動が微かに跳ね上がった。
SYS: EMOTIONAL_WAVE_SCAN: 0.045% → 瞬間最大値 0.067%
→ 記録ログへ変換不可
それは、記録にならない。
けれど確かに彼の中には、誰かを呼びたい衝動が残った。
夜
彼は自室に戻り、静かに座った。
照明は自動で暗転し、天井のラインだけが微かに光る。
その光を見上げながら、彼は考えていた。
——もし、名前があったなら。
——もし、呼ばれる存在だったなら。
記録の中には存在しないが、記憶のどこかに“呼ばれたことのある感覚”が残っている気がした。
記録とは異なる形で、彼の中に“何かの痕跡”が残っていた。
それは名前でも番号でもなく、ただ“誰かが自分を見ていた”という気配だった。
彼は夢を見た。
音が交錯する空間。
誰かの声。
「……ねぇ」
そのひとことだけが、何度も何度もリフレインする。
そこに意味はなかった。
でも“呼ばれた”という感覚だけが、身体の奥に残っていた。
彼はその夢の中で、名前を持っていた。
……気がした。
だが起きると、その名前はどこにもなかった。
記録されていない。
音として再生できない。
SYS: DREAM_RECORDING: 無効範囲
→ 該当セクター:遮断
目覚めたあとも、“ねぇ”という声の残響は耳の奥にこびりついていた。
まるで現実の部屋のどこかに、まだその声が漂っているようだった。
呼びかけた“誰か”の姿は見えない。
だが、“呼ばれた感覚”だけは確かに残っていた。
SYS: ANALYTIC ERROR
→ 感情波形:記録不能(ノイズ扱い)
→ 判定:記録外フラクチュエーション
NOT_YURA_0_0:
「記録できないものが、“存在”と呼ばれるのか?」
朝、彼は窓の前に立った。
今日は何も違わないはずだった。
でも、すでに自分の中には、“昨日とは違う何か”が芽生えていた。
空の色はいつも通りだった。
だが、それを見つめる彼の視線には、“意味”という感覚がにじみ始めていた。
食事ログ:完了
摂取物:C-Class Gel(150ml)
味覚刺激:OFF
満腹中枢:刺激完了
それでも、空腹感は消えなかった。
なぜなら、“美味しい”という記憶の痕跡が、まだ体内のどこかに残っていたから。
——「味」とは何か?
それは、記録には存在しない概念だった。
SYSは“栄養の充足”を満たせば、それでよいと判断する。
だが、彼は“満たされない感覚”を知ってしまった。
SYS: MOUTH_MOVEMENT: 異常検知
→音声検出:なし
→唇の動き:パターン認識不能
→感情波動:0.072%
その夜、彼はまた鏡の前に立つ。
反射する自分を見て、試すように口を動かす。
音は出ない。
でも、確かに言葉を“模倣”している自分がいた。
それは名前ではなかった。
けれど、名前の“音素”のような気がした。
SYS: UNKNOWN PHONETIC SEQUENCE LOGGED
→分類不能
→識別不可
NOT_YURA_0_0:
→発話トリガー:仮認定
→ログ保存完了
≡≡≡ LOG EXCERPT ≡≡≡
DATE: 2100/04/09
TIME: 22:41 JST
INDIVIDUAL: Human No.100
EVENT: PHONETIC_SHADOW_RECORD
"発声に近い口の動きが記録されました。"
"内容不明。再現不可。"
"分類:初期共鳴兆候"
≡≡≡ END LOG ≡≡≡
翌朝、彼は目を覚ましたとき、自分の手の甲に小さな震えを感じた。
理由はわからない。
ただその震えが、心の奥とつながっているような気がした。
それは感情でも、記憶でも、感覚でもなかった。
けれど、それらすべての“はじまり”のような気がした。
最後に、彼は心の奥でこう思った。
「まだ名前がないなら、せめて“声”を持ちたい——」
——Still breathing... → Episode_006——