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「マリア、何か少しでも食べて…」
お母様が普段なら絶対に許してくれない、ジャムをジャムだけで食べることを許してくれている。
それでも食べる気がしない。
レモネードを少し口に含むと、またうとうとした。
「お嬢様、早くお支度をしないと」
エミリーが困ったように言うが、そもそも出かける先が気に入らない。
出かけたくないのだ。
態度でそれを示しても、お母様も一緒に行くのだから、きっと出かけねばならないだろう。
でも、行きたくないものは行きたくない。ぎりぎりまでごねてやる。
お母様は公爵家の一員として恥ずかしくない態度で参加するようにというけれど、何故私が困窮院に行って、みすぼらしくて近寄ると臭い人達にスープをよそって渡さなければならないのか。
普段、自分のためのスープだって自分では用意しない。
みんな使用人達の仕事だ。
私は公爵令嬢なのだから、そんなことをするのはおかしい。
物好きなお母様に付き合わされるなんてまっぴらなのに。
持てる者は持たざる者に…?
そんなのは私には関係がない。
本当にどうしてこの私がそんなことをしなくてはならないのか、理解できない。
でも、お母様には言えないから、最終的にはしぶしぶ外出用のドレスに着替えて出かけることになり、仏頂面で嫌々手伝うことになるのだ。
そして、帰宅してから、私の態度について、お小言をもらう羽目になる。
全く嫌になる。
「お嬢様、やっとお熱が下がりましたね」
エミリーがほっとしたように微笑んで、私が飲み干した薬湯の入っていたマグカップを受け取ってくれた。
ここ何日か、高熱でずっとうとうとしていて、頭には霞がかかったようで、たくさんの夢を見た。
…いや、正確には夢ではなく、過去の記憶。
頭がぼぅっとして、どうして私はこんなことになったのか思い出せない、と言った私に、エミリーが教えてくれたところによると。
私はいつものように乗馬のレッスンを受けていて、何かで馬を怒らせたようで、馬から振り落とされたのだとか。
まあ、恐らく私はいつものようにいやいやな態度丸出しで、賢い馬はそれで既に機嫌を損ねていたところに、何かきっかけがあったのだろう…。
覚えてないけど。
あの馬はなにしろ我が家で一番賢くて大人しい馬なのだから。
とにかく、それで気を失って、ベッドに寝かされていたところ、意識を取り戻したと思ったら今度は高熱を出し、丸三日意識がはっきりとせず、皆がたいそう心配した、ということだった。
私自身も、この朦朧とした三日間で、かなり頭の中が落ち着いた。
今の私は十歳のガードナー公爵家令嬢のマリアであり、その十年の記憶もしっかりあった。
でも、同じくらいに、…多分『前世』という表現に当たるのだろうか?三十七歳で一人息子を残してきた高橋真理としての記憶も、まるまるあった。
そして、生きてきた時間の長さの違いだろう、内面で自分として認識する自分は、ほぼ高橋真理のものになっている。
十歳の体に三十七歳の中年のおばさんが入ってしまったようなものだ。
「まだお熱が下がっただけで、体力は回復しておりません。今日もベッドでお過ごしくださいますよう」
エミリーがずれていた肩のショールを直してくれて、心配げな顔で言ってくれる。
今までの私なら、ここで、『つまらないわ!何か気晴らしになるものを持ってきて!』と言うところだ。
一瞬そんな言葉が脳裏をよぎったのだから間違いない。
でも今の私は、そんな高飛車な態度をとったりはしない。
「わかったわ。皆にも心配をかけたのだもの。大人しくして、早く元気になるように努めるわ」
真理としては普通の返答をしただけなのに、エミリーが私の顔を見て固まってしまった。
ちょっと、しまった、と思ったけれど、後の祭りだ。
急にマリアの人柄が変わり過ぎだろう。
でも、中年の私には、傲慢で我儘なマリアの性格は受け入れがたく…我が子だったらかなり厳しく躾けるところだ。
マリアの両親は歳若くして親になっており、さらに第一子のマリアの子育てには試行錯誤をしてしまい、記憶にある限り、怒られたことはあっても、躾けられた記憶がない。
乳母が時折叱ってくれていた気がするけど、使用人の言うことだと聞き流していた。
家庭教師たちが色々な教育を受け持っていたけれど、公爵家という貴族のトップの娘に対して、おもねっていたようだ。
性格や言動を矯正するのは自分たちの仕事ではないと放棄していた部分もあるだろう。
私は公爵家を継ぐこともないので、勉強が嫌いでも家門を脅かすことはない。
でもプライドの高い娘ではあったので、見た目ではっきりと差が出る淑女教育だけはちゃんとこなせていたから、貴族令嬢としての所作は問題がなかった。
なので。
今後は自分で自分を躾ける、というか、我儘も傲慢な態度も今後は許しませんよマリア…いや自分だし…という状況だ。
まあ、高貴な身分の令嬢としての言動のバランスをとるのはおいおいでも大丈夫だろう。
とりあえずエミリーに恐る恐る微笑んで見せた。
自分付きのメイドは一番近しい存在だ。
微笑みかけるくらいはいいだろう。
エミリーはそんな私を見て、うっすら目に涙を浮かべて、もしや落馬のときに頭を強く打ちつけられた?…などと小声でつぶやいた。
いや、聞こえてますよ…。
「数日勉強もしていなかったから、歴史の本でも持ってきて?本を読むくらいは許されるでしょう?」
十歳なりの記憶でこの世界のことはある程度わかっていても、中身の大人の私は、この世界のことをもっと知りたい。
私の中の二人の世界観があまりに違いすぎるので、この世界のことを把握したかった。
それで思わず言ってしまったのだけど、そういえばマリアは、勉強は好きな子ではなかったっけ…。
「すぐにお持ちいたしますわ」
エミリーが明かに驚きに目を丸くした後、さすがは公爵家の使用人、すぐに立ち直って本を取りに出ていった。
このあと数日間、自室に籠って歴史や地理、さらにはマナー集など手当たり次第に本を読みふけった私は、使用人や家族からも、頭を打ったこととその後の高熱でマリアはおかしくなった、でも良い方に変わって良かったね、と言われているなんて気付きもしなかった。