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ぱち。と目があいた。
あれ、今回も死ななかったんだ、良かった…悠人は心配しただろう…一体何日間意識不明だったのか。
ぼんやりしていてなかなか視界がはっきりしない。
それでもじっと目を凝らしていると、誰かが顔を覗き込み、琥珀色の目と、目が合った。
「若旦那様!若奥様!お嬢様がお気づきになられました!」
…若旦那様?
……若奥様??
………お嬢様???
「ああ、マリア、このまま目を覚まさなかったらどうしようかと、生きた心地がしなかったよ」
「マリア、まだ痛む?どこが辛い?あぁ、それよりお水をお飲みなさい」
聞こえた声と、ようやく見えるようになった視界に入ってきたまだ若い男女を、私は両親だと認識した。
琥珀色の目の赤毛の少女…私付きのメイドであるエミリーが、上半身を起こすのを助けてくれて、背中にたくさんのクッションをあてて快適に起きていられるようにしてくれた。
「本当に心配したのよ…」
お母様が涙ぐみながら、グラスに入れた水を渡してくれた。
唇がカサカサで、口の中も乾いていた。
こくん、と一口飲むと、全身に染み渡るような感覚があり、そのあと一気にごくごくと飲んだ。
エミリーがすかさずおかわりを注いでくれたので、それも飲み干す。
そして頭の中は大混乱だ。
私は高橋真理、三十七歳で、ガンが全身に転移していて、…そうだ、悠人は?
辺りを見回す。
ベッドの四隅には柱があって、レースの幕がかかっている。
両親のいるところだけ開かれていて…ここは私の部屋の自分のベッドだ。
…ん?
自分のベッド?
私はマリア、十歳、ガードナー公爵家の長女、弟が二人いて…。
あれ?私は真理?マリア?
もう一度辺りを見回す。
自分より若い男女を見ると、やっぱりお父様とお母様だ、と思う。
でもお父様は金髪碧眼、お母様は薄い茶色の髪に茶色の目、日本人とはかけ離れた色の髪や目の色だ。
自分の手をじっと見る。
結婚指輪もしていないし、あかぎれもない、きれいな子どもの手だ。
何がどうなっているの…?
目眩を感じてクッションに体を任せると、周りがバタバタと騒ぎだした。
「あなた、大変!すごい熱だわ!もう一度お医者様を呼んでちょうだい!」
「奥様、どうぞこれをお使いください」
…おでこにひんやりとしたものが乗せられて、気持ちがいい、と思ったところで、意識がなくなった。
悠人は、私の死亡保険金で、私の入院費を清算しても、高校の三年間の家賃とこまごまとしたお金は足りるはずだ。
特待生になってくれたので、入学金も授業料も免除だからだ。
三月の、しかも月末の生まれで、さらに未熟児だったので、小さい頃は悠人と同学年の子達が難なくできることも出来ず、心配したこともあったけれど、むしろそれで努力することが習慣化したようだった。
アパートの近くの、私の働いていたお弁当屋さんもあった商店街の皆さんが、悠人を可愛がってくれた。
近くの食堂のおばちゃんは、小学校に入って学童保育に入れようとしていた悠人を、昼営業と夜営業の間だから大丈夫、と無償で預かってくれ、毎日おやつを食べさせてくれた。
夕方から食堂の夜営業が始まる時間になると、今度は理容室のおじさんとおばさんが悠人を預かってくれた。
どうせ待合の椅子があるんだし、と一角に悠人専用の椅子と机を用意してくれて、悠人はそこでいつも宿題や勉強をした。
悠人が、理容室の床に散ったお客の髪をほうきで掃除するたびに、十円のお駄賃をくれて、それを悠人は理容室の机の上に置いた貯金箱に貯めていたら、そのうち常連さん達がお釣りの小銭を悠人の貯金箱にこっそり入れてくれていた。
中学生になって帰る時間が遅くなると、学校から真っすぐ理容室に向かい、ますます理容室の看板息子のようになっていた。
「お客達が頭を寄せ合って考えても分からない難しい問題を、悠人君はすいすいと解くんだからね!」と得意満面でおばさんが自慢して、「俺たちの子じゃねえだろ」、とおじさんに突っ込まれていた。
理容室の定休日には、週替わりで、喫茶店、花屋、お茶屋の皆さんが悠人をみてくれた。
喫茶店のマスターは新作の軽食の味見係と称して、悠人に軽食を食べさせて、たまには勉強もみてくれた。
花屋のお嬢さんは配達の手伝い、と花束などを車まで運ぶのを手伝わせ、配達にも乗せて行って、帰りにファミレスやショッピングモールのフードコートでおやつを食べさせてくれた。
お姉さんの「配達帰りのサボりがばれないように、内緒にしてね!」という言葉に、悠人は心を痛めていたようだけど、本当はお姉さんは悠人に外食経験をさせてくれていたのだ。
お茶屋のおばさんは、お茶を袋に小分けにして封をしたものにシールを貼ったり箱に詰めたりする雑用をちょっぴりだけ手伝わせて、その後はおばさんの孫のあやちゃんの世話係に任命し、お茶屋の店頭につながっている居間でおばさんに見守られながら、三つ年下のあやちゃんと一緒におやつを食べたり勉強をした。
悠人の運動会のときなどは、私の働いているお弁当屋のおじさんとおばさんは特大のオードブルを作り上げて、商店街の皆さんと一緒になって悠人を応援してくれた。
商店街は臨時休業のお店がたくさんで…むしろあんなに応援のあった子は悠人だけだ。
皆さんにあれだけ可愛がっていただいていたから、私がいなくなっても、困ったときに相談できる、信頼できる大人は、他人ではあってもたくさんいる。
お金さえ何とかなれば、あの子はきっとあそこを離れなければ大丈夫。
商店街の皆さんがこっそり期待していた、お茶屋の孫のあやちゃんとでも結婚したらきっと…。
「あっ、お嬢様、大丈夫ですか?お水を飲んでください。薬湯も少しでも…薬湯が飲めたら、はちみつを差し上げますから」
うっすらと目を開けたら、すぐにエミリーが目ざとく見つけて話しかけてくる。
薬湯を飲むとまたうつらうつらと眠りにおちる。