13ハルト
母さんが逝ってしまって、僕はしばらく空っぽだった。
母さんが僕の人生全て、という訳ではもちろんなかったけれども、ずっと二人で生きてきたのだ。
母さんはいつも自分のことよりも僕のことが優先で、僕はどうしたら母さんが楽になるかをいつも考えていた。
もしかしたら母さんが元気なままだったら、反抗期がきて、うるせーババア!などと毒づくような機会もあったのかもしれない。
でも僕は、周りから大人びていると言われることが多かったけど、実際のところは親離れが全然出来ていない、子どものままだったのだ。
物心ついたころから、一日の中で母さんと一緒にいられる時間はほんの数時間。
甘えたいときにそばにいてくれるとは限らず、幼い頃に満たされなかったその気持ちがこじれたのか、母さんといられる時間は大切で、一緒にいられるときは何もしなくていいように、宿題や勉強はいつも集中して早く終わらせる習慣がついていたほどだ。
一人になってしまってからも、幼いころからお世話になっていた商店街のおじさんやおばさん達が、本当に何不自由がないように、面倒をみてくれた。
おじさんやおばさんが言葉少なに聞かせてくれた話によると、父さんが亡くなった事故はかなり大々的に報道されるようなものだったらしく、ワイドショーでも、ショックで予定より早く出産した母さんのことや僕についてまで、触れられていたそうだ。
それもあって、皆、母さんがどうしてシングルマザーなのかを知っていて、僕たち母子を気にかけてくれたらしい。
それに母さんが頑張り屋だったので、自然と手助けをしたくなり、僕も商店街の人達に素直に懐いたので、可愛がり…。
そして、今度は父さんに続いて母さんまで亡くした僕が、不憫でならない、ということだった。
僕ら親子は、商店街の皆さんのお陰で、随分と母子家庭にしては生きやすかった。
僕も、きっと母さんも、感謝しかないし、そんなに自分を不幸だと思うこともなかった。
でも商店街のおじさんやおばさん達は、僕をとてもかわいそうに思ってくれていて、今までにも増して、面倒を見てくれるようになった。
なので、一日のほとんどを一人にならずに過ごすことができた。
でも夜、母さんと暮らしたアパートで一人になると、涙が止まらなかった。
高校に入学して、お葬式や、後見人などの法律の関わることもひと段落してからは、学校では努めて明るく振舞った。
学校でくらい、楽しいと思い込みたかった。
友達もすぐにできた。
両親もいないし、貧乏なことは隠さなかったので、一部の人たちからは陰口を叩かれていたのは知っていたので、だてに特待生ではないことを見せつけてやった。
僕は母さんに似て、一度教わったことはすぐに覚えられたし、忘れにくいという特技があった。
そして僕は、運動は苦手だった母さんとは違い、父さんからは、抜群の運動神経を受け継いていた。
抜群の記憶力と身体能力。
人からは羨まれるそれらを持っている代わりに、僕はみんなが普通に持っている家族を持っていなかった。
難なく学年トップの成績を維持し続ける僕に、ある日、先生が留学の話を持ってきた。
新しくできた制度で、選考試験に合格した者は、留学費用…すなわち渡航費用、家賃と生活費、そして学費、これら全てが公費で支給されるというのだ。
僕はすぐにその話にのった。
今は学費に関わるものは無料だけど、食費や家賃といった生活費は母さんの残した貯金…大半が死亡保険金を充てていたからだ。
勿論商店街でバイトはさせてもらって、生活費も切り詰めていた。
でもできれば大学に行きたかったし、社会人になるまで、少しでも切り詰められるものは切り詰めたかった。
こちらからは一切お金を出さずに生活できて勉強もできるなら、外国でも構わない。
そして。
たった一人だけ選ばれるその留学生に、僕は選ばれた。
アパートを引き払って、大きなトランクとリュック一つしか荷物のない僕をみて、見送りに来てくれた商店街のおじさんもおばさんも泣き笑いをしていた。
笑って見送りたいのに、笑えなかったのだろう。
でも、家族も物もないことに慣れていた僕は、少し晴れやかな気分だった。
外国に行けば僕のことをかわいそうな子だと知っている人はいない。
日本に帰ってきたら必ずこの町に戻ってくるから、と約束して…でも大学も外国にしちゃうかもだけど、なんて軽口をたたいて…。
そして僕は母さんと暮らした町を出た。
留学先では学校の寮に入ることになっていた。
僕以外にもいろんな国からの留学生がいるようだったし、外国語は得意だったのでほとんど心配はしていなかった。
数か月友人だったクラスメイトに寂しがってもらえたので、留学先でもきっとすぐに友人ができるだろう。
留学先の国に到着してみると、入国はすんなりできたのに、手違いで学校からの迎えが数時間遅れると電話がきた。
僕は軽い気持ちで、途中の乗換駅での待ち合わせを提案した。
留学先の学校からのお迎えの人は日本人で、日本語が通じたし、電話を持ち歩いている今の時代、待ち合わせですれ違うなどないからだ。
そして、余分なお金などあまり持ち合わせていない僕は、留学中に旅行する機会は望めないだろうと思っていたので、途中の駅で降りて、少し観光をしていきたかったのだ。
そこは、母さんが生きていたころ、行ってみたーい、とテレビで見ては騒いでいたところだった。
パワースポットとしても有名で、世界各地からの観光客が訪れるところだったので、日本で身に着けた語学力で十分に事足りて、たどり着くことができた。




