初秋
率直に申しまして、私と浅海さんの関係は、周りのパートおばさん方が思っていたものとは程遠く、もっと淡白なものだったと理解していました。事実、私たちは仕事場以外では顔を合わせませんでしたし、互いに干渉しあうこともなかったのです。
べつにお互いに避けていたわけでもそう関係でいようと決めていたわけではありません。ありませんが、そうであることが自然であって、その状態に知らず知らずの内に移行してしまっていたわけなのです。私たちは職場でだけ『浅海さんと私』という関係性を築いていました。
ですので、その日、ぐぐぐっと空が遠くなってきていた木曜日のことなのですが、仕事を終えて一息ついていたところに、唐突に浅海さんから声がかかったことはまったく予測していなかったことでした。
「千夏ちゃん、この週末空いていないかな?」
一月程前に、“先輩”を使うことは禁じておきました。居心地の悪さに耐え切れなくなったのです。とろくさくても、浅海さんは私よりも年上です。先輩呼ばわりされるのは甚だこそばゆいことでした。
「週末ですか? 取り立てて予定は入っていませんが……」
中学時代にいろいろあって不登校となり高校進学を止めた私には、週末にいやいや首を左右に振りながらもしなくてはない勉強も、秘めたる力を存分に解放してリミッター限界にまでテンションを挙げて遊ぶ友達づきあいも、真摯に打ち込む部活動もなにもなかったのです。
「ならさ、一緒に買い物行かない?」
「買い物ですか?」
「そう。服とかアクセサリとか。楽しいよ」
残念ながらまったく興味のないジャンルでした。私は、確かに阿呆のように貯金だけはしていましたが、特になんに使うわけでもなく、おそらく将来に困ることがあるから貯金しているのであって、刹那的な消費に使う気などさらさらなかったのです。
「あまり気乗りはしないですね」
正直に言うと、浅海さんは少し残念そうに眉を下げました。
「そっかー。一緒に行けるといいなあって思ったんだけどな」
「…………」
言って、俯き指を弄くりだした姿を見るのは拷問に近いものがありました。
要は、浅海さんはそれでも来て欲しいと言いたいのです。けれど、一応は拒否の態度を示した相手に同じことを言うのが憚られるので言えないでいるのです。言葉にできない分、それが態度に表れている。
はっきりしない人間は腹立たしいものです。ムカムカを募らせながら、しかし一向に譲歩するつもりがない浅海さんに、じいっと耐え続けていた私もとうとう折れてしまいました。
「……分かりました。行きます」
「えっ。本当に? いいの?」
いいの? じゃありません。それが望みだったくせに。あざといのです。現に浅海さんの表情には光が差し込んでいて、ついちょっと前までの沈んでいた面影はどこかに消えてしまっていました。
「本当ですよ。ここで嘘を吐いてなんになるんですか」
「やった。じゃあ、追って連絡するね。あ、携帯のアドレス教えて」
ここで時間を決めればいいじゃないかとは思いましたが、私は携帯を出してアドレスを浅海さんに送りました。そう思えば、私はそれまで浅海さんとお互いの連絡先を交換していませんでした。
「じゃあ、また後でね。お疲れ様」
言って、満面の笑みを浮かべながら更衣室から出て行った姿を、私は呆けるように見つめていました。なんとも気分の移り変わりが激しい人です。やはり、頭が軽いのかもしれません。もしくはネジが緩いのか。火星人だったら面白いと思う。
私はため息をひとつ吐いてからゆっくりと帰り支度を始めました。無論、さてさて困ったなあと考えながらです。
しかしながら、実際休日は暇でした。本当に予定など入っていなかったのです。
そりゃあ、毎週がそうだというわけではありません。先述したように、私は阿呆のようにただただ貯金をしているのです。週末に何もしないでごろごろするよりも、掛け持ちでも何でもしてバイトを入れる週末の方が多いくらいでした。お金は、あるに越したことはないのです。具体的な休日の過ごし方がなかった私は、餓鬼の如く貪欲にバイトのシフトを組んでいたのでした。
けれど、その週末だけは違ったのです。運悪く、というのが適切かどうかは分かりませんが、本当に何も予定が入っていなかった。暇も暇で、なにをして過ごそうか悩んでいたくらいでした。不意に訪れる空白の時間ほど、対処に困るものも少ないような気がします。
さてさて、そこにぽんとボールが飛んできたわけです。手ぶらだった私は、とすんと両手で抱え込むようにして浅海さんの申し出を受け入れてしまった。反射神経がよ過ぎたのかもしれません。けれども、もし他の週だったのなら、身を翻して避けたり、あるいは蹴り返すことができたのかもしれなかったのに……
なんと間の悪いことでしょうか!
ふつふつと考え直していくうちに、やはりそう思えてきて仕方がなくなってきてしまいました。だってです。何もすることがない休日というものは、反面、なにをしてもいい自由な時間を与えられたということであるはずなのですから。バイトに遅れることを心配する必要もなく、じりじりとうるさい目覚ましに不快になることもなく、前日をも考えてみれば好きなだけ夜更かしができるわけなのです。
まあ、今更夜更かしのひとつやふたつで喜び興奮するような私ではありませんが、それでも格段に時間を使う手段は増えていたはずだった。
なのに、浅海さんの提案に乗ってしまった。あのド天然のトンチンカンに簡単に乗せられるような私ではないのですが、巧妙に道を選ばされてしまっていました。
これは由々しき事態です。私と浅海さんの関係性を、根本から揺るがしかねない大事件に間違いありませんでした。
けれども、鼻息を荒くしながら勇んで自転車をこいで自宅へと帰った私は、道中携帯に入っていたらしい一通のメールに、図らずも穏やかな気持ちになってしまったのです。
『件名 ありがと
『本文 今日はごめんね。急に頼んじゃって。本当にごめんなさい。でも、いつもわたしは失敗ばかりだったから、いつかはお礼をしなくちゃって思ってたの。それで、いろいろと工面もできて、わたしの方も段取りができたからどうかなって思って。いっつも急なんだよね、わたし。けど、千夏ちゃんに受け入れてもらってよかった。断られたらどうしようって思ってたんだ。本当にありがとうね。で、週末の予定なんだけど――』
連なる絵文字とごてごてに装飾されたデコメール。正直なところ私の趣味ではなかったのですが、その一端にも、いわゆるギャル文字や意味のよく分からないネットスラングが表れていないことに好感を持ってしまったのです。
つまり、浅海さんは私との間に適度な距離を確立してくれていたのでした。そのことが少しだけ、本当に少しだけ嬉しくて、だからこそ私の頬は勝手に緩んでしまったわけなのです。
仕方ないのかな。そう思わせるだけの人柄が、浅海さんには備わっているようでした。無論、始めから分かるような人柄など高が知れていますから、この許さずにはいられない面倒くささというものは、それなりのつながりを築いた証なのでした。
考えてみれば、私がバイトをしていたスーパーに浅海さんが入ってきてから半年以上が過ぎているのでした。その歳月の間、一度もプライベートを一緒にしていないというのは、些か不自然なことだったのかもしれません。
いえ、確かに職場の人たちが私よりも年配の方たちばかりだったのならばなくても構わないのです。あるいは自己顕示欲だけが強い男子諸君などであっても交流は御免被りたいところでしたでしょう。
しかしながら、浅海さんは女性で、しかも私とはそれなりに歳が近かったわけなのです。パートのおばさん方からは姉妹などと呼ばれていたくらいでした。どういうわけか私が姉になってしまっているのですが。一度や二度くらい一緒に外を歩いてもよかったのかもしれません。他のバイト先、例えばボウリング場やカラオケ店などでは、店を閉めるときに一ゲームしたり、バイト仲間と歌いあったものだったのですから。
だからこのお誘いは、まあ普通ではないのかもしれませんが、あり得ないことではなかったのです。それによって自由な休日が潰されてしまうことになったわけですが、今の私にはそれでもいいような気がしていました。
だって、相手は浅海さんなのですから。不思議な魅力を持っている浅海さんが一緒に行こうと言っているのだから、仕方のないことなのです。何をどう足掻こうが、どうしようもないほどに仕方のないことなのでした。
分かりましたと、絵文字もデコメも使わずに返信した私は、携帯を閉じるとベッドに投げ捨てました。電気を落として、自室を後にします。ふんわりと廊下に漂っていた夕食の匂いは、どう嗅いでみてもカレーに間違いありませんでした。ぐぅと私の腹時計が大きな音を立てました。
たくさん食べてやろうかしらん、と、廊下の床板を踏みしめながら、戦場に赴くかのような覚悟を抱いたのでした。
例えば、の話です。
友達から一緒に遊園地に遊びに行こうと誘われたとしましょう。あなたは、いいね、行こうか、と快く返事をしました。芳しい答に気をよくして笑顔になった友達は、しかし通りがかった級友の肩とぶつかってつまらない口論をしてしまいました。それもかなり激しいもの。
そんなことがあった場合、当日の遊園地にはどんな面子が集まるのでしょうか。
私には、少なくとも現状目の前に顔をそろえた面々が集まるとは到底思えないのですが。それとも、これこそが世に言う普通の状態なのでしょうか。
「あ、千夏ちゃん。こっちこっち」
言いながら大きく手を振った浅海さんは、スーパーにいるときからは考えられないような、白を基調とした、とても軽やかで可愛らしい服装に身を包んで、晴れやかな表情を向けてきていました。
そして私は、その隣に本来ならばいてはならない人物を見つけてしまいます。
あろうことか、面倒くさそうに頭を掻いていた古川くんは私と視線が交錯するや、あからさまな舌打ちをしたのでした。この野郎。
「よかったぁ。来ないかと思って心配してたんだ」
駆け寄り、私の手を取りながら浅海さんは朗らかにそんなことを口にします。
「来ないって、まだ時間は大丈夫でしょうに」
答えながらも、私は戸惑っていました。なぜに、古川くんがいるのか。そして、古川くんがいるとするのならば、なぜに私が今日呼ばれたのかが分からなかったのです。力強く腕を引く浅海さんに急かされて、私は古川くんの待つ場所まで歩いていきました。
「さ、行こうか」
ぱんと、両手を叩いて、揃った三人の中、ただ一人浅海さんだけが上機嫌でした。私もそうだったと思うのですが、古川くんは渋い表情を浮かべていました。視線は、あからさまに私を邪険にしていて、ちょっとだけ居心地の悪さを覚えた私は、見下すかのようにして注がれる視線を俯いてかわすことにしたのでした。
私と古川くんの仲は、あの一件以来どうにもぎくしゃくしているように思います。
「あれ、どうしたの二人とも」
能天気に、諸問題の原因は声を上げます。この人だけは、不思議と変わらない関係を保持している。
「べつに」
「なんでもありません」
振り回されるばかりの私たちは、どうにかこうにかそう口にするのが精一杯でした。
その後私たちはショッピングを満喫し、映画を楽しみ、ファミリーレストランでお腹を満たしました。私たちは、としましたが、無論大半は浅海さん一人が満足したに過ぎず、残りの二人、つまるところ私と古川くんとは、どうにもこうにも据わりの悪い雰囲気に耐え続けなければなりませんでした。
はっきり言って、私も古川くんもすぐにでも帰りたかったのです。
こんなことになるなんて聴いてなかった!
私はなぜか来ていた古川くんのことを疎ましく思い、それ以上に浅見さんのことを恨んでしまいました。映画が始まる前など、じいいいっとその横顔を邪念でもって見つめてみたほどです。あるいは古川くんと睨み合ったりもしました。けれども、元来が鈍い浅海さんには伝わるはずもなく、また私としてもそんなことで伝わるなどとは思っていなかったので、浮かんだ満足そうな笑顔が不思議そうに揺らぐなんてことはついと訪れることがなかったのでした。
そんなわけで、私たち三人は苦行のような日程を終えて解散を目前に控えていたわけです。
「あー、楽しかったなあ」
と、人ごみの中を歩きながら大きく背伸びをするのは浅海さんだけです。そりゃそうでしょうよ、と私は胸のうちで毒気吐きました。へんてこりんな緊張を強いられる羽目になった私たちの身にもなってみて欲しいくらいでした。振り回されるのは好きではないから。
隣を見れば、古川くんも疲れ切った顔をしていました。思えば、一番の被害者は彼だったのかもしれません。女の子特有の、長い長いお買い物に付き合わされる羽目になっただけではなく、私がいたがためにへんてこりんな空気に耐え続けなければならなかったわけなのですから。
ですので、不本意ではありますが、本日一番の殊勲賞は古川くんに与えることにしましょう。私は、差し詰め敢闘賞といったところでしょうか。少しだけ、彼と想いを共有できたような気になりました。
倦怠感を引き摺りながらだったため少し眺めすぎたのでしょうか、視線に気がついた古川くんと僅かばかり見詰め合ってしまいました。
これは気まずい。
さっと視線を外した私は、やれ女の子はもっとオシャレに気を使わなければならないんだよと諭されて買わされた品々が詰まった買い物袋を引っ提げた左手で胸を押さえていました。
「また行きたいね」
先頭を歩いていた浅海さんが、信号待ちの集団の中でぽつりとそう言いました。ずっと前を向いたままなので表情は分からないのですが、きっと満足そうな顔をしているのではないかと思います。
もちろん私は御免でした。もうこんなのはたくさんだった。けれども、隣からは違った返事がありました。
「そうだな」
それは、とても穏やかで優しい響きを持った声でした。スーパーで激しく浅海さんを叱りつけた古川くんではないようです。もしかして双子の弟さんなのだろうかと驚き視線を向けてしまった私に向けて、古川くんは苦笑を浮かべながらも肩をすくめました。それが一体どういう意味を持つ行動なのか――
「やっぱりそう思う? 楽しかったもんね」
はしゃぎながら振り向いた浅海さんの表情は子供みたいに輝いていて、見ているとこっちまで楽しくなるような、思わずため息を吐いてしまうような、そんな明るさに満ち溢れていたのでした。
「今度は事前にどんなメンバーが揃うのか教えてくださいよ?」
呆れてそう言うと、浅海さんはようやくその事実に気がついたのごとくに目を見張り、口許に手を当てました。
「あれ、わたし説明してなかったっけ?」
「してねえよ」
古川くんが馬鹿にしたようにおでこを小突きました。直後に非難めいた声を上げて額を擦った浅海さんの姿を、私は笑わないで見ることができませんでした。
「ちょっと、千夏ちゃんまでひどいよ」
「ひどいのは物事の順序をしっかり決められない浅海さんの方がよっぽどですよ」
「そんなあ」
青に変わった交差点を、私たちは進んでいきます。ビルの隙間から見えた夕焼け空に、鳥のシルエットが横切っていました。