初夏
私と浅海さんが一緒に働き始めて数ヶ月が経ったある日のことです。じめついた空気の中に、気の早い蝉の鳴き声が響くようになってきていました。
その日浅海さんは、ダンボールが山積みになった裏の倉庫でバイト仲間から注意を受けていました。相手は、私よりも浅海さんよりも後に入ってきた大学生の古川くん。彼は尊大に腰に手を当てて、頭を垂れていた浅海さんに覆いかぶさるような威圧感を放ち続けていました。
ちょうど休憩がてら外の空気を吸いに来ていた私には、断片的に耳にした話の内容から、古川くんが浅海さんに何か頼みごとをしていたことを理解しました。そして、おそらく浅海さんがそのことを忘れてしまったことも。古川くんはプライベートな関係に非常にドライな人だったので、仕事での諍いなんだろうなと、不穏な空気を肌に感じ取った私はその場をあとにしようと思ったのです。
「って言うかさ、三島さんってなんでここで働いてるの? みんなの邪魔になってるとは思わないの?」
一言に、どうしてここまではっきりと聞き取れてしまったのかは分かりませんが、思わず私の身体は硬直してしまいました。ぴたりと、両の脚が動きを止めた理由に思い当たる節はなかったにも関わらずです。だって、はっきり言って、私も古川くんと同意見だったのですから。浅海さんは数ヶ月が経っても相変わらずどんくさい浅海さんで、こぼれるため息の数は星の数ほどに達しようとしていたのですから。
けれども、なのです。私の脚はぴたりと止まってしまって、そしてあろうことかぐるりと身体を二人の方へと向き変えてしまったわけなのです。
「聞いた話によるとさ、あんた、レジ打ちもろくにできないんだって? 今やってるところでも、高校生相手に叱られてるっていうじゃないか。どうしたらそんな風になれるの。仮にも大学生でしょ? 恥ずかしくないの」
呆れた口調で滔々と罵倒する古川くんの前で、浅海さんは猛獣に脅える小動物のように小さく縮こまっていました。ほぼ直角に地面を睨んで、ぎゅっと唇を噛み締めて、嵐が収まるのを待ち侘びているというよりは、真正面に暴風を受け止める幼木のような姿をしていました。
その芯の強いことといったら。
「もうそのくらいでいいじゃありませんか」
「ん? ああ、佐野原さんか。君からも言ってやってくれよ。三島さん、ぜんぜん使えないからさ」
思わず声をかけてしまった私に向かってやれやれといった様子で首を振った古川くんが、そりゃあ心情は分からなくはありませんが、心底嫌な奴に見えてしまいました。
「ほんと、無能は困る」
「だから、そのくらいにしておきましょうよ。あんまり言うとパワハラで訴えられますよ?」
「パワラハ? これでかい? 冗談はよしてくれよ。しっかり働かない三島さんが悪いんじゃないか」
「でも、だからと言って限度があります」
「そんなにひどいことは言ってないけどね」
「それでもです。浅海さん、すごく反省してるじゃないですか」
言うと、古川くんは目の前で俯いていた浅海さんのうなじの辺りを見下して、鼻から大きく息を吐き出しました。
「ま、いいけどさ。今度からはしっかりしてくれよな」
それだけ残して、古川くんは倉庫から去っていきました。支給されたエプロンの紐をぎゅっと縛りなおした後姿を、私はいつまでも睨み続けていました。
「……ごめんなさい」
浅海さんはようやくそれだけ口にしたのでした。
振り向くと、地面を凝視したままじっと縮こまっていた浅海さんは、力一杯エプロンの裾を握り締めていました。よく見れば、目尻には涙が溜まっているような気がします。浅海さんはとてもとても悔しがっていました。
古川くんと浅海さんとの確執は、何も今日始まったことではありませんでした。ちょっと前に入ってきたのに、順調に仕事を覚えて、周りからできる奴と認識されていた古川くんは、おそらくだからこその自負もあって、とろくさい浅海さんの存在が気に食わなかったのです。
正直、その気持ちはよく分かる。でも、だからと言ってやり方がストレートすぎるような気がして仕方がないのでした。
だって、古川くんのようなできる奴に、できない浅海さんが、真正面から使えない奴認定を押されてしまったらどう思うでしょうか。どうすればいいというのでしょうか。そりゃあ確かに浅海さんは使えないけれど、性懲りもなく青菜の名前を確認してくるし、レジ打ちにしてもまったく進歩がなくてもう絶望的に呆れられているけれど、でもそれでも使えない奴なりに頑張っているのです。努力はしているのです。にも関わらず、持てる者が持たざる者を頭ごなしに否定してしまっては悲しいではありませんか。
そんなのを見れば、そりゃあ私は気分が悪くなります。うっせえお前、と罵ってやりたくなります。もちろん、立場が悪くなるのでそんなことはしませんが。
身勝手で自己満足的な正義だとは理解しています。けれど、私はいつだって側で浅海さんの横顔を見つめてきたのです。真剣に、充実して仕事に取り組む横顔はとても輝いて見えたのです。
俯いたままの浅海さんは、とてもじゃありませんが私より五歳以上も年上の大学生には見えませんでした。学業の方もこんな感じでどん臭いのではないかと心配になってしまいます。いつもみんなに馬鹿にされていて、迷惑をかけていて。そうじゃない可能性は多分にありましたが、そんな姿は私にはまったく想像できませんでした。それほどに、今目の前にいる浅海さんは、そして私が知っている浅海さんは頼りなくて儚い存在に見えてしまったのです。
「さ、早く戻りましょう」
近づいた私はできるだけ明るい声を、肩を叩きながらかけてあげました。おそらく、それ以外の言葉は、彼女をもっと傷つけるだろうと思ったのです。
不必要な励ましほど、その人を追い詰めるものはないような気がします。
私は浅海さんを残して、さっさと野菜売り場へと向かって歩いていきました。
背後からは、ずずっと鼻を啜った音が響いたような気がしました。