9.『もう会うことはできないかもしれないけれど――』
こうして私は自由を手に入れ、代償に平民となった。
代償――そう、表向きには代償だ。
いくら16歳だった私にだって理解できた。
あれはお父様なりの優しさで、私が望む未来を手に入れる唯一の方法だったってことくらい。
あんなこと言いながら、郊外に立派な家とお金を用意してくれるほど私を心配してくれていたってことくらい。
私がいなくなったせいで起こった数々の問題を解決するために、ベッカー侯爵家当主たるお父様が直々に昼夜を問わず奔走してくれたってことくらい。
――だけど私は、手に入れられなかった。
望む未来も、一番欲しかった人も、なにもかも。
失うだけ失って、この手に残ったものは何も無かった。
「ロルフぅ……」
そして今、また私は手に入れられずに終わるみたいだ。
結局のところ私を必要としている人なんていないし、私の居場所なんてものもない。
否、あったはずのたったひとつの居場所を、この手で手放したのだから、これは必然だ。
『貴族令嬢』という役割を放棄した私に、価値なんてなかった。それに気付けなかった私の失態は、いつまでも付き纏うだろう。
「誰か……助けてよ……」
口の中だけで、そう呟く。
待っていても『誰か』なんて来やしないのに、無責任に救いを求めて。
「お父様……お兄様……」
もう縋れはしない家族を想って、身勝手に呟く。
部屋中を見渡しても、そこには孤独しかない。
ここには、私以外の存在なんて入り込む余地が――、
「――エルマ」
その時、薄ぼんやりと白んできた東の空が、机の上に無造作に放り投げられた一通の便箋を照らした。
惨めになるだけだと避けていた手紙に、今は無性に手を伸ばしたくなる。
なんでもいい。どんなに惨めになってもいい。
せめて人との繋がりを感じたいと、藁にもすがる思いで飛びついた。
「エルマ……エルマ……」
無我夢中で封を切る。
逆さにした封筒から、一枚ばかりの紙がひらひらと宙に舞った。
私は床に落ちたそれを手に取り、震える手で広げる。
たとえこの中身が、自分の伴侶を褒めちぎっただけの惚気だって構わない。
当たり障りのない、大量の知人に送るだけの量産的な一文でも構わない。
エルマが私にために送ってくれた手紙。その事実だけで、私の胸はいっぱいになるだろう。
そう思いながら、目を凝らす。
■
ディアナへ。
久しぶり、長い間手紙も出せずにごめんなさい。
元気? 変わりない?
ディアナのことだから、またお友達を泣かせたりしてるのかしら。
なんて、大丈夫よね。ディアナに泣かされたのは私だけだもの。
私ね、ディアナのことならなんだって知ってるの。
たとえば、とっても強い子だってこと。それから、ちょっぴり弱い子だってこと。
あなたは強い子だから、辛い時には自分ひとりで抱え込もうとするの。
だけどあなたもただの女の子だから、耐えられなくなる日もくるかもしれない。ひょっとしたら、そんな日がもう来ているかもしれないわね。
あのね、ディアナ。
私もちょっとは大人になったのよ?
辛いこともあって、楽しいこともあって。
もう嫌だー! って全部投げ出しちゃいたくなる日もあったり。
そうそう、私、結婚したのよ。
まぁ私の意思ではなかったけれど、いい人よ。
その人に教えてもらったこと、ディアナにも教えるわね。
本当に手に入れたいものがあるのなら、何がなんでも手に入れなさい。
身勝手に、がむしゃらに、本気になりなさい。
後悔したって仕方ないのだから。
どう? いい言葉だと思わない?
自分が本気で望む場所を手に入れるためなら、人に迷惑をかけてでも、誰かを蹴落としてでも、何がなんでも手に入れろって言うのよ?
私たちの常識からしたら、信じられないほど横暴よね。
でも、本当にそれが大事な時もあるのかもしれない。
ディアナ。
もし悩みがあるのなら、自分を押し殺さなくてもいいのよ?
それに、困ったら私を頼って。話を聞かせて。
もう会うことはできないかもしれないけれど、いつまでも親友なんだから。
追伸:頭のいいディアナのことだから、察しがついたかもしれないけど、私に負い目を感じるのはナシね! 私は今とても幸せ。ディアナも、そうあって欲しい。
また手紙を出すわ。ディアナからの返事も待ってるね。
■
止まらない。
溢れ出すものが、止まらない。
私は馬鹿だ。大馬鹿だ。
本当に救いようがなくて、性格も悪くて、頭だって悪い。
自己嫌悪が、自罰が、自責が、溢れ出しては止まらない。
原因は数え切れないほどあるが――今はとにかく、最愛の友達であるエルマに対して、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「わたっ、私、エルマに……っ、酷いこと思っちゃった――っ」
手紙が届いた日、頭の中でエルマに嫌味をぶつけたこと。
こんなにも愛に溢れた手紙を、何ヶ月も読まず埃まみれにしたこと。
――エルマが私のためにしてくれたことも知らずに、知ろうともせずに、勝手に割り切ろうとしていたこと。
なにもかもが、私の拭えない罪だった。
こればかりは疑いようもなく、私の罪だった。
エルマはこんなにも、親友であってくれたというのに。
「ごめん、ごめんエルマ……ありがとう……」
鼻をかむ。
瞼を拭う。
大きく深呼吸をして、目を開く。
いつしか高くなっていた眩い陽は、強く私の瞳を劈いた。
「何がなんでも……手に、入れる」
その帝国の教示は、私も耳にしたことくらいはある。
言ってしまえば、力こそ正義。武力こそが絶対的な権威。
千の人の上に立つならば、千の人よりも強くあれ。
そういったものだが、今回に限っては解釈が違う。
その教示を私に落とし込むならば、
「――望む場所を本気で手に入れるための、信念」
それこそが私に最も必要なものだと、エルマはそう教えてくれたのだ。