6.『あの人に、恋をした』
「ふんふーん」
鼻歌。
鼻歌なんて、『私』の対義語かと思ってた。
現状に大きな不満があるわけではない。
だけど常に気分は鬱屈としていて、まるで心に靄がかかったように重苦しかった。
そしてそれは、一生付き合っていかなければいけない私の罪だと思っていた。
それがどうだ。
いつしか視界は晴れ、気分は上がり、胸は高鳴っている。
朝ごはんを作っているだけなのに、なぜこんなに心が軽いのか。日々が楽しみなのか。
いつから、こうなったのか。
「あの人の……おかげだよね」
記憶を辿れば、答えはすぐに出る。
あの人――ロルフが、私にふたたび光をくれたのだ。
あの日、初めて彼に会った日は……なんとも思っていなかった。
二回目の時は……どうだったかな。
思えば、自分の装いが気になったのも、髪を切りたくなったのも、きっとこの胸の高鳴りが原因だ。
あの時に付けられた火が少しずつ大きくなっていって、やがて自分でも気付けるほど燃え上がっている。
この感情に名前をつけるなら、そう――、
「見て見ぬふりは、できないものね」
恋をしてしまったのだと、そう表現する他ない。
私は、ロルフに、恋をしたのだ。
「だけど……」
この恋を叶えようというのなら、ことは単純ではない。
第一に、彼は貴族だということ。
ヒルパート伯爵家。
私の薄れつつある記憶をほじくり回した結論としては、ここより北へ二週間ほどの場所にある『ヒルパート伯爵領』という小さな領地を治める貴族だったはず。
そんなヒルパート家の彼がなぜこんな町にいるのか。
しかも、言っちゃなんだが暇そうにしているし。
まぁ、それはいい。問題は、私が『家から追い出された元貴族令嬢』ということだ。
もし仮に私とロルフが両思いになれたとしよう。
『貴族』と『平民』。そんな身分差は、このご時世では関係ないことになりつつあるらしい。
だが。
『貴族』と『元貴族』――これはマズいんじゃないか。
というか冷静に考えてみれば、『なんかやらかして侯爵家を追い出された、元貴族のやべー平民』との婚約を、伯爵家たるヒルパートが許すはずないのだ。
下手したらベッカー侯爵家と対立する可能性すらあるわけだし。
そして、第二の問題。
私の、心の問題だ。
「……私って、薄情者だったのかもね」
■
遡ること、四年。
私は、恋に落ちた。
当時16歳だった私は、自分で言うのもなんだがいい子だったと思う。
ベッカー侯爵家の誇りを重んじていたし、のしかかる期待に忠実に応えようと奮起していた。
とはいっても私には三人の兄がいたし、家を継ぐのも兄。
じゃあ私の役目は何かと問われれば、来るべきタイミングで然るべき家に嫁ぐこと。言わば、ベッカー侯爵家が持つ手札の一枚だ。
別に不満はなかった。
貴族に生まれた以上、与えられた役目をこなすことが生きる道であり、術であると教えられて育ったから。
そして事は起こった。
国境付近で、王国軍と帝国軍の小競り合いがあったのだ。
きっかけは些細なことだったと聞いているが、王国軍に死人が出たのがマズかった。
貴族の中でも帝国への反発が強まり、国境付近には多勢の兵が送られた。
今に戦争が始まる。
誰もがそう確信していた中、それをどうしても避けたがる人物が二人いた。
国王と皇帝である。
なんせ、両名には戦争をする理由がなかった。
それに加え、王国は数年前に大規模な内戦があったばかり。自国を制御するのも一苦労なのに、外に送り出せる兵力などたかが知れている。
とはいっても、世界随一の大国である王国と戦えばただで済むわけもなく。
帝国もまた、王国との戦争は避けたかった。
幸い国王と皇帝は、要人を通して意思の疎通に成功した。
二大国を巻き込んだ大規模な戦争は、間一髪で回避することに成功したのだ。
しかしそれでは貴族が納得しない。
いかに鶴の一声といっても現実に死人まで出ているのだ。
戦争はしたくないしやめとこう――では済まないほど、彼らの怒りは大きくなっていた。
貴族を――即ち、民を納得させる説得力が必要ならば。
国王は、いっそ帝国との和平条約を結ぼうと考えた。
あれは不運な事故だった。
帝国軍も、決して積極的に被害を与えようとしたわけじゃない。
ほら、その証拠に和平条約を結ぼう。
亡くなった兵を悼んで、帝国と王国の境界――その真ん中に、石碑を建てよう。
そして、もう二度とあのような痛ましい事故がないように、我ら手を取り合って歩もうではないか!
そう言い出したのだ。
もちろん、一部の貴族は反発した。
名ばかりの和平になんの意味がある。形だけの石碑に魂が宿るものか。
そう思いながら、国王の決定に表立って異を唱えることのできる者はいなかった。
しかし、不満は水面下で溜まるもの。
今回はなんとか抑えたとしても、また同じようなことがあれば王座を追われることになるかもしれない。
不満というのは、遅効性の毒のようなものなのだから。
その懸念を潰すため、国王が最後のひと押しに選んだ策。
それが、政略結婚だった。
帝国から王国へ、王国から帝国へ。
有力な貴族の令嬢を嫁がせれば、和平の証明になる。
そこで選ばれたのが、ベッカー侯爵家長女――ディアナ・トラレス・ベッカー嬢。私だった。
ベッカー侯爵家は最も古い侯爵家と呼ばれており、初代国王が側近として仕えさせていたプロスペール公の分家で、現公爵家のジラルディエールの兄弟分。
その背景から察しのつく通り、貴族の中でも随一の国王派であり、他の貴族を黙らせるだけの力も持っている。
簡単な話、王国が帝国に差し出せる手札で最も優れた切り札だ。
もちろん、これ以上の適任はいないと判断された。
そんな期待と信頼を背負った中、私は――、
「あの人に、恋をした」
農家の長男だった。
庭から外を眺めている時に偶然通りかかっただけの、なんの縁も運命もない相手。
そんな彼に私は、恋をしてしまった。