5.『謎というスパイス』
「弟が、世話になったね。弟には伝えないで欲しいと言われていたんだが……君には、知って欲しかった」
「そんな……クラウスさん……う、うぅっ……」
波の音が心地よい、お洒落でカジュアルなレストラン――のはずが、とてつもなく重い空気が場を支配していた。
男性の悲痛な表情と、女性のすすり泣く声。
空気を読んで、物音ひとつ立てない周囲のお客さんたち。
事情が事情だけに仕方ないが、居心地がいいとは言い難い。
「ご病気だったんですね。あの、婚約破棄をなさった男性」
「――そうみたいですね。なぜ彼女に伝えなかったのでしょうか……」
「弱っていく姿を見せたくなかったのでしょう。男にありがちな……意地のようなものです。あ、座っても?」
「あ、どうぞ。でも……その結果、皆が悲しい思いをしちゃってるじゃないですか」
たしかに、伝えてどうにかなる問題でもなかったのだろう。
でも、そうだとしても、最愛の人にくらい伝えてあげて欲しかったと思ってしまうのは、私が女だから女性側に肩入れしてしまっているのだろうか。
「それに……彼女には、自分のことを忘れて幸せになって欲しかったのではないでしょうか。一方的な婚約破棄ならば、彼女も自分のことを忘れて新たな恋に踏み切れる……と」
「でも――結局伝えられてしまった」
「結果的にはそうですね。しかし、あの男性は立派な決断をされた。それだけは確かです。ところで、今日の髪型は実に素敵ですね。美しさが際立っておいでです」
「あ、切ったんですよ。あとそのむず痒い褒め言葉をやめてください。ちょっとどころじゃなく恥ずかしくなってしまいます」
きっとこの人は褒めてくれるのだろう。
そんなことを薄ぼんやりと考えていたことは認めるが、それにしたって恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「貴女は、どんどんお綺麗になられる。いやもちろん、最初から艶美な方だとお見受けいたしておりましたが」
「ですから、そういうのが恥ずかしいんです」
と言っても返ってくるのは優しい笑みだけで、それは私の望む返答ではない。
なんて思いながら、本当は心の奥で「褒められたい」という願望があったことくらい、自分でも理解しているというのが自己嫌悪ポイントだ。
気まずさに外した視線を戻すと、未だ優しい笑みを浮かべ続けるロルフと目が合う。
ただ視線を交わす。それすらもなんとなく小っ恥ずかしくて、結局ふたたび気まずい沈黙が流れる。
もっとも、そう感じているのは私だけだろうけど。
「あの……ひとつだけ聞いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
ついにその気まずさに耐えかねた私は、咄嗟にそう切り出した。
苦し紛れではあったが、よく考えてみればいい機会だ。
ずっと気になっていたことを、この際だから聞いてしまおう。
「なんで私がここに来た日に限って、毎回いらっしゃるんですか? まさか本当に毎日張り込んでるわけでもないでしょうし……」
「……男にも、謎というスパイスがあった方が魅力的なのです」
「はぐらかしました?」
「いえ」
ずっと真っ直ぐ私を見つめていたその瞳が、初めて横に逸れる。
これは――これ以上ないほどにわかりやすく、何かを隠している時の反応だ。まぁ、はぐらかされてるわけだし。
気まずさを切り裂くための話題で、もうひとつの気まずさを産み出してしまった。なんたる不覚。
とはいってもまぁ、気になることではあるが、詮索するほどのことでもない。
私だって毎回こうやって話し相手がいてくれるのはありがたいし、この人にも色々あるのだろう。
「――ただ、ですよ。こんな日常は長くは続かない――というのが、お約束ではありますよね」
「――え?」
「なんて、未来のことは誰にもわからないのですがね」
そう呟くロルフは、やっぱり遠くを見つめていた。