3.『キラキラしていて』
「ただいまー……」
当然ながら、私のその言葉への返事はない。
扉の閉まる乾いた音だけが、帰宅の合図なのだ。
思えば、久しぶりに他人と会話をしたような気がする。
私は独り言が多い方なので、声の出し方を忘れるようなことはなかったが、会話の仕方は忘れかけていたらしい。
全くそんなつもりはなくとも、私が彼に与えたのは、めちゃくちゃ無愛想で機嫌と性格の悪い女という印象だけだろう。
よりによって口説いたのがこの私とは、彼も運がない。
「改革ねぇ……」
思うところはある。正直、「余計なことすんな」とすら思う。
だって、私がドン底に突き落とされ、この世の不条理がまるごと恨めしくなった途端にそんな動きがあるなんて、図らずも何かの当てつけみたいじゃないか。
世界ってのは、そんなに私が憎くてたまらないのか。
いや、違う。きっと私のことなんてどうでもいいのだ。
ただの歯車でしかない私に、気を使う必要なんてまるでないということだ。
「それにしても……」
彼――ロルフは、なぜ私に声をかけたのだろうか。
あの場には、私よりもよっぽどキラキラしていて、未来に希望を抱いている女性だってたくさんいたのに。
その中で私は、きっと見るからに淀んだ瞳をしていたことだろう。
そういえば、私の瞳が気になったとか言ってたけど――、
「……寝るか」
ま、いいや。
そんなこと気にしても仕方がないし、欲望のまま惰眠を貪ることにしよう。
せめてこれくらいのちっぽけな欲望には忠実に生きることこそが、自分への最大限の慰めなのだから。
■
「――君との婚約を破棄する!」
「な、なんで――っ!?」
私のちっぽけな欲望のひとつが、このお気に入りのレストランで食事を楽しむことなのだが。
何故だかわからないが、最近は特にこんなイベントが多い。
まるで見せつけられているようだ。
私はお前とは違う、『向こう側』の人間なんだぞ――なんて、そんなふうに。
「おや、気まずい場面に遭遇してしまったようだ。ひとりじゃとても耐えられそうにないので、失礼してもいいですか?」
「……あなたも懲りませんね。暇なんですか?」
見上げれば、昨日と同じ場所に、昨日と同じ男が立っていた。
連日足を運ぶ私も私だが、まさか昨日の今日で再び会うとは、この男は一体なんなのだろうか。まさか張り込んでるのでもなければ、きっと暇なのだろう。
「気に入ってましてね。昼はここで食べることに決めているんですよ」
「そうですか。で、料理だけじゃ飽き足らず女も喰い荒らそうとしてる……と」
「違いますよ!? なんて人聞きの悪い……はは」
そう言って力なく笑うロルフ。
しまった。これは昔エルマに言われたことだが、「ディアナの冗談は切れ味が鋭すぎる」と。「気をつけないと友達減るよ?」とも忠告された覚えがある。
それから、「刺されないように夜道には気を付けろ」、「買った恨みの数だけ綺麗な花を植えなさい」――まぁ、半分は冗談だったが。
それにしたって、出会って2日目の男性に投げる言葉ではなかった。反省しなくてはならない。
そんな私の視線に気付いたのか、
「いえ、冗談だとわかっておりますよ。それにしても……そんな顔もなさるんですね。余計に貴女のことが気になってきました」
「……碌な女じゃないですよ」
なんせ、少なからず私に好意を持って話しかけてくれている人に、こんな言葉を浴びせてしまうような女だ。
口説かれて嬉しいわけではないが、別に目くじらを立てるほど迷惑ってわけでもない。
それなのにこの対応、まともな女ではないことは明白である。
「それにしても……婚約破棄とは、思い切った決断ですね」
「え?」
「先程の男性です。きっと、本気で未来のことを考えて、お互いのためを思った勇気ある決断だったのでしょう」
は、と乾いた笑みが零れる。
未来、お互いのため、勇気ある決断?
馬鹿馬鹿しい。この人は、全くわかっていない。
「あれは、女性の方が主役ですよ。男性の方は、身勝手な言い分で、好き勝手女性を傷つけて。で、最終的には女性の方が奮起して、新しい出会いを見つけて、男性を見返す。そういう筋書きになっているんです。世界が、そう決めているんです」
「本当にそうでしょうか?」
「そうに決まってますよ。だって――」
「――男性、泣いてました」
「――え。泣いて、た? 男性が? なんで……」
泣きたいのは女性の方のはずだ。
なぜ、婚約を破棄した側の男性が泣く必要があるのか。意味がわからない。
「さぁ、その理由までは私には分かりかねますが――女性に見せまいと目頭に溜め込んだ涙から察するに、何か深い考えがおありなのかと思います」
「深い、考え……」
ともかく。
『こっち側』とか『向こう側』とか、もしかしたらそんな簡単なものではないのかもしれないと、その時初めて思った。