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村娘Aが勇者を殺すまで  作者: 藤森ルウ
第1章 魔界編
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008 いざ、聖なる地へ



 それからの日々は、これまでの1ヶ月よりもずっと目まぐるしいものだった。

 厳しさを増すラズとの訓練、これまで以上に高度なコントロールを要求される異能(アビリティ)の講義。フランベルジュに慣れるため、そして彼女たちの期待と信頼に応えるため、アリソンもこれまで以上に努力を続けていた。

 

 そして、魔界にいるのも残りわずか1日となった日のこと。

 鈍い金属音が訓練所に響き渡り、アリソンは我に返った。

 少し離れたところにいるラズが目を見開き、直前まで彼女が握っていたはずの剣が宙を舞って近くの柱に突き刺さるのが見える。


「え⋯⋯」


 状況が掴めないまま、アリソン肩で息をつきながら、呆然とその様を見ていた。

 目の前の光景を、なんと言葉にすればいいのか分からない。


「ヒュウ、やるじゃねえか!」

「すっげえな、あんなひょろひょろしてたのに!」


 わらわらと集まってきた訓練所の野次馬たち、もとい警備兵たちにやいのやいのと囲まれて初めて、アリソンは何が起きたのかを察した。

 ──勝ったのだ。ラズに。


「⋯⋯おめでとう、アリソン」

「ラズさん⋯⋯」

「今のあたしと3回戦って、1回勝てるようになったならもう十分だわ。あなた、もうその辺の野盗相手ならいくらでも見下せるわね」

「あ、ありがとうございます!」


 誇らしげに笑い、握手を求めてきたラズに応えながらアリソンは礼を言う。彼女の基準は正直よく分からなかったが──野盗と一度戦ってみたら分かるのだろうか──褒められるというのは嬉しいものである。それも、相手が師匠であるならば。


「いやー本当、最初はめっちゃ腰が引けてたのにな」

「突撃してそのまますっ転んでたのに」

「わー! 恥ずかしいのでやめてください!」


 腕を組み、うんうんと頷き始めた警備兵たちに慌てて抗議するも、何やら微笑ましい顔をされてしまう。


「あら、なんの話?」

「嬢ちゃんが剣を習い始めたばっかりの頃の話だよ。ラズも覚えてるだろ?」


 柱に突き刺さった剣を引き抜き、戻ってきたラズに警備兵がニヤリと笑う。恥ずかしさで俯いたアリソンをチラリと見やった後、ラズは「さあね」と頭を振る。


「そんな昔の話、忘れちゃったわよ。それより、アリソンは午後からエリザベスの訓練もあるんだからそろそろ解放して頂戴。このままじゃ昼食を食べる時間がなくなるわ」

「おっと、すまねえな。嬢ちゃん、午後も頑張れよ!」

「ベティさんによろしくなー」

「は、はい。よろしく伝えておきますね」


 手を振る彼らに見送られながら、アリソンはラズと共に訓練所を出る。

 今日の昼食はなんだろう、とぼんやり考えていると、ふいにラズに肩を叩かれた。


「ねえ、大丈夫?」

「⋯⋯? 何がですか?」


 首を傾げたアリソンを3秒ほどじっと見つめると、「大丈夫そうね」とラズは納得したように言う。


「えっと、ありがとうございます?」

「どういたしまして」


 なんのことかよく分からなかったが、とにかく心配してくれたらしい。首を傾けたまま礼を言うと、その様が面白かったのか、ラズは小さく笑った。


「さっきは悪かったわね。彼らも多分思い出話がしたかっただけなんだと思うけど、でも嫌だったわよね、ああいうの。ちゃんとやめるように言っておくから、安心して」

「え? ああ、はい。そうですね⋯⋯」


 明日でラズとお別れだと思うと、淋しいというか、心細いような気持ちになる。

 魔界に来てから毎日顔を合わせているからだろうか。なんだかずっと前から彼女と一緒だったような気がして、離れることにひどく不安を覚える。

 思えば、村にいた頃は一人で川に洗濯しに行ったりすることはあれど、本当に一人っきりになることは殆ど無かった。けれど魔界を出たら、アリソンは一人で戦い、選択し、生きなければならないのだ。


「魔界で過ごすのも最後なんだし、何かしたい事とか、して欲しい事はないの?」

「うーん⋯⋯そう言われても、あんまり思い浮かばないです」

「無欲ねえ。なんでもいいのよ?」


 なんでも、と微笑んだラズにアリソンは、「それなら」とひとつ思い当たることを口にする。


「今日、一緒に寝てくれませんか?」

「は?」


 しまった。これだけでは伝わらない。

 アリソンは「最近うまく眠れなくて」と付け足す。


「それは知ってるけど⋯⋯なんでそうなるのよ?」

「え、知ってたんですか?」

「まあね。だってあなた、いつも夜中にコソコソ訓練所まで行くでしょ。気配丸出しだから、眠れないんだろうなとは思ってたけど⋯⋯」


 バレてたのか、とアリソンは目を丸くするが、彼女からしてみれば当然のことであるらしかった。

 そういえば以前、祭りの翌日にエリザベスに会った時「ひどい顔だ」と指摘されたこともあったし、もしかしたら自分で思っているほどには上手く隠せていなかったのかもしれない。一応、足音など気をつけてはいたつもりだったのだが。

 悩み出したアリソンの隣で、ラズもまた難解な問題を前にしたように眉間に皺を寄せている。その横顔を見て、美人はどんな顔をしても美人だなぁ、などと呑気な感想が頭の片隅に浮かぶ。


「⋯⋯本当に、あたしに一緒に寝て欲しいの?」

「はい。あの、でも駄目だったら別にいいんですけど⋯⋯」

「駄目ってわけじゃないわよ。ただよく分からないんだけど、それでよく眠れるようになるものなの?」

「えっと、はい。⋯⋯変、ですか?」


 ラズにはアリソンが突拍子もないことを言い出したように映っているらしいが、アリソンがこんなことを言い出したのにも理由がある。

 いかんせん、部屋が広すぎるのだ。

 村で寝る時は両親や弟と、ぎゅうぎゅう詰めになって眠るのが常だったアリソンにとって、家族全員が寝起きしていた寝室よりも大きい部屋の、大きいベッドで寝返りを打つのはどうしても慣れない。家族を亡くしたばかりという精神状態も相まって、アリソンにとっては「最近うまく眠れない」程度の認識だったが、実の所相当な不眠症なのであった。


「⋯⋯まあ、最後だしね。いいわよ、今夜夕食の後で、そのまま泊まっていってあげるわ」

「い、いいんですか!?」

「そんなに驚くこと? あなたが言い出したんでしょうが」


 苦笑するラズに、アリソンも苦笑いで「えへへ」と頬をかく。

 その目の下の隈をラズが見やったことには気づかないまま、アリソンは初めて、就寝時間がくるのを待ち遠しく思った。



◇◆◇



 魔界での最後の晩餐は、あの山のようなスペアリブだった。なぜと聞くと、「これを見たあなたの顔が面白かったから」とラズは悪戯に笑って言う。結局、アリソンは早々にギブアップし、大半は前回と同じようにラズがなんなくその胃に収めてしまった。


「そういえばアリソン、あなたチェスってできる?」

「ちぇす?」

「見たことない? こういう白と黒の盤面に、それぞれの駒を置いて勝敗を競うんだけど──」


 食事の後、皿を適当に横に寄せたラズは、棚から取り出したチェス盤を置いて、ひとつひとつの駒の名前と役割を説明し出す。

 一歩しか動けないキングに対して、縦にも横にも斜めにも自在に動けるクイーン。縦か横に動けるルーク、斜めに歩けるビショップ、他の駒を飛び越せるナイト。そして、初手以降は一歩前進することしかできないポーン。

 次々に説明される駒の名前と形とその役割を、一度聞いただけで覚えられるような頭脳をアリソンは持っていない。しかし、それを説明するラズはいつも通りに目を伏せたままなのに少し早口で、かつてジョアンが英雄譚や王都へ行く夢を語る時のように瞳を輝かせるものだから、アリソンは余計な口は挟まずに相槌だけを打ち、彼女の話を聞いていた。


「取られたら負けなのに、王様は一歩しか動けないんですね」

「そうね。でもまあ、そんなものじゃない?」

「うーん⋯⋯確かにそうかもしれないですね」


 自分はこの地から離れることができない、と語った魔人の長を思い出し、アリソンは頷く。


「ポーンも、他の駒に比べて動ける範囲がすごく狭いですよね。一番多いのに」

「ふふ、そう思うわよね。でも、ポーンは向こう側にたどり着いたら、キング以外の好きな駒になれるのよ」

「えっ。それって、えっと、クイーンにも?」

「ええ、そうよ。もちろん敵もそれを分かってるから、大抵は阻止されるんだけど。でも、ロマンがある話よね。前に一歩ずつしか進めなかった歩兵が、最後は何にでもなれるなんて」


 コトリ、と黒のポーンを取り上げたラズは、ポーンのいた場所に黒のクイーンを置いて微笑む。


「さて、あたしは食器を片付けてくるわ。その後、寝巻きに着替えて帰ってくるから、それまでこれで遊んでていいわよ」

「わ、私も片付けますよ! いつもやってもらってて申し訳ないし⋯⋯」

「いいのよ。あたしの方が慣れてるし、気にしないで待ってて頂戴」


 食い下がるも、ラズはひらひらと手を振るとアリソンをその場に押し留めてしまう。

 仕方なく着席したアリソンは、言われた通り、駒を手持ち無沙汰に持ち上げてみる。


「⋯⋯ラズさんはクイーンなのかなぁ」


 だとしたら、イグニスが一歩しか動けないキングということになるのだろうか、なんて。自分よりずっと背丈の高い彼が一歩ずつしか動けないところを想像すると、なんだかおかしくて、アリソンはふっと息を吐く。

 

 そんな風にぼんやりしているうちに、就寝時間を告げる鐘の音が響き渡った。

 慌てて寝巻き用として借りている服に着替えたアリソンは、控えめなノックの音に扉を開ける。ラズが戻ってきたのだ。

 首周りに大きなフリルのあしらわれた黒いネグリジュを着たラズは、いつも二つ結びにしている髪を下ろしている。耳元で揺れる髪が今は肩に触れるか触れないかのところにあって、なんだか新鮮だったが、それ以上に、全身に黒をまとった彼女は、そのまま夜に溶けてしまいそうに見えた。


 なんとなくお互い無言でベッドの右端と左端にそれぞれ背中合わせに座り、もたもたと意味もなく時間をかけて寝台に登る。


「⋯⋯おやすみなさい」

「ラ、ラズさんも。おやすみなさい」


 ごろりと寝返りを打つと、ラズの小さな背中が見える。ベッドが大きいせいで、こうして並んで横になっていても、二人の間にはひと一人分はかろうじて入れるようなスペースが空いていた。

 そのことを少し、淋しく思わないでもなかったが、そこまで求めるのは酷だとアリソンにも分かっている。だって、ラズは。


「あの、」

「⋯⋯なに?」

「えっと、ありがとうございます、お願いを聞いてくれて。⋯⋯本当はラズさん、私と逆で、人がいると眠れないんですよね?」

「っ!」


 背中を向けたままの彼女から驚いたような気配が伝わってくる。一緒に寝てほしい、と頼んだ時の困惑した顔を思い出して、アリソンは「やっぱり」と小さく呟く。


「あの、私が寝ちゃったら、後は好きにしてて大丈夫ですから。どうしても眠れなかったら、部屋に帰ってもいいです。だから、眠るまでは傍にいてくれませんか?」

「⋯⋯別に、人がいるからって全く眠れないってわけじゃないわ。だから、変な心配はしないで」


 ぶっきらぼうな口調ではあったが、その声色には温かみが込められていた。

 ありがとうございます、と小さく返事をして、あくびを飲み込む。もう少し彼女と話していたくて、アリソンは「あの」と囁く。


「そういえば、ラズさんはどうして訓練の時に異能(アビリティ)を使ってこないんですか?」

「あなただって使ってきたことないでしょ」

「それは⋯⋯だって、ラズさんが使ってこないから。あ、実戦ではちゃんと使います! 相手が使ってこなくても」

「それが聞けて安心したわ」

「⋯⋯あの、それで、なんでですか?」


 食い下がって問うと、「誤魔化されてくれないのね」とラズが苦笑いする気配がする。相変わらず背中を向けたままの彼女の表情は分からない。


「あたしの異能(アビリティ)は戦闘向きじゃないの」

「え? どういうことですか?」

「確かに魔人の多くは自然を⋯⋯炎や水、風なんかを操る力を異能(アビリティ)として持ってるわ。でも全ての異能(アビリティ)がそういうものじゃないの。色々な種類の魔術があるように、異能(アビリティ)にも色々な分野があるのよ」

「じゃあ、ラズさんの力はどんなものなんですか?」


 アリソンとしては自然な流れでの問いだったが、ラズにとってはそうではなかったらしい。一瞬、言葉に詰まったように息の止まる音がした後、ため息と共に彼女が答える。


「⋯⋯残留思念よ」

「ざんりゅう⋯⋯?」

「死んだ人の思いを受け取るというか、読み取る力、かしらね」

「へえー⋯⋯そんな力もあるんですね」


 感心して頷くアリソンに、ラズがふっと張り詰めていた気を解いて微笑む。


「まあ、戦闘じゃまず役には立たないんだけど。どちらかといえば、開拓とか探検向きなのかもしれないわね」

「え? どうしてですか?」

「例えば、未開の地を探検する時はどうしても危険がつきものでしょ。例えばそこで、別働隊の死体なんかが転がってても、一見したぐらいじゃ死因はわからない。でもあたしがそこにいれば、その死体の残留思念を読み取って、どんな原因で死んだのか分かるってわけ。死体ありきの能力よ」

「な、なるほど⋯⋯なんだかすごいですね」


 ということは、もしもラズがあの場にいたなら、両親やルノーが最後に何を思っていたのかを知ることができたのだろうか。悲鳴をあげる暇もなく切り殺された弟の最期が脳裏をよぎり、アリソンは歯を噛み締める。

 彼らは最期に何を思ったのだろう。恐怖か、悲嘆か、それともアリソンへの怨嗟だろうか。

 勇者レインナートを殺し、彼らを甦らしてもらったら、真っ先に聞かなければ。そのどれだったとしても、アリソンには受け止める義務がある。


「⋯⋯ほら、話はこのぐらいにしてさっさと寝ましょ。明日も早いわよ」

「あ、そうですよね、ごめんなさい。えっと、おやすみなさい、ラズさん」

「おやすみ。⋯⋯ってこれ言うの2回目じゃない?」

「ふふっ、そうですね」

「⋯⋯いい夢みなさいね」

「はい、ラズさんも」


 目を閉じて、ラズの呼吸と気配に耳を傾ける。

 自分以外の誰かの体温と気配を感じているだけで、意識があっという間に微睡んでいく。これならもう夜中に抜け出さなくても良さそうだ、と安堵してアリソンは意識をさらう波に身を任せる。


「──、──」


 睡魔に手を引かれ向こう岸へと渡る刹那、ラズが何かを囁いた気がしたが、それを拾うことはできなかった。


 

 そして微睡の中。気がつけばアリソンはすっかり見慣れてしまった黒い街でも館でもなく、暖かな日差しの差し込む窓辺に立っていた。


『あ、いま動いたよ! ほら、あんたも触ってごらんよ』

『む⋯⋯じっとしているようだが』

『そうかい? おかしいねえ、あんたが触る前までは元気よく蹴ってきてたのに⋯⋯』


 本来の視線より三分の一程低い目線で、アリソンはぐるりと辺りを見渡す。古びたテーブルに、藁の匂いが詰まったベッド。窓辺の椅子に腰掛けた母が、大きなお腹を愛おしげに見つめ、大きな背を丸く屈めた父がその腹をさすっている。

 いつかどこかで見た、穏やかな情景。今となっては望んでやまない全てが、そこに広がっていた。


『アリソン、お前もこっちにおいで。この中にお前の弟か妹がいるんだ』

『⋯⋯どちらがいい?』

『なんだい、聞いたってどっちになるかは決められないんだよ。それに、どっちでもいいじゃないか。元気に育ってくれたら、それで充分さ』

『⋯⋯む』


 叱られた子供みたいな顔をした父の後ろから、アリソンはおずおずと母の腹に手を伸ばした。とくん、とくんと、胎動を感じる。


『お前は、もうすぐお姉ちゃんになるんだよ。アリソン』


 暖かいひだまりの中、母と父が幸せに微笑んでいる。

 つられてアリソンも笑おうとした時、遠くの方で鐘の音が鳴った。教会の、いや、違う。もっと重々しく、身体中に響き渡るようなこの鐘の音は、



「──リソン、アリソン。起床時間だけど、起きれそう?」


 目を開くと、目の前には蒼が広がっていた。

 心配そうにこちらを覗き込みながら、遠慮がちに肩に手をかけている少女。その姿に、徐々に思考が状況に追いつく。

 そうだ、弟はもう生まれてから何年か経っていて、そしてここはドルフ村ではなく魔界で、自分は。両親は。


「⋯⋯ラズさん?」

「そうよ、ラズよ。悪いわね、起こすか迷ったんだけど⋯⋯」


 バツが悪そうに視線を逸らしたラズは、そのままくるりと背を向けると、地面に足を置く。が、すぐには立ち上がろうとせず、しばらく待ってからゆっくり立ち上がる。

 その動作は、同じ体勢でいすぎて、足が痺れた時のルノーと少し似ていた。


「⋯⋯ずいぶん長いこと、悩んでくれたんですね」

「? 何か言った?」

「いえ、いいんです。起こしてくれてありがとうございます。それと、あの、一緒に寝てくれたことも。おかげでいい夢が見れました」


 ベッドに座ったまま、ぺこりと頭を下げる。

 ややあってから、「お礼を言われるようなことは何もしてないわ」とラズはやや複雑そうな声で返事をした。



◇◆◇



「荷物は全部持ったわね? 忘れ物はない?」

「それを聞くの、何回目ですの? やりすぎると子離れできない親みたいになりましてよ?」

「誰が親よ! っていうか、さっき同じこと言ってたアンタに言われたくないわよ!」

「あ、あはは⋯⋯ラズさんもベティさんも、心配してくれてありがとうございます」


 石造りの門の前で、アリソンは睨み合う二人を苦笑いで見守る。

 荷物といっても、ここにくる道中、顔見知りの警備兵たちにもらった干し芋だとか干し肉を除けば、身につけた革鎧とブローチ、そして腰から下げた剣ぐらいなものだ。

 人間界へ続く門まで見送りに来てくれた二人に、感謝をこめてアリソンは頭を下げる。


「本当に、お世話になりました。私、きっと勇者たちを殺して、その心臓を持ち帰りますから⋯⋯!」

「フフッ。ええ、楽しみにしていますわ」

「アンタも言うようになったわね。それじゃ、行きましょ」

「はい。⋯⋯はい?」


 当たり前のように連れ立って門に手をかけたラズに、アリソンは首を傾げる。


「あの、見送りに来てくれたんじゃ⋯⋯?」

「は? 何言ってんのよ、あたしも行くわよ。言っておくけど、仇をとりたいのは自分だけだと思ってんじゃないでしょうね」

「そ、そういうわけじゃ」

「あの男を殺す愉しみを独り占めしようったって、そうはさせないわよ?」


 ゾッとするぐらい、綺麗に微笑んでラズはそんなことを言う。

 彼女はいつも親切で、ぶっきらぼうな言い方をしながらも優しくて。だからつい、忘れてしまいそうになる。彼女もまた、アリソンと同じように大切な人を勇者に奪われたのだということを。


「でも、勇者の剣は魔人の再生能力を無効化して、灰にしてしまうんですよね? 防ぐ手立てもないのに、大丈夫なんですか⋯⋯?」


 おずおずと聞いたアリソンに、ラズとエリザベスは何故か顔を見合わせる。それからエリザベスは「ああ」と合点が言ったように呟くと、にっこり微笑む。


「ラズは人間ですわよ」

「え? で、でも、ラズさんは異能(アビリティ)を持っているんでしょう?」

「⋯⋯ちょっと。エリザベス?」

「あら、わたくしばかり責められても困りますわね。貴女がしっかりコミュニケーションを取っていれば、今更説明するような事態にはならなくってよ?」


 ジト目でエリザベスを睨みつけるラズと、そんな彼女に対してやれやれとでも言うように肩を竦めてそっぽを見やるエリザベス。

 心なしか剣呑な雰囲気が漂い始め、アリソンがますます困惑していると、大きくため息を吐いたラズが「つまりね」と切り出す。


「確かに、異能(アビリティ)は魔人なら誰もが持っているものだけれど、人間でも異能(アビリティ)を持って生まれてくる人間もいるのよ。例えば勇者が勇者なのも、元はと言えば異能(アビリティ)のせいと言えるわ」

「えっ、どういうことですか?」

「アリソン、あなたは勇者はどうして勇者なんだと思う?」

「ええと⋯⋯勇者にしか扱えない聖剣フォルティスを扱えるから、でしたっけ?」


 在りし日に、ジョアンが瞳を輝かせて話してくれた勇者の伝説を思い出しながら、アリソンは答える。


「そうよ。人間には異能(アビリティ)という概念がないから、みんなは『奇跡』とか『選ばれた者』、あるいは『才能』なんて言葉を使うけれど、本当はそれらも全て異能(アビリティ)によるものなのよ。簡単に言えば、勇者が勇者なのは、『聖剣を扱える』効果を持つなんらかの異能(アビリティ)を持っているからだし、例えば常人にはない優れた才能を持つ者は、それに関する異能(アビリティ)を所有している可能性が高いわ」

「そ、そうだったんですね⋯⋯」

「だから、あたしも異能(アビリティ)所持者ではあるけれど、魔人ではないってわけ」


 なんだか複雑だが、今のところは、「人間でも異能(アビリティ)を持つ者もいる」と覚えておけば良いだろう。ラズの説明にコクコクと頷いていると、エリザベスが「話は済みましたわね」と割り込む。


「でしたら、わたくしからもいくつか餞別をお渡ししたいと思いますわ。まずはこちら、銀貨20枚を用意いたしましたわ。旅の費用としては心許ないかもしれませんけれど、どうぞ自由にお使いくださいませ」

「ぎ、銀貨!? 20枚!?」


 手渡されたずしりと重い皮袋をそっと覗き込むと、銀に輝くコインがジャラジャラと音を立てている。銀貨なんて数えるぐらいしか見たことのないアリソンは、興奮と動揺で、自分は倒れてしまうのではないかと思った。


「それから、こちらを」

「⋯⋯何これ。水? いえ、ポーション?」


 未だ銀貨の衝撃から立ち直っていないアリソンの代わりに、次の餞別を受け取ったラズは、怪しげな青い水の揺れる容器を胡乱げに見つめる。

 扇でさっと口元を隠したエリザベスは、「似たようなものですわね」と言う。


「それはわたくしの一部とでもいうべき、特別な水ですわ」

「アンタの一部?」

「ええ。貴女方には、行く先々の水辺──井戸でも池でもなんでも構いませんけれど、そこにこれを一滴落として欲しいんですの」

「⋯⋯何のために?」


 警戒を帯びた目でじっとエリザベスを見つめるラズに、エリザベスはグラスの奥の目を細め、愉しげな微笑を浮かべる。


「それは、後々のための布石といいますか。ほら、わたくし、行ったことのないところには水を通して移動できませんもの。ですから──」

「だから、アンタの一部である水を落とすことで、異能(アビリティ)の条件を満たすってことね」

「そうですわ。ご不満でも?」

「⋯⋯いいえ。人間がどうなろうが、アンタが人間界で何をしようが、あたしには関係ないもの。良いわよ、このぐらいならやってあげる。アリソンも、それでいいわよね?」

「あ、はい。どうぞどうぞ」


 我に返り、アリソンは皮袋の紐を慌てて結び直す。

 ⋯⋯でもその前に、最後にもう一回だけ中身を覗こう。キラキラと光を放つ銀貨は、何度見ても夢幻のように思えてしまう。昔、祖母が聞かせてくれた昔話のように、魔界を出た瞬間に銀貨が木の葉に変わってしまったりしないだろうか。


「⋯⋯アンタ、大丈夫?」

「だ、大丈夫です。すみません、その、銀貨なんてあんまり見たことなかったのでつい⋯⋯」

「わたくしからは以上ですわ。それでは、忘れ物もないようですし、今度こそ貴女たちを送り出させていただきましょう。アリソン、門に手をかざし、行き先を強く念じて見てくださいませ」

「は、はいっ。ベティさん、あの、色々とありがとうございました!」

「世話になったわね、エリザベス」


 ペコリとエリザベスに頭を下げてから門に手を添える。ゴツゴツとした岩のように見えるのに、予想に反して手触りは滑らかだ。多大な労力を払って綺麗に削らなければこうはならないだろう。


「あたしも手伝うわ。聖都になら行ったことがあるから、イメージを送る手助けぐらいならできるはずだし」

「あ、ありがとうございます」


 アリソンの手に、ラズの細い手が添えられる。黒いアームガードのせいか、彼女の肌の白さがより際立つ。

 目を閉じ、集中に身を委ねると、門が開いていく音が聞こえる。目を開けて確認してみようと思った瞬間、目の前が眩い光に包まれ、身体がどこかへと強く引き摺り出されていく。反射的に身をよじろうとしたアリソンに、「抵抗しないで。身を委ねるのよ」とラズの鋭い声が飛ぶ。

 言われるまま身を任せると、強烈な浮遊感が体を襲う。踏ん張ることもできず、されるがままに吹っ飛び、そして、アリソンとラズの姿は魔界から完全に消え去っていた。


「フフッ、冒険の始まり始まり──というわけですわね」


 残されたエリザベスは、ひとり楽しげに無人の門を見やる。

 頭上から魔界を明るく照らす満月だけが、彼女の笑みを見ていた。



◇◆◇

 


 眩しい光の中、感じたのは柔らかな芝生の感触と、久しく聞こえることのなかった小鳥のさえずりだった。

 吹き飛ばされた余韻とあまりに眩しい光に、アリソンは目を開くことも、指一本動かすこともできず、ただその場に立ち尽くす。それでも、ここはもう魔界ではないんだ、とはっきり確信することができた。

 小鳥のさえずり、風に揺れる木々の音。ひだまりの匂い。サンダルの中の素足をつつく、草の感触。隣に立つラズのひんやりとした体温。

 膨大な情報量を整理する脳が、悲鳴をあげている。


「⋯⋯無事に繋がったみたいね」

「そう、ですね」


 ラズの声はカラカラに枯れているが、それに返事を返す自分の声も相当なものだ。それに、門を通ったせいなのか、全力で走り抜いた後のように身体が疲弊していた。

 恐る恐る目を開けてみると、予想に違わぬ眩しさが目の前に広がっている。眩しい日差しに、新緑の木の葉が広がった空。その下には、遥か彼方まで続くレンガで塗装された街道がある。


「どうやら、聖都に向かう街道に繋がったみたいね。前に来たときはまだ施工中だったけど、ずいぶん大きな道を切り開いたものだわ」

「本当だ、道がすごく大きいですね。馬車が通るからでしょうか?」

「多分ね。それにしたって少し広すぎる気はするけど」


 塗装された道の両脇には、林が残されている。伐採こそされていないものの、均一に生えた草の高さから、人の手で整備されているものだと見て間違いはないだろう。


「さて、問題はここからね」

「え?」

「ああ、そういえばあなた村から出たことがないんだったわね。聖都や王都のような都市部に入るには、大抵の場合、通行証が必要になるの。元から持ってない場合は申請して通るのを待ってもいいけど、そうしたら最低1ヶ月は野宿生活になるのよね」

「ええっ。そ、そんなに時間が掛かるものなんですか?」

「そうらしいわね」


 どこか他人事のような反応に、あれ、とアリソンは首を傾げる。


「らしい、って⋯⋯ラズさん聖都に来たことあるんですよね? その時はどうやって入ったんですか?」

「巡礼者のフリしたのよ」

「巡礼者?」

「聖都マンディスは教団の総本山だって話はしたでしょ? だから、信心深い人は聖都を目指して遥々巡礼の旅をするのよ。そして巡礼者であれば、聖都は無条件で街に入ることを許すの。ただし、滞在日数に制限はあるけどね」

「へえー⋯⋯そういうものなんですね」

「ええ、だから今回も巡礼者のフリを、⋯⋯ッあぅ!」

「ら、ラズさん!? どうし⋯⋯っ!?」


 突然、言葉を切ってしゃがみ込んだラズにどうしたのかと声をかけようとして、アリソンは思わず言葉を飲み込む。どこからか漂ってきて、黒い霧のような影が、ラズにまとわりついていたのだ。

 まさかこれが、ジョアンの言っていた「魔物」なのだろうか。

 人の形をしているように見えなくもない影に慄きつつ、アリソンは腰にかけたフランベルジュに手を伸ばす。


「ッ、待っ、て! こいつは、切れないわ⋯⋯!」

「ラズさん!? ど、どういうことですか?」

「こいつ、は⋯⋯っざんりゅ、う、思念⋯⋯! ち、かくで⋯⋯い、行き倒れた⋯⋯みたい、よ」

「残留思念⋯⋯この影が?」


 それにしたって、ラズの苦しみようは尋常ではない。屈み込んだアリソンの腕にしがみついたラズの呼吸はひどく荒れ、額には汗が滲んでいる。固く閉じられた目の睫毛までもが小刻みに震えていた。

 どうすればいいのか分からず、とりあえず弟が発作を起こした時のように、アリソンはそっと彼女の背中に手をやり、さすってやる。まとわりつく影は触れることもできず、アリソンの手をすり抜けて蠢く。


 ぽんぽんと背中を叩いていると、影はうっすらとしはじめ、数分もしないうちに霧散する。

 それと同時に、ラズも呼吸が整いはじめ、しばらくするとしがみついていた手を離して立ち上がれるようになった。


「はあ⋯⋯悪かったわね、無様なところを見せて」

「い、いえ⋯⋯あの、大丈夫ですか? すごく辛そうですけど⋯⋯」

「平気よ、慣れてるから。それより、残留思念の主は⋯⋯ああ、いたわね。あそこよ」


 ラズの指差した先を見ると、確かに林の中で行き倒れている二人組がいた。明らかに生気のない顔は、死人だと一目で分かった。


「どうやら彼らは巡礼者だったみたいね。もうすぐ聖都が見えるというところで、今までの無理が祟って行き倒れてしまったみたい」

「それは⋯⋯悲しいですね」

「そうね。でもまあ、ちょうど良かったわ」


 そう言うと、ラズは彼らの側にしゃがみ、手を組んで祈りを捧げたかと思うと、彼らが揃って身につけているマントを剥ぎ取り出した。


「え、な、何してるんですか!?」

「借りるのよ。このマントは巡礼者の証だもの」


 ギョッとしたアリソンの問いに、ラズは淡々と答える。

 あとは分かるわね、とでも言うように、二人組のうち一人のマントを差し出してくるラズに、アリソンは「で、でも」とたじろぐ。


「だ、だからって、死んだ人の物を勝手に取るなんて⋯⋯」

「向こうだって死ぬ直前までの記憶と感情をあたしに追体験させたんだから、これでおあいこよ。おあいこ」

「う⋯⋯ら、ラズさんはそうかもしれないですけど、私は何もされてませんし⋯⋯」

「まあ一人も二人も変わらないでしょ。何も金目のものを盗もうってんじゃないのよ。ちょっと拝借するだけじゃない」

「うう⋯⋯」

 

 アリソンはしばし逡巡した後、すみません、と巡礼者に頭を下げマントを羽織った。


「あの、ラズさん。せめてこの人たちをどこかに埋めることってできませんか? このまま野ざらしになるのは可哀想だと思うんです」

「⋯⋯そんなに気になるなら、街に入った後、適当な神父かシスターに行き倒れた巡礼者がいたって報告しておきましょ。共同墓地あたりにきちんと埋葬してもらえると思うわ」

「は、はい」


 行きましょう、とラズが背を向けて街道を歩き出す。

 目指していた地がもうすぐだったというのに、力尽きてしまうなんて、どんなにか悔しかっただろう。何度か振り返りつつ、アリソンはラズの後を小走りで追う。


「あの、巡礼者のフリって、他にはどうしたらいいんですか?」

「特にないけど⋯⋯そうね、軽く質問されるかもしれないから、聖書の内容ぐらいは思い出しておいた方がいいかもしれないわね」

「聖書⋯⋯ですか」

「ええ、そうだけど⋯⋯どうしたの?」


 言葉を濁したアリソンを、ラズは気遣わしげに覗き込んでくる。

 どうしよう、でも、言わないと。

 意を決しても気まずさは拭えず、アリソンはラズから目を逸らして「その」と切り出す。


「私、聖書を読んだことが⋯⋯と言うか、えっと、文字が読めなくて⋯⋯」

「え。⋯⋯ああ、そうなのね」

「ご、ごめんなさい」


 冷静を装ってはいるが、一瞬、目を大きく見開いたラズの様子を見るに、相当驚いたはずだ。

 しかし、少し考える素振りをしたラズは「大丈夫よ」と言う。


「むしろ、文字が読めないのに巡礼の旅に出るような、とてつもない信仰心の持ち主だと思ってもらえるんじゃないかしら。あたしもフォローするし、なんとかなるわよ」

「そ、そうですか?」

「ええ、だから安心して。それと、嘘をつく時はあんまりに事実と違いすぎることは言わない方がいいわ。真実にほんの少しの嘘を混ぜる、ぐらいが一番良いの。あとは嘘じゃないけど本当でもないことを言う、とか」

「嘘じゃないけど、本当でもない?」

「そうね。例えば⋯⋯どこから来たんですか、って言われたら、地図にないような遠いところから来ました、って言うとかね。これなら嘘をついたことにはならないでしょ」

「な、なるほど⋯⋯」


 確かに、ドルフ村は地図にない上に遠い村だし、なんなら魔界も地図になくて遠い場所だ。何一つ嘘はついていない。

 聖都の方角からやって来た馬車を避けるため、ラズと道の脇に寄りながらアリソンは彼女の言葉に感心する。

 チラリと馬車の方を見ると、それはよく見かける木製のものではなく、豪華な装飾が施された馬車だった。もしかしたら貴族や高い地位を持つ聖職者なんかが乗っているのかもしれない、と想像を張り巡らしていると、ラズに肩を叩かれる。


「さ、そろそろ門が見えてきたわよ。落ち着いて話せば大丈夫だから、堂々としてなさい」

「は、はい!」


 ラズの言う通り、街道の前方には巨大な門が見える。それと、その前に並ぶ行列も。行列にはマントを羽織った巡礼者たちや、馬車を連れた商人らしき人々が並んでいる。

 ごくりと唾を飲み、アリソンは背筋を伸ばした。



◇◆◇



「ほ、本当にすんなり入れましたね⋯⋯」

「だから言ったでしょ? あんな大仰な門だの警備だのを置いてる割に、管理はザルなのよね」


 人で賑わう聖都の中、マントのフードを下ろした二人は連れ立って表通りを歩いていた。ようやく緊張が解けて、ほっと息を吐くアリソンに対して、ラズはいつもとあまり変わらない。彼女にとって、嘘をつくのはさして問題になる行為ではないらしかった。


「それにしても、すごい眺めよね、ここ」


 ラズの言葉に、アリソンは力強く頷く。


 聖都マンディスは、崖を切り拓いて作られた街だったという。崖を掘り進めたところに民家を建て、それがやがて壁そのものと生きる巨大都市へと成長した。上層には街のシンボルたる大聖堂が、その下に聖職者たちの暮らす館や貴族の別荘が立ち並び、そのさらに下の中間層には商店や宿屋と民家が立ち並ぶ。

 アリソンたちが歩いているのも、まさにその中間層であり、左手からは海を見下ろすことができた。

 初めて見る海に、アリソンは目を細める。


「ここから飛び降りたら、気持ちよさそうですね」

「⋯⋯やめときなさい。死ぬから」


 そんなやり取りをしていると、ふいに高らかな鐘の音が響き渡った。──教会の鐘だ。

 アリソンたちにとっては久方ぶりのものでも、この街で暮らす人々にとってはなんてことない日常の音。そのはずなのに、何故か通りを歩く人々はどよめき、誰もがソワソワと忙しなく大聖堂を見上げていた。

 その様子を不思議に思っていると、近くの商店から出てきた店の主人らしき音が、「アンタたち運がいいぜ」と声をかけてくる。


「なんたって、今日は聖女様がバルコニーに出る日なんだ!」

「聖女が⋯⋯?」

「そうそう! 巡礼者なら知ってるよな、異世界から舞い降りたっていう女神に選ばれた聖女、ニーナ様! そのお力もさることながら、容姿も可憐でファンが多いんだよ」

「あら、もしかしてそう言うあなたも?」

「あははっ。いやぁ、お恥ずかしい。うちの嫁には内緒にしてくださいよ」


 恥ずかしそうに頬をかく男性に頷いて見せた後、ラズがそっと肩を寄せてきた。


「先に宿を取るつもりだったけど、ここで移動したら怪しまれるわね。せっかくだし、聖女とやらの姿を見ておきましょう」

「わっ。そ、そうですね」


 急に耳元で囁かれ、思わずビクッと肩を竦ませつつ、アリソンは頷く。

 やがて崖のはるか上層の純白の大聖堂、そのバルコニーに一人の少女の姿が現れる。背後に聖職者を従えた少女は、桃色の長髪を揺らしながら手を振り──


 ⋯⋯()()()()()


「へえ、あれが聖女ってわけ? 確かに人形みたいによくできた顔だけど⋯⋯って、アリソン? どうかしたの?」

「あ、い、いえ⋯⋯ただ、聖女ってあんな姿だったかな、って⋯⋯」


 アリソンが聖女の姿を見たのは1度だけ。それもエリザベスがコップの中に映し出してくれた、小さな姿だけだ。

 だが、あの時の勇者一行に、果たしてあのような髪色の人間がいただろうか。確か一行の中の女性は、赤い巻毛の女性と、短髪の──いや、本当にそうだったのか? 

 疑えば疑うほど、記憶が混濁していくような気がする。胸まで這い上る何かが邪魔をして、気持ちが悪い。目の前の世界がぐにゃりと歪む。目眩だ、と気づいた時にはアリソンは崩れ落ちるようにしてラズの腕を掴んでいた。


「ちょっと、アリソン? 大丈夫!?」

「ご、ごめんなさい⋯⋯私、なんだか具合が悪いみたいで、」

「それは見れば分かるわよ! ねえ、そこのあなた、この辺りに宿屋はない? 連れの具合が悪いみたいだから休ませてあげたいの」

「あ、宿屋かい? ええと、それならそこの路地の突き当たりに行くといいよ。こじんまりとしていて、あまり大きい宿ではないけど、静かなところだからゆっくり休めると思うよ」

「ありがとう。行きましょう、アリソン。歩ける? ほら、あたしに掴まって」


 ぐるぐると回る視界の中、差し出されたラズの手をかろうじて掴む。ラズに肩を貸され、アリソンはよろめきながら彼女についていく。


「もうすぐ着くわ、大丈夫? 自分の名前は言える?」

「アリソンです⋯⋯ドルフ村の⋯⋯」


 吐き気を堪えながら何とか答えている間に、少しずつ目眩が収まり始めてくる。どうやら宿屋もあと少しのところにあるようだし、休めばきっと治るだろう。ラズに寄りかかっていない方の手で口元を押さえながら、アリソンはそう思う。

 入った路地は、地元民向けなのか、小さな露天商たちが食べ物や雑貨を売っている通りだった。魔界でのお祭りを思い出すが、あれとは似ても似つかないほど小規模だ。

 と、ふいにようやく正常に戻った視界の中で、何かがアリソンの目を引いた。一眼見た時は何か分からなかったが、もう一度それに焦点を当てた時、アリソンはようやく、それが何なのかを理解した。


 ぽつぽつと立ち並んだ露天商の中でも、いっとうみすぼらしい小さな露天商の、主人と思しき老婆が商品として並べていたであろう物たちを、何故か片っ端から下水道に放り込んでいた。見間違いでなければ、その商品たちはどれもがドルフ村でアリソンが織っていたものたちで、どこにも問題があるようには見えない新品だ。


「⋯⋯あの、それ、どうして捨ててるんですか?」


 思わず声をかけたアリソンに、ラズも足を止める。どうやら彼女は、この露天商の奇妙な挙動に気づいていなかったらしい。露天商の捨てているものの正体に気づいたのか、息を呑む音がした。

 振り返った露天商の主人──老婆は、二人を上から下までジロジロと一瞥すると、ふいと視線を逸らして答える。


「お前さん、知らないのかい? これはドルフとかいう村で作られたものなんだよ」

「⋯⋯それが、どうかしたんですか?」

「それがどうかしたか、だって? お前さん、世間知らずにも程があるんじゃないのかい。全く、これだから最近の若いもんは⋯⋯」


 胸がざわつく。正体不明の気持ち悪さは徐々に抜けていっているはずなのに、心臓が大きく脈打つ。

 老婆は胡乱な目つきでアリソンを見やり、また新たに一つ、下水道に投げ込む。弟のルノーをイメージした子供と村の自然をモチーフに織ったものが、べちゃりと汚水に沈んでいく。


「どうしても何も、魔人を崇拝して、匿うような罰当たりな村のものなんか、店に置いておけるはずないじゃないか。まあ、でも──」


 言葉を切った老婆は、ニヤリと口を開けて笑う。ボロボロの黄ばんだ歯が、やけに大きく見える。


「そんな邪教徒の村は、匿われてた魔人ともども、勇者様が丸ごと焼き払ってくれたからね。安心しな、世間知らずなお嬢ちゃん方」



最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

今回で魔界編も一段落したので、次回からは聖都編となります。良かったら引き続きお付き合い頂けると嬉しいです。


次回更新日:12/20予定

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