061 旅の終わり
「ラファエラ? ⋯⋯そう、彼女が」
そう静かに呟いたラズの感慨は、如何ほどだろうか。
レインナートの亡き恋人、ラファエラ。それはかつてラズがレインナートに利用されていた頃、彼に望まれていた姿だ。
ラズをちらりと見やったアリソンは、何か言葉をかけようとして、ふと視界の端に映り込んだラファエラに目を奪われる。そして目を見開くと、言った。
「⋯⋯いいえ、違います。彼女はラファエラじゃない」
それは、エリザベスの記憶の中で本当のラファエラを見たことがあるアリソンだからこそ、気が付くことのできた違和感だった。
確かに、姿形はそっくりだった。高い位置で一つに結ばれた青い髪。動きやすい軽装、ショートパンツから伸びたシカのようなすらりとした足、大きなつぶらな瞳。けれど、その表情の作り方や動作に、僅かな違和感がある。まるでよく似た人形が動いているのを見ているような。
そしてその疑念は、彼女がこちらに気づいてにこやかに微笑んだ瞬間に、ぞわりとした寒気と共に確信に変わる。
『あれっ、誰かな? こんにちはー!』
記憶の中で聴いた彼女の声とは似ても似つかない、甲高い声。それだけではなく、声は何重にも響いており、まるで多くの少女たちの声をつぎはぎしたような歪さに満ちていた。
「⋯⋯なるほど。レインナートの中のラファエラ像が実在を伴ったモノ、ということかしら」
「多分、そうだと思います。声がおかしいのは⋯⋯」
「彼がもう、彼女の声を思い出せないからね」
「⋯⋯はい」
人が最初に忘れるのは声だという。アリソンも例外ではなく、両親や弟の声も最早思い出せない。聴いたらすぐに分かるのに。でも、もう二度と聞くことはできない。
それと同じことが、目の前のラファエラには起きている。レインナートの記憶や認識を元にして作られたのだろう彼女は、結局どこまでいってもレインナートの知る、あるいは思う彼女の姿でしかないし、彼が思い出せないものまでは再現できない。
『ねえっ、この花畑、すっごく綺麗だと思わない? レイがわたしのために作ってくれたんだ〜!』
明るく天真爛漫に微笑む彼女は、可憐だった。悩み一つなさそうな、無垢な少女。
だが、エリザベスの記憶を見たアリソンは知っている。ラファエラが何に苦悩し、悩み、あのような結末を望んだのかを。レインナートはきっと本当にラファエラのことが好きだったのだろうし、ラファエラもレインナートのことを好きだった。それなのに僅かなすれ違いで、積み重なった激情で、ラファエラは彼の永遠となることを望み、エリザベスはそれを叶えるために彼女を殺した。
レインナートは今でも、ラファエラが最期に微笑んだ理由や彼女が望んだものを知らないのだろう。そうでなければ、虚像のラファエラがこんなにも能天気に笑っているはずがない。
「⋯⋯ラファエラさん。私たち、レインナートを探しに来たんです。どこにいるのか知りませんか?」
「わざわざ聞かなくても構わない。俺自ら出向いてあげたからね」
ラファエラからは、外敵への警戒心や敵意というものが全く感じられない。最初から欠如しているように設計されているのだろう。ならば話は通じるはず、と話しかけたアリソンに、背後から声が届く。振り向けば、遠くの方から近づいてくる人影。
オレンジ色の髪に緑の瞳。どこからどう見ても、それは勇者として称賛を浴びていた頃のレインナート・ローウェンその人だった。それを視認した瞬間、アリソンの隣から音もなくラズの姿が消え、同時にレインナートの心臓にラズの刃が深々と突き刺さっていた。
躊躇なきラズの一撃。しかし、「無駄だよ」と声が聞こえたと同時に、レインナートは再び目の前に現れる。
それを見て、ラズは落胆も驚きもせず、ただ淡々と「なるほどね」と呟いた。
「つまり、本体じゃないってことね」
「本体はこれから『羽化』を迎えるんだ。君たち如きに関わっている暇はないのさ」
『あっ、レイ! えへへっ、会えてうれしいよっ』
ぴょんっ、と飛び跳ねたラファエラがレインナートに抱きつく。彼女を受け止めたレインナートもまた、甘やかに微笑んだ──次の瞬間、レインナートの首が地面に落ちた。
ラファエラはそれに何かを思う様子もなく、しばらく佇んだ後、トテトテと元いた位置に戻り、再び花を愛で始めた。
それを見て、ラズは「ふうん」と呟く。
「王都のワイバーンと同じ、決められた動きをするお人形さんってわけね」
「でも、どうしてさっきのレインナートが⋯⋯」
「本体の怒りに触れたんでしょ。分身とはいえ、自分以外の男がラファエラに触れるのが許せなかった。そんなところじゃない?」
「⋯⋯もっとよく分からないです。だったら自分の分身を作らなければいいのに」
「さあ。よっぽど自分のことが好きなんじゃないかしら」
とにかく、ここにはアリソンとラズが求める存在はいないようだった。行きましょ、と促すラズに頷き、アリソンはラファエラを置いて歩き出す。ラファエラも気にする素振りは見せず、ただひたすらに花を見つめていた。彼女はそんなに花が好きだっただろうか。エリザベスが知らないだけで、そういう一面もあったのか、それともレインナートの願望なのか。
どちらにせよ、いかにそれらしく取り繕っても、結局はレインナートが作り上げた偽物でしかない。本物の彼女は喜ぶだろうとアリソンは思った。ラファエラは間違いなく、レインナートの中で永遠になれたのだ。永遠に求めてやまない、誰にも代替されない唯一に。
◇◆◇
歩き続けてしばらくすると、また再びレインナートが目の前に現れる。これもまた分身だろう。ラズにあっさり殺されたことからも、この分身には少なくとも本物のレインナートのような戦闘力は持っていないことは明らかだった。彼はにこりと貼り付けたような笑みを浮かべると、敵意はないと示すように両手を広げて言う。
「君たちは望んだことはないのかい、愛する存在とやり直すことを」
「あるに決まってるでしょ」
「あるに決まってるじゃないですか」
あんまりな愚問に、異口同音に二人は答える。
何のつもりだ、この男は。一瞬で燃え上がった怒りに突き動かされそうになる胸を押さえ、息を吸って、吐いて、そうして冷たい炎だけを宿してアリソンはレインナートを見据える。
「だけど、それはもうどうやったって叶わない。あなたが殺したから」
「叶えてやれると言ったら?」
「冗談じゃな──」
「ラフィを見ただろう? あの精度で君たちの求める人間を作り出してあげてもいい」
食ってかかろうとしたラズの言葉を遮って、彼はそう言った。
数秒の間の後、ふっとラズが口角を吊り上げ、皮肉を込めて笑う。
「安心したわ。あたしたち、アンタにとっての脅威になれてるのね」
顔を顰めたレインナートに、なるほど、とアリソンは思う。
アリソン達がレインナートを許せないように、レインナートもアリソン達を見逃そうという気は到底ないだろう。だが、その提案はアリソン達を愚弄するための嘘ではなく、本気のものだった。彼は本気で、アリソン達がこれを聞いて手を引いてくれるかもしれないと思って提案しているのだ。それはつまり、レインナートにってアリソン達に負ける可能性が僅かでも存在するということである。でければ、問答無用で叩き潰してくればいい。
アリソンとラズにその気がないことを悟ったのか、レインナートは大袈裟にため息をついて肩を落とす。
「愚かだな、もう二度と会えない人間と再会できるのに」
「あんな偽物なら無い方がマシよ」
「ラズの言う通りです。返せるって言うなら、返してみせてくださいよ。私の家族を私に、イグニスさんをラズに。偽物なんかじゃない、本物を」
「⋯⋯」
「できないんでしょう。それができるのなら、あなたはとっくにラファエラを生き返らせている。例えあなたが女神に選ばれていようと、死んだ人を生き返らせることはできないんだ」
尤も、できたとしてもラファエラがそれを望むのかは甚だ疑問だが、レインナートはラファエラの真意を知らないため、そのことには考えが及ばないのだろう。
アリソンとラズに矢継ぎ早に繰り出された言葉の数々に黙り込んだレインナートは、二人を睨みつけてその場から消える。
「図星を突かれて逃げるなんて、子供みたいね」
「もしかしたら、ここではレインナートの⋯⋯なんていうか、心の中が素直に表れているのかもしれません。何だかセネカに閉じ込められた悪夢の中に似た感覚がするので」
「ああ⋯⋯確かに似てるわね」
素直に、ありのままに心の声を曝け出してぶつけるような彼の態度は、幼子の癇癪に似たものがある。誰しも心の中に抱えている最も我儘で最も正直な部分が、ここではある程度まで剥き出しになっているのかもしれない。
「アリソン、もしアンタがいつか暴走しても、こんな設計にしたら駄目よ。心の柔らかいところなんて、誰にも見せるものじゃないもの。特に敵なんかにはね」
「暴走する予定はないですけど、えっと、参考にします?」
「そうしておきなさい」
緊張を和らげるための軽口なのだろうか、それとも特に深い意味はなく思ったことを口にしただけなのか。警戒を怠ることのないラズに倣い、アリソンも五感を研ぎ澄ませながら先を進む。
まるで水底を歩いているような感覚は、セネカに閉じ込められた悪夢の中でラズの記憶を見ていた時と似ている。底に足がついているはずなのに、ついていないような。レインナートの精神と肉体の境界が曖昧になっていることに引きずられているのかもしれない。
「ねえ、気づいてる?」
「⋯⋯下り坂、ですよね」
ラズの短い問いにアリソンは頷く。ただでさえおかしな感覚がしていたため確信は持てなかったが、ラズもそう言うのならば正しく自分たちは下に向かっているに違いない。
そうして辿り着いたのは、まるで玉座の間のような空間だった。まるで脈打つような無数の柔らかな白い管でできた壁、その一番端の中央には巨大な蛹のような、脈動するものがあった。中にある肉塊が時折蠢くほか、何者もいない静寂。
「あれがレインナートの核でしょうね。アンタも感じるでしょ、あいつの魔力を」
「はい⋯⋯すごく、重苦しくて、熱くて⋯⋯怒ってる」
頷きながら、アリソンは無意識に手を胸の上に置く。ドクン、ドクンと脈打つ心臓はまるで叫んでいるようだ──あの男を殺せ、と。
蛹ごとあの肉塊を破壊すれば全てが終わる。一歩踏み出したアリソンたちの前に、突如、強風が吹き荒れる。その中心に姿を現したのは、やはり、レインナートの分身だった。
ただし、今まで現れては警告めいた言葉を発していた分身とは違う。明らかな戦意を感じる。
「させないよ。俺の核には、誰も触れさせない。俺はこの力で女神をも超える存在となり、世界を作り変えるんだ」
「なら、ここで決着をつけましょ」
「あなたを殺して、終わりにします。全部」
全てを終わらせるために、アリソンたちはここまでやって来たのだから。
武器を構えた二人に、レインナートが両手を広げる。その身から放たれる膨大な魔力と敵意は、もしアリソンたちが覚悟なく立ち塞がっていたなら一瞬で吹き飛ばされていただろう。それだけのエネルギーと怒りが研ぎ澄まされていた。
そうだ、ここが終わりなのだ、とアリソンは思う。ここが自分たちの終着点にして、勇者の墓場。全てはこの日のために、この時のために、死に損ないの村娘は剣を手に取り生きて来たのだ。
この旅が終わった時、自分は。そしてラズは。
瞬きの刹那、懐かしい故郷が瞼の裏に浮かぶ。黄金の小麦畑。機織り機。食卓に並べられた母の手料理。無口ながらも暖かな眼差しを注ぐ父と、快活に笑う母。その二人の間でこちらに手を振る弟のルノー。
求めてやまない情景から目を開き、アリソンはレインナートを見据える。隣にいるラズもまた、きっと彼女の最愛の人を思い浮かべていたことだろう。迷いなく己を睨みつけた二人の少女に、レインナートの口角が歪に吊り上がり、背後で肉塊が大きく脈打つ。
「そうだね、終わりにしよう──全てを!」
咆哮を上げて飛びかかってきたレインナートを、アリソンとラズは迎え撃つ。
世界を救うためでも、未来を守るためでもない。ただ、全てを終わらせるためだけに。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
いよいよアリソンとラズの旅も終わりまであと少しです。引き続き最後までお付き合い頂けると嬉しいです。
次回更新日:10/20予定




