054 村娘の帰郷
パチパチと、まるで拍手のような火の音にアリソンは目を覚ました。
数度瞬きをすると、焚き火に照らされた陶器で作られた人形のような横顔が鮮明になる。視線に気づいた彼女は、アリソンに向き直ると声を落として言う。
「あら、起きたの?」
「⋯⋯すみません、また寝ちゃって」
「いいのよ、火の番はあたしがしておくから。寝る子は育つ、でしょ?」
「そ、そんなに子供じゃないですよっ」
ラズの眠りが浅いことは知っていた。
夜中に目を覚ました時には大抵彼女と目が合うし、交代で火の番をしても彼女はすぐに起きてきてアリソンを寝かしつけてくる。耳がいいから些細な音も拾ってしまうのだと言うから、なるべく静かにしようとは思うのだが、なかなかうまくいかない。どころか、こうして途中で寝てしまう始末。
「いいから無理しないでちょうだい。明日はいよいよアンタの故郷に着くんだから。⋯⋯せめて体だけでも万全な状態にしておきなさいよ」
ああ、そういうことか、とアリソンは彼女の気遣いを理解する。
「⋯⋯じゃあ、ラズも万全にしてください。私がショックで気を失ったら、ラズが私の面倒を見てくれないと困るんですから」
「言うじゃない。地面を引きずっていくけどいいかしら?」
「えーと⋯⋯もうちょっと優しい運び方はないんですか?」
「ないわね」
だからそれが嫌ならさっさと寝なさい、と続いた彼女の言葉に、素直じゃない優しさに触れてほんのりと胸が暖かくなる。
魔界を出てから、ラズとは色々な話をした。お互いに隠していたことをひとつずつ、まるでお菓子の包み紙を開けるみたいにそっと打ち明け合って。そうした中には、相手がラズでなければ到底信じられなかったこともあった。
例えば、己の左手には包帯が巻かれていて、その下にはひどい傷跡があること。
アリソンの目には何もない真っさらな腕にしか見えないのは、自己暗示だと彼女は言う。相当な痛みを伴ったから、記憶が蓋をしているのだろうと。
それから、自分で思っている以上に表情筋が固まっているらしいこと。そんなつもりはないのにな、と思いながらふに、と口角を手で持ち上げる。不自然な感覚。やはり彼女が言っていることは本当なのだろう。
「何遊んでるのよ」
「わっ、す、すみません」
慌てて毛布を引っ張り上げ、目を閉じる。
明日はいよいよ、故郷に着く。帰郷の時だ。
子供の頃によく遊んでいた河原、林。怪我をしているイグニスを見つけたのも、確かそこだったはず。久しぶりに村に帰ってきたジョアンと再会を喜びあった広場。祖母から引き継いだ機織りの仕事。母の笑顔、無口な父の気遣い、ルノーの膨れっ面、寂しげな顔、話をせがむ無垢な瞳。
懐かしい、決して戻れない過去の情景を瞼の裏から追い出す。優しい記憶に足を取られては進めない夜もある。
翌日。
昨日に引き続き林の中を歩いていると、アリソンより数歩先を歩いていたラズが足を止めて振り返る。
「本当にこっちの道であってるの?」
「た、たぶん⋯⋯」
二人はサージにもらった地図とにらめっこし、コンパスで方角を確認する。歩けども歩けども変わり映えしない景色に、まさかまた迷子になったのかという疑念、もとい不安が互いの目に浮かぶ。
「も、もうちょっとだけ歩いてみて、やっぱり何か変だったらまた考えましょう!」
「⋯⋯そうね」
建設的な意見など出せるはずもない。ややへっぴり腰になっているアリソンの言葉に、ラズが頷く。
林の中を歩きながら、足元にかかる雲の影に空を見上げる。名前も知らない鳥が横切っていく。ざくざくと土を踏み締める音の中、ふと川のせせらぎが聞こえてきた。
パッと顔を上げたアリソンは、進路方向を変えて草むらをかき分ける。ラズの「ちょっと!」と慌てたような制止する声に、「大丈夫です」と確信を込めてアリソンは言う。
「大丈夫です、ここまで来たら分かります。このまま進めば着きます」
懐疑的だったラズの目が見開かれる。清廉な色を宿す蒼に頷き、アリソンは一歩、また一歩と踏みしめていく。
この道は知っている。ここを左に進めば川が、右に進めば村の入り口への近道だった。
ふと視界を過った豚のような、けれど四肢の長く伸びた動物の姿に、ラズがサッと目の色を変える。
「あの生き物は⋯⋯」
「アルカエオテリウムっていうらしいです。長老が言ってました」
「⋯⋯そう。随分変わった姿形をしてるのね。その割に凶暴性も、人間への敵意もない⋯⋯じゃなきゃ、魔物と間違えるところだったわ」
「心配いらないですよ。ドルフ村の近くに魔物は出ませんから」
「⋯⋯そういえばあなた、前にもそう言ってたわね。魔物が一切出没しない地域なんて聞いたこともないけれど、その話が本当なら⋯⋯それも旧神と関係があるのかしら」
「どうなんでしょう⋯⋯? 旧神に会ったら聞いてみましょうか」
そんな会話をしているうちに、足が土ではなく木片を踏み締めた。それが、村の入り口にあった木で作られたアーチの残骸だと言うことに、アリソンは遅れて気づく。アーチは焼け落ち、地面に木片と炭が転がっているだけになってしまっていたのだ。
「⋯⋯アリソン、」
「大丈夫です」
肩に手を伸ばしてきたラズに、アリソンはいつもと変わらない声色で答える。
「行きましょう。ここが村の入り口です」
「⋯⋯そう」
アリソンの言葉に、ラズはアーチをくぐるような動作をして村に踏み入れていく。分かりにくい彼女の気づかいに苦笑しながら、アリソンもその後に続く。
そこは確かにドルフ村だった。自然豊かな、夕焼けの美しい愛する故郷。
震える足で土を踏み、アリソンは一軒、また一軒と残骸になった家を見て回る。瓦礫の山のようなここには、牛飼いの夫婦が住んでいた。あそこには木こりのおじさんが、その向こうは村長の家で、少し離れたところにあるのはトマスの家、その隣は教会で。
知らない顔は無かった。言葉を交わしたことのない人なんていなかった。小さい村だから。それを嫌って飛び出していく人もいるような場所だったから。
全ての家の残骸を見て回ったアリソンは、最後に我が家の前に立った。あの日燃え落ちた家は、食卓も寝室も、離れの織り機でさえも見る影もない。
「⋯⋯ここが、私の家だったんです。ここが玄関で、ここにテーブルがあって、キッチンはここで⋯⋯階段を登ると2階で、いつもここで寝起きしていて」
まるで自分のものじゃないみたいに、勝手に部屋を辿る両足がよろめく。支えるように、ラズがアリソンの手を強く握る。
「イグニスさんも、ここにいたんですよ」
「⋯⋯ええ」
「ラズにも、会ってもらいたかったなぁ⋯⋯私のお父さんとお母さんと、弟のルノーと⋯⋯村のみんなにも⋯⋯」
くぐもった声で言ったアリソンに、ラズは何も言わず、ただ寄り添い立ってくれた。握った手の温度と力強さに、余計に溢れてしまったのはアリソンだけの秘密だ。
しばらく感傷に浸った後、アリソンは袖で目元を拭い、顔を上げる。
「ありがとうございます。それじゃあ、旧神を探しましょう」
「そうね。⋯⋯どこか祀られていた心当たりのある場所はあるの?」
「祀っていたわけじゃないんですけど、でも多分、裏山⋯⋯じゃないかと思います」
思えば、奇妙だった。両親からの言いつけ──裏山に行ってはいけないこと。祖母から教えられた薬草があそこにはあるのに、祖母が教えてくれたことも裏山に立ち入ったことがあることも家族以外に話してはいけないこと。
それが今の王国の信仰に反するもの、つまり邪教崇拝と捉えられかねない何かがあったのだと考えれば、合点がいく。
「なるほど、あれね? なかなか手強そうな山じゃない」
裏山の方を見やったラズはそう言って、ため息混じりに笑う。
そうして、アリソンとラズは裏山へ向かって歩き出す。決して離さぬように、繋いだ手に力を込めたまま。
◇◆◇
裏山に入ったは良いが、薬草が生えているのは比較的山の入り口に近い辺りであり、それより奥はアリソンも子供の頃のうっすらした記憶しかなかった。仕方なく二人で歩き回るものの、すぐに違和感に気がつく。
「ねえ、ここさっきも見なかったかしら」
倒れた木の幹を指したラズの言葉に、アリソンも頷く。
「確かに、見た気がしますね⋯⋯同じところに戻ってきちゃったんでしょうか?」
「⋯⋯そうかもしれないわね。次は目印をつけながら歩きましょ」
「あ、いいですね! そうしましょう」
一定間隔ごとに通り過ぎた木に軽く「A」の文字を刻むことにして、しばらく歩いた後、気づけば目にする木はどれもこれもが「A」まみれになっていた。
「ど、どういうことですか、これ⋯⋯」
青ざめた顔で呟くアリソンに、ラズが「どうしたもこうしたも」と木々の間を睨みつける。
「同じところをぐるぐる回らされてる、ってことよ」
「そ、そんな⋯⋯おかしいです、こんなことは今まで一度も⋯⋯」
「⋯⋯アリソン。あなた、この裏山に入った経験はどれくらいあるの?」
「最近だと、イグニスさんのために薬草を取りに入った時ぐらいです。でも、もっと小さい頃は奥まで入ったことがあるはずです⋯⋯ちゃんとした記憶はないけど、でも、こんなことは無かったはずなんです!」
「⋯⋯そう」
アリソンの言葉を受けて、ラズは少し考え込んだ後、顔を上げアリソンの名を呼ぶと毅然とした態度で言った。
「ここから先はアンタひとりで行きなさい」
「えっ」
「多分⋯⋯アンタにしか会えないんだと思う。この村の出身者であるアンタにしか」
最初に思ったのは、そんなことがあるものか、という憤りで。けれど落ち着けば落ち着くほど、ラズの仮説の信憑性が増してくる。
昔、立ち入った時には無かったこと。いつまでもぐるぐると同じ場所を歩いていること。昔と今の違いは、ラズがここにいること。
「でも、私と別れたら、ラズは一人でここを彷徨うことになるんじゃ⋯⋯」
「多分そうはならないと思うわ。余所者だけなら帰されるはずだわ」
そう言ってラズは木の多い茂る斜面を一瞥する。そんなラズの手をぎゅっと握りしめて、アリソンは俯く。
本当は、離れたくない。ひとりにしないで欲しい。ひとりにしたくない。こんな、死んだ村の中でひとりになんてなりたくないし、させたくなかった。
そんなアリソンの気持ちを見透かしたように、ラズが仕方ないなと言いたげな、呆れを含んだ柔らかな表情をして言う。
「そんな不安そうな顔するんじゃないわよ。大丈夫、村でアンタを待ってるわ」
「でも⋯⋯」
「聞いて、アリソン。ここから先、アンタはひとりで行く。でも、ひとりじゃない。あたしの心は、あたしの心臓は常にアンタと共にある」
繋いでいない方の手をあげた彼女がその白い指先で、とん、とアリソンの胸を指す。
「あたし達は運命共同体。そうでしょ」
「⋯⋯」
「それに、アンタの村をずっと見守ってきた神なんでしょ。だからきっと、怖がることはないわ」
「⋯⋯分かり、ました⋯⋯」
そっと繋いでいた手を離し、自分のスカートの裾を握りしめたアリソンを、ラズは軽く抱きしめて体を離す。
「それじゃ、また後でね」
「⋯⋯はい。気をつけてくださいね、ラズ」
「分かってる。あなたもね」
ひらりと手を振って立ち止まったラズに、アリソンは背を押されるようにして反対方向へと歩き出す。数歩ほど歩いてから振り向くと、そこにはもうラズの姿は無かった。彼女が立ち去ったのではない。別の、正しい道に入ったからだという予感がした。
辺りに漂い始めた霧に、弱音を吐きそうになった自分の頬を叩き、キッと鋭く前を見据える。
ここから先はひとりだ。でも、ひとりじゃない。彼女の言ったように。
自分の心臓の音を聞きながらアリソンは霧の漂う中、曲がりくねった道を着実に進んでいく。不思議とどうすれば良いのかが手に取るように分かった。
そうして、深い霧に覆われた中たどり着いた行き止まりで、アリソンは人型のような形をした淡い光を見た。
「あなたが旧神⋯⋯ですか?」
恐る恐る言葉を紡いだアリソンに、目の前の光は少し笑ったようだった。
『おやおや、ここにヒトの子が来るのはいつぶりかな?』
鍵盤楽器のような音を鳴らして喋った光は、手に当たる部分をアリソンの頬に伸ばして言う。
『そう。ボクこそが旧神ポラリスだ。久しぶりだね、始まりの地の子よ』
◇◆◇
アリソンが旧神との邂逅を果たした頃。
予想通り無事に下山できたラズは、裏山の入り口付近の切り株に腰を下ろしていた。青空を見上げ、空を横切る小鳥のさえずりに耳を澄ませているととてもじゃないが世界が荒廃しつつあるとは思えない。
「で、招かれざる客のお出ましってわけね? 出てきなさいよ、そこにいるんでしょ」
足を組み、頬杖をついたまま発せられた言葉に、「さすがね」と妖艶な声が響く。
パキリと木片を踏み締めながら姿を現した人影は、ラズの憮然とした態度に目を細める。
「そうでなくちゃ、レイを狙う敵としてはお粗末すぎるわ」
マントのフードを外し、ぱさりと赤い巻き毛を外気に晒して、女は世にも美しい微笑を浮かべる。
──マルガリータ。
レインナートの最後の仲間にして、最も忠実な女の姿に、ラズは口角を上げた。
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