047 ロスト・フォレスト
「アリソン、アリソン。聞こえる?」
「ん、んん⋯⋯?」
聞き慣れたラズの声にアリソンは身動ぎした。
狭い寝台の上で寝返りを打つと、ベッド脇に座っているらしいラズの身体にぶつかり、それを咎めるように身体を軽く揺さぶられる。仕方なく身を起こすと、寝違えたのか、身体の端々が重たい。
「ふわぁ⋯⋯うーんと、おはようございます?」
「おはよう」
あれ、なんだろう。何かがおかしい。
こんな風に呑気に起き上がって、話をするような状況ではないような気がして──だけど、じゃあ何をすればいいかと言われると頭がぼんやりしてしまう。
まだ完全に目覚めきっていないのかもしれない、と欠伸をして、アリソンは周囲を見渡す。
「あの、ラズ。ここって⋯⋯」
「ここがどこかって? 見た通りでしょ」
「見た通り⋯⋯そうですよね」
そうだ、見間違えるはずがない。ここはドルフ村の寝室だ。
家族に一部屋なんて贅沢はないので、部屋にはいくつか簡易的な作りの寝台が並んでいるが、家族の姿は見えない。どうやらアリソンが一番最後に起きたようだ。
「なんだか変な感じですね。私の故郷にラズがいるのって」
──どうしてラズがここにいるのは、おかしなことなんだっけ?
口にしてから、奇妙な違和感を感じて首を傾げると、足を組んで座っていたラズが目を瞬かせ、「ふうん」と呟く。
「アンタには、ここがドルフ村に見えてるのね」
「え?」
「いえ、独り言よ。ねえ、ところでアンタの剣のことだけど、」
「大丈夫です」
「話は最後まで聞きなさいよ」
「聞かなくたって、分かってますよ。どんな事情があって、私に返したくなかったのか。私にだって、予想ぐらいついてます」
その答えに、ラズはしばらくアリソンを凝視した後、苦虫を噛み潰したような顔をする。その顔がなんだかおかしくて、笑いたくて、でも笑えなくて。
もうずっと強張ったままの両頬に手を触れ、アリソンは困った顔でラズを見つめた。
「⋯⋯そう。なら、その件についての判断はアンタに任せるわ。元はと言えばアンタが貰った物だものね」
「はい、ありがとうございます」
「でも一つだけ条件があるわ」
「条件?」
聞き返したアリソンに、ラズはしょうがないなと言いたげな、優しく、柔らかで、まるで最愛の彼を前にしたような微笑みを浮かべて言う。
「アンタがこの先、何を選び、何をしようが──イグニスが助けた命を無駄にしないで」
イグニスが助けた命。
その言葉に、アリソンは先ほど感じた違和感を思い出す。
そうだ、ラズがここに、ドルフ村にいるはずがない。だってアリソンとラズが出会ったのは。
「それさえ守ってくれるのなら、アンタが誰を殺そうが、誰を殺すまいが、復讐しようと⋯⋯復讐すまいと、あたしはアンタの味方でいる。アンタが何を選んでも責めたりしない。エリザベスがアンタに何を言ったのかは知らないけど、流されないで。自分の頭で見極めて答えを出して」
つまるところ、自死さえ選ばなければどんな道を選んでも自分は味方だ、と彼女は言っているのだ。
かつてイグニスに救われて魔界で目を覚ましたばかりの頃、家族の元へ行きたいと願うアリソンにラズがかけた言葉を思い出す。
『あの人が助けた命を、どうか、無駄なことだったと思わせないで』
今と似ているようで、けれど少し違う言葉に、アリソンは目を伏せる。
忘れるはずがない。
無駄になんてできるはずがない。
「⋯⋯はい。私も、私もラズの味方ですよ。ラズが何をしたって、きっとそうです」
自分よりも少し体温の低い手を握り、アリソンは彼女と額を合わせる。
ラズが自分を信頼してくれていること、そしてそれを言葉にして伝えてくれたのが嬉しかった。
「馬鹿ね。何をしても、なんて軽々しく言うんじゃないわよ」
「え、ええー⋯⋯自分はよくて私は駄目なんですか? ちょっと不公平じゃ⋯⋯」
「あたしは違うわよ。イグニスの助けた命を無駄にしなければ、って前置きがあるじゃない。なのにアンタは無条件でしょ、そんなの駄目に決まってるわ」
「そう言われても⋯⋯それに、ラズは私が『それは駄目』って思うようなことをしないと思いますし、信じてますから」
「⋯⋯」
「ら、ラズ? ため息なんてついちゃってどうしたんです?」
何かまずいことを言っただろうか、と慌てるアリソンに、ラズは頭を抱えて首を振る。
「もういいわ⋯⋯どうせ何を言っても、『ラズだから大丈夫です!』って言ってきそうだもの」
「あはは⋯⋯よく分からないけど、ラズがそう言うならそうなのかもしれませんね」
「そういうところよ! 全くもう⋯⋯少しは警戒心ってものを持ちなさいよ」
警戒心なんて、ラズ相手に持ってどうするというのだろう。
内心で呆れつつも、言ったら余計に怒らせそうなので黙っておくことにする。できれば一生。
「それじゃ、また後でね」
「はい。⋯⋯はい?」
また後で?
体を離した彼女は悪戯に微笑むと、目を白黒させているアリソンをそっと押しやる。
そのまま寝台に逆戻り──かと思いきや、背中はいつまで経っても寝台につかず、アリソンの身体は深淵へ真っ逆さまに落ちてしまうのだった。
◇◆◇
「き、きゃあぁあーーー!!?」
がばっ、と勢いよく起き上がったアリソンは、自分が柔らかな寝台の上にいることに気がついた。村の寝台とは比べ物にならないほどふかふかで、大きくて、手足を自由に伸ばせる寝台。顔を上げれば七色に光るカンテラ。壁は黒く塗りつぶされ、開いたままの窓からは変わらぬ闇夜があり。
「⋯⋯魔界?」
ポツリと呟き、そろそろと足を地面につけると、床の冷たさに思わずつま先が引っ込む。ドキドキしながら頬をつねれば、そこには確かな痛み。
今度こそ、夢じゃない。本当に起きている。現実だ。
「あら、目を覚ましましたの?」
ノックもなしに扉を開けて入ってきたのは、モノクルをつけ、マーメイドドレスを身に纏った優雅な女性──エリザベスだ。
井戸などの水面越しに見るのとは違い、本物の彼女が動いている。思わず手を伸ばして腕を掴むと、すり抜けることなく確かな肉感が伝わってきた。それに安堵していると、怪訝そうな顔をされる。
「あっ、ごめんなさい。さっき、起きたと思ったら夢だったのでつい⋯⋯」
「あらあら。フフッ、そういう夢ってありますわよね」
手を離しながら弁解すると、彼女は淑やかに微笑んで許してくれる。
「それにしても、貴女の目が覚めて本当に良かったですわ。門の前に倒れているのを見た時、本当にびっくりしたんですのよ?」
「す、すみません⋯⋯でも、じゃあやっぱり、あれは門が開く音だったんですね」
アリソンは改めて、目を覚ますまでの現実での出来事を思い返す。
国王の追求に、本性を露わにしたレインナート。異形へと姿を代えた彼によって召喚されたワイバーンに支配された王城。
その戦いの最中、叩き落とされたラズを受け止めようとした瞬間、アリソンの耳に聞こえてきた重たい何かが開く音と、身体が引きずられる感覚。魔界から人間界に戻るために門を開けた時と同じ感覚だったため、それに賭けたのだが、その予想は正しかったようでアリソンは胸を撫で下ろす。
──いや、待て。
「ラズは? ベティさん、ラズは今、どこに」
エリザベスの愛称を呼び、アリソンは彼女を見やった。寝台に座っているアリソンと違いエリザベスは立っているため、自然と彼女の顔を見上げる形になる。
アリソンの問いに、エリザベスの微笑が消えて真顔になる。
まさか。最悪の想像にアリソンがサッと顔を青くすると、それを見たエリザベスが慌てて「隣の部屋ですわ」と答える。
それを聞いて、アリソンはホッと息を吐く。良かった。上手く門を開けず、彼女だけあの地獄のような状況に取り残されたわけではなかった。
しかし、エリザベスの表情は固いままだ。
彼女の表情に、まだ安堵するには早かったことをアリソンは思い知った。
「ですが⋯⋯ああ。本当は、貴女が落ち着いてから伝えるつもりだったのですけれど⋯⋯包み隠さずお話ししますと、ラズは⋯⋯あの娘はまだ、目を覚ましていないんですのよ」
もう3日になりますのに、とエリザベスは頬に手を当ててため息を零す。
「ど、どうしてですか? なんで私はなんともないのに⋯⋯もしかしてどこか怪我を!? それとも魔術とか⋯⋯」
「多少の擦り傷や打撲はありましたけれど、でもそれは貴女も同じでしたし、貴女たち二人に魔術の痕跡はありませんでしたわ。だというのに、どうして貴女が目を覚まし、彼女がまだ目を覚まさないのか⋯⋯わたくしにも分かりませんの」
「そんな⋯⋯」
思わずシーツを強く握りしめ、アリソンは地面を見つめた後、パッと顔を上げる。
「あ、あのっ、私が目を覚ましたみたいに、ラズも急に目を覚ますかもしれない⋯⋯ですよね? だ、だって、もう3日も経ったって⋯⋯私も3日間目が覚めなかったんだから、ラズだって急に目を覚ますかもしれない。そうでしょう?」
「⋯⋯それを願うばかりですわね」
そう言って、エリザベスは憂いを帯びた顔で少しぎこちなく微笑む。
安心させようとしてくれているのだ、と理解し、彼女の気遣いに感謝すると同時に、却って不安が煽られる。
「あの、ラズの様子を見に行ってもいいですか?」
「ええ、もちろんですわ。もしかしたら貴女が会いに行けば、目を覚ますかもしれませんわね」
励ますように言って手を差し伸べてくるエリザベスに支えられ、アリソンはシーツを握る手から力を抜き、寝台から降りる。エリザベスに自分で歩けることを伝え、彼女の後に続いて歩き出そうとした時、うっかり何かを蹴り飛ばしてしまう。
謝罪の意味も込めてそれを拾い上げたアリソンは、目を丸くした後、先を行くエリザベスを見やる。彼女は知っているのだろうか、それとも。
浮かんだ疑問を飲み込んだアリソンは、拾ったものをポケットに仕舞い、扉を開けているエリザベスへ小走りで向かった。
ラズが寝かされていたのは、アリソンがいたのよりも少し小さい部屋の中だった。
こちらの声や気配に目を覚さないラズの姿は、かつてセネカの罠にかかって悪夢の中に閉じ込められた時のことを思い出させる。伏せられた長い睫毛の間の蒼を思いながら布団からはみ出た手を握ってみても、彼女は文句の一つも言いやしない。
しばらくの間そうやって彼女の脈を感じたのち、自分よりも低い体温が伝わるその手をアリソンは布団の中に戻した。
立ち上がったアリソンに、エリザベスは少し驚いたように声をかける。
「あら、もういいんですの?」
「はい。ここで待ってても、目を覚さないって分かったので。今はここにいるよりも、状況を知りたいです。魔界と、それから人間界がどうなっているのかを」
「⋯⋯フフッ、意欲があるのは良いことですわね。そういうことなら、わたくしの部屋でお話するとしましょう。お茶とケーキを用意しますわ」
「ありがとうございます。⋯⋯魔人の異能の使い方を教えてもらってた頃も、よくお茶をしましたね」
「ええ、懐かしいですわね。再会を祝して、とっておきのお茶菓子を出しますわよ」
楽しげなエリザベスの姿に、アリソンは視線を逸らす。
母の作るものとよく似た味のお菓子と、上品な匂いの紅茶。その湯気の向こうで嫋やかに目を細めるエリザベスの姿を思い出す。
そうして最後に一度だけラズを振り返ってから、アリソンは部屋を後にした。
◇◆◇
エリザベスの部屋は、以前と変わらず品よくまとめられていた。部屋の真ん中のテーブルを二人で囲み、彼女が決まった手順で紅茶を淹れるところをぼんやり眺める。
それにしても、思えば自分はエリザベスという人のことをよく知らない。
ベティと愛称で呼ばれたがること。水を操る異能を持つこと。それから、強大な魔力を持つ人間の心臓と引き換えに死者を生き返らせられるが、3人以上の人に知られると死んでしまうから他言してはならないらしいこと。元はと言えば、その誘惑に負けてアリソンは復讐を始めたのだ。憎い人間の命と引き換えに家族が生き返るのならば、それはなんて、アリソンに都合の良いことだろう。
そう、疑いもせず、こんなところまで来てしまった。
「何か考え事ですの?」
「あっ、すみません⋯⋯そうですね、少し」
「わたくしで力になれることならなんでも言ってくださいませ。さあ、紅茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
受け取ったカップに浅く口をつけ、少ししてから離す。向かいに座ったエリザベスも同じように紅茶を口にしている。
「さて、それでは人間界のことですけれど⋯⋯せっかくですから、直接"視る"ことにいたしましょう」
そう言って、エリザベスは紅茶を淹れるのに使ったお湯を宙に浮かせると、アリソンから見て向かって右側に大きく水を広げていく。
そして、最初は透明だった水に、徐々に街──あるいは、かつて街と呼ばれていた人の営みの痕跡が映し出され始める。崩れた柱、潰れた屋根。散乱する木の板、石、煉瓦。一言で瓦礫の山と片付けるのは容易だが、それが意味するところを思うとゾッとする。
いっそ、元のあるべき姿の面影など全く残っていないと言えたら楽だったが、残念ながらアリソンは微かに見覚えのある建物をいくつか見つけてしまっていた。それらの残骸を無造作に踏み締め、我が物顔で闊歩するワイバーンの群れにアリソンは思わず拳を握る。
「フフッ、気づきましたのね? ええ、貴女の予想通り、これは王都ですわ。大陸を統一し、繁栄に浸っていた王国の首都とはとても思えない光景だと思いませんこと?」
「⋯⋯やっぱり、街の人たちはみんな死んじゃったんでしょうか」
「この惨状ですもの、一人残らず死に絶えた──と言いたいところですけれど、そうとも言えませんわね。どうやら王宮の地下に避難をさせていたみたいですし⋯⋯まあ全員が逃げ延びたとは思えませんけれど。でも、国を動かすのに必要な権力者や、幸運な市民は生きてらっしゃると思いますわよ。あとどれほど持つかは分かりませんけれど」
流暢に述べたエリザベスは、「次に行きますわよ」と前置きして水面をひと撫でして景色を変える。
今度はどこかの村のようだったが、人の姿はなく、ワイバーンも見当たらない。ただ、潰れた建物と巨大な動物のような足跡で荒らされた畑を見れば、ここで何があったのかは明らかだった。
「あら、ここはもう人間がいないようですわね。次の標的を求めて、ワイバーン達も去った後みたいですし⋯⋯次に移るとしましょう」
再び彼女が水面を撫でる。
どこかの街道、倒れ伏した人々。薙ぎ払われた木々。赤く染まった川。
口を押さえたアリソンに、エリザベスは淡々と説明する。
「ここは、聖都へと通じる道ですわね。あそこの死体は巡礼者でしょう」
「⋯⋯」
前にラズと通った時は、こうではなかった。
記憶と異なる風景に言葉も出ない。
「聖都は⋯⋯聖都の中は、どうなっているんですか?」
「あら、見たいんですの? よろしくてよ」
薄く微笑んだ彼女が水面をひと撫でするのを、アリソンはひどく緊張した心持ちで見つめる。
本当は、聞きたくなかった。だけど、聞かなくてはならなかった。
聖都には共に共闘した仲の人々がいる。スラムで子ども達を守っていた赤い髪の少年ルークと、聖女のヒナコ。彼らも、ワイバーンの餌食となったのか。
アリソンの気持ちを知ってか知らずにか、エリザベスは焦らすようにゆっくりと水面を撫でる。緊張に心臓がどくどくと脈打って、そして。
「──え」
そこには、記憶とさほど変わらぬ聖都の様子があった。
大司教に壊された街並みは元通りとは言えないものの、復興が進んでいることが目に見えてわかるほど、聖なる都市は正しく都市の姿をしている。ワイバーンや勇者に蹂躙された痕跡も、死体も、何もない。通りを歩く人々は活気に溢れていて、とてもじゃないが襲撃を受けた後には見えなかった。
「な、なんともない⋯⋯んですか? どうして⋯⋯」
「どうやら聖女が一肌脱いだようですわよ? ほら、聖都の空をよく見てくださいませ。うっすらと緑色の光を纏っているのが見えまして?」
「はい⋯⋯えっ、まさか防壁魔術ですか!?」
魔術を扱えないアリソンには、魔術の詳しい仕組みがよく分からない。けれど、聖都全体を包み込むほどの防壁魔術を張るのは難しいだろうということぐらい想像がつく。こんなことをしたら魔力切れを起こしてしまうのではないか。
けれど、その疑問の答えはすぐに浮かぶ。
あの時、大司教は聖都の人々を洗脳したり、禁忌とされる死霊魔術で大量の白骨死体を動かしていた。その膨大な魔力源は彼個人の魔力ではなく、水晶に貯蔵していた魔力だ。
「もしかして、溜めた魔力で防壁を?」
「想像の域は出ませんけれど、わたくしもそんなところだろうと思っていますわ」
どこかつまらなそうに言うエリザベスに、そうか、とアリソンは思い、胸の奥につっかえていたものがストンと落ちるのを感じた。
──そうか、エリザベスは聖都に滅んでいて欲しかったのだ。
聖都だけじゃない。思えば、彼女は勇者を憎らしげに語りながらも、壊された街並みを酷く愉快そうに見つめていた。
「ベティさんって、人間が嫌いなんですね」
「⋯⋯? それがどうしたんですの?」
首を傾げた彼女に、アリソンは目を伏せる。
同胞の命を奪ってきた勇者と同じ種族を、どうして彼女が嫌わないでいられるか。そもそも、彼女と魔人の長はアリソンに言ったのだ、魔人の味方になって欲しいと。それはすなわち、人間を裏切れということだった。
彼らにとって、人間は敵なのだ。アリソンとラズが多分ちょっとだけ例外なだけで、それ以外は死んだって構わないと、むしろ滅んで欲しいと願っている。
「おかしい、ですよね。私、そんなことも、ちゃんと考えたことなかったんです」
魔人の味方になる意味も知らずに、あの日アリソンは魔人の手を取ったのだ。家族を目の前で失ったばかりのアリソンには、家族を生き返らせ、失われた幸福な日々を取り戻すことしか頭になかったから。
アリソンは勇者が憎い。勇者を止めなかった、彼と志を同じにする人々も憎い。
だけれど、そうでない人々のことまでは憎いと思えなかった。例えば聖女ヒナコのことは許さないけれど、それでも彼女を守ろうとするルークの姿を見たら殺せなかったように、旅の中で出会った名前も知らない人々のことまで死んでしまえばいいと呪うことはできなかったのだ。
「どうしたんですの、突然。大丈夫ですの? やはりまだ体調が、」
「ベティさん、どうして嘘をついたんですか」
気遣わしげな言葉を遮り、アリソンは顔を上げる。
エリザベスの瞳が少しでも揺れていることを願ったが、そこにあるのは、汲み取った端から零れてしまう水のように、掴めない微笑みだけで。
唾を飲んだアリソンは、笑いたいような、泣き出したいような、くしゃくしゃになった感情をこらえて言う。
「ねえ、ラズがまだ目を覚ましていないっていうの、嘘ですよね」
ここまで言っても目を見張ってすらくれない彼女に、アリソンはポケットにしまっていた物を取り出して見せる。
「これ、何か分かりますか」
「⋯⋯いいえ?」
「嘘。ベティさんは知ってるはずです。だってこれは、イグニスさんがラズに贈ったお揃いのピアスなんですから。イグニスさんがつけているところを見たことがあるはずでしょう」
黒を基調とした重厚な作りのピアスが、アリソンの手の中で光を反射して煌めく。
イグニスと分け合っていたそれを、ラズが己の耳に突き刺した時のことをアリソンは思い出す。あの時、耳たぶを伝って落ちた血は、彼女の涙の代わりに見えたこと。家族と暮らしてきた年月に比べれば大して過去でもないのに、もうずっと遠い昔の出来事のように思える。
「ラズがまだ一度も目を覚ましていないのだとしたら、どうして別の部屋で寝かされていたラズのピアスが私のいた部屋に落ちているんですか?」
しんと静まり返った部屋の中、アリソンの声だけが響く。
どうか否定して欲しいと、アリソンは虚しい願いに唇を噛む。
けれどその望みに反して、いつまで経っても、彼女の口からはアリソンの言葉をひっくり返せるだけの何かが紡がれることはなく、そこにはただ変わらぬ微笑があるだけだった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
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