表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/76

幕間 地獄の底であなたとワルツを




「やあ、気が付いたかい?」


 ぱちぱち、と数度瞬きをしたマルガリータは、眼下に広がる群青に目を見開く。それから、自分がレインナートの腕に抱かれていることにも。

 記憶が間違っているのでなければ、自分は王宮の中庭に囚われているはずだったが、一体どうして空に──なんて、愚問だろう。今こうして彼の腕に抱かれているということは、レインナートが助けてくれたに違いない。

 どうして空を飛んでいるのかは分からないがとにかく、彼がいるのならば安心だ。マルガリータが全身の緊張を解くと、すぐ傍で息を吐く気配がした。

 彼はすぐに取り繕ってしまったけれど、マルガリータには分かる。それは安堵の息だ。


「拘束具は解いておいたから魔術も使えると思うけど、試してみるかい?」

「大丈夫よ、ありがとう。ねえ、レイ」

「なんだい?」


 マルガリータは改めてレインナートを見上げ、その頬に手を伸ばす。土気色の、ひび割れた肌は一見すると鉱石のような硬さがあるように見えたが、触れてみればなんてことのない、温かな血の通った皮膚だった。

 頬から首へと手を動かし、どくん、どくん、と肌の下で静かに脈打つ血の流れに耳を澄ませ、マルガリータはレインナートの唯一変わらない緑の目を見据えて問う。


「⋯⋯これ、痛くはないの?」


 肌の表面にできた無数のひび割れをなぞり、気遣わしげに言ったマルガリータに、レインナートは一瞬目を丸くした後、首を横に振る。

 

「ああ、平気だよ。ちょっと急激な変化に身体がついてこなかったみたいでね、見苦しいかもしれないけど、痛みはないんだ。むしろ今までより視界が広がっているような心地良さがあるぐらいさ」

「そう⋯⋯それならいいんだけれど」


 ほっとしたマルガリータに、レインナートは何かを言おうとして、また口を閉ざす。


「その、ところで、ずっと抱えてくれているけれど、重くはないかしら?」

「君ひとりぐらいなんてことないさ。何ならあと5人ぐらいはいけるよ」

「ふふっ、頼もしいわね。空も飛べるようになるなんて、これからはもっと頼りにさせてもらおうかしら」


 おどけたようなマルガリータの言葉に、レインナートは微笑む。

 自分の風貌が変わったことに対して踏み込まず、ただ心配と、これからも変わらぬ信頼だけがあると伝えてくる彼女のそういうところを、レインナートは仲間として、あるいは人間として、好ましく思っていた。


 話が終わったのを見計らったかのように、大きく風を切る音が響く。ワイバーンの羽ばたきの音だ。

 レインナートによって呼び出されたワイバーン達は、主人を慕う犬のようにレインナート達の周囲に集まり、守るように囲んで並飛する。


「レイ、あなた魔物を⋯⋯」


 それを見たマルガリータが、思わず、といった雰囲気で問いかけた。

 彼女の不安を、レインナートは優しく否定する。


「彼らは魔物じゃないさ。女神の使いだよ」


 ──嘘だ。

 レインナートが女神の使いだなんて言葉を口にするはずがない。彼はラファエラの死から女神を厭うようになったのだから。

 それに何より、周囲を飛ぶワイバーン達からは確かに魔物の気配がしていた。それも恐ろしく強い気配だ。魔物は通常、人が密集している地域に発生しやすく、更にその密集している人数が多いほど強い個体が生まれやすいものだが、このワイバーン達からは王国で最も大きな都市である王都の周辺で見られる魔物よりも数段強い気配を感じる。

 こんなものが各地に解き放たれたら、きっとあと1年も経たない内に世界は崩壊してしまう。

 してしまうけれども。


「⋯⋯あなたが言うのなら、きっとそうなのね」


 マルガリータは、真実を飲み込んで微笑む。

 この世で誰よりも大切な彼が白だと言うのなら、カラスだって純白になる。愛する人を否定して得られるものに、一体何の価値があると言うのだろう?


「ところで、私たちはどこへ向かっているの?」

「うーん、そうだな。君と出会った街はどうだい? 女神の使いが土産なんだ、不足はないだろう?」

「ふふ、里帰りね」


 軽やかに笑い、マルガリータは前を向いているレインナートに気づかれないように目を伏せる。

 レインナートは変わってしまった。変わったのは風貌ではなく、中身だ。世界を守るために頑張ってきた過去をかなぐり捨てて、彼はいま世界を壊そうとしている。

 だけど、変わらないものもあった。彼のマルガリータを気遣う優しさや、異形の爪で傷つけないように細心の注意を払って回されている手を見れば、誰だって理解できるはず。あの日、自分を救い出してくれた少年はまだここにいるのだと。


「ねえ、レイ」

「なんだい?」

「私、いつまでもあなたの味方でいるわ。死ぬまで、いいえ、死んで灰になっても。きっとよ」

「⋯⋯ありがとう、マルガリータ。君がそう言ってくれると心強いよ。なんてったって、もう──」


 もう、俺たちだけだから、と。

 レインナートが飲み込んだ言葉の先を思って、マルガリータは彼の肩に頭をもたれかけ、果てしない空の彼方を見下ろした。




 その数刻後。

 変わり果てた故郷の街中でマルガリータは、レインナートがどこからか調達してきてくれたローブのフードを深く被って歩いていた。深みのある濃い紫のローブはマルガリータの瞳の色と同じで、もしかしたらわざわざ探してくれたのかしら、なんて少女めいた期待にどうしようもなく浮き足が立つ。


 マルガリータの生まれ育った故郷は、別名「享楽の街」と呼ばれており、王国随一の大きな賭博場があることで有名だった。賭博は合法ではないが、あまりの大きさに歴代の国王達は誰も手を出せなかったのだ。治安もそれ相応に悪く、明るく演出された賭博場の周りでは荒んだ目をした人々が歩き回り、路地には客引きをしている娼婦が立ち並んでいた。

 その故郷の大通りは、つい先ほどまではワイバーンの来襲と、すっかりの風貌の変わってしまった勇者の攻撃に逃げ惑う人々で埋め尽くされていたのだが、絶え間なく続いた攻撃により人の数が減ったおかげで、今は耳を塞ぎたくなるほどの騒々しさはなく、程よく賑やかな悲鳴だけが満ちている。


 そんな中、マルガリータが足を向けたのは、自分がレインナートと出会った場所──つまり、かつて自分が働かされていた酒場だった。両親に売られたマルガリータが育ったその店には子供を守るようなまともな大人はおらず、常に貧困と搾取と暴力と酒で満たされていて、レインナートと出会わなければ、そして彼が自分を救ってくれなければ、それはマルガリータの知る世界の全てになっただろう。

 黴びた扉を押し開くと、中は死体と散らばった四肢で塗れている。予想していた景色なので、驚きはない。最初こそ彼らを踏みつけないよう気をつけて歩いていたマルガリータだったが、すぐにその困難さにどうでも良くなり、死体を踏み潰しながら歩き始める。

 その道中、一人の男の姿にマルガリータの足が止まる。酒場のテーブルに上半身を突っ伏し、下半身を床に転がしている男は、まだ10歳にも満たなかったマルガリータを部屋に引き摺り込んだ男だった。


 それを見て、マルガリータの頭にレインナートの声が蘇る。


『苦しめてから殺した方が良いかい?』


 この街の地面に足をつけるよりも早く与えられた問いに、マルガリータはややあってから首を横に振った。そんなに時間をかけて丁寧に殺す必要はない。何故なら──


「ただの虫に、そんな価値はないから⋯⋯」


 己の返答を繰り返し、マルガリータは冷めた目で酒場に転がる死体を眺める。

 そのどれもが、マルガリータを傷つけ、嬲り、嘲り、壊した男の顔で、けれど彼らは今、もうマルガリータを髪の毛一本傷つけることができない。

 男が死んで初めて、マルガリータは彼らを一人の人間として慈しむことができた。だからこそ、今まで自分に群がってきた男達を殺めた時は薔薇を手向けとして残してきたのだ。


「でも、残念。ただの虫に手向ける薔薇はないわね」


 ふっと笑って、マルガリータは男の死体を一つ、また一つと踏みつけて再び歩き出す。

 この店を出たら、今度こそ、ここでの過去を忘れよう。そう決めて、マルガリータは店の奥にある棚をゆっくりと引く。裏口は隠し扉になっており、一部の常連と店主、それからここで働いていた女達だけが密かにそのことを知っていた。

 裏口から外に出ると、血と肉の焼ける臭いの混じった乾いた空気がフードを揺らす。それを軽く押さえながら、マルガリータは周囲を見渡し、近くに捨て置かれた樽の後ろに向かって声をかける。


「ねえ、そこにいるんでしょう? 怖がらなくても大丈夫、私よ、マルガリータよ」

「⋯⋯ッ、マルガリータ様⋯⋯!? ど、どうしてこんなところに!?」


 樽の後ろから飛び出してきた女は、桃色の髪を振りかざし、真っ青な唇を震わせる。

 きっと酒場の中の人々が死ぬ瞬間を聞いていたか、目にしていたのだろう。すっかり怯え切った女の背をあやすように撫で、マルガリータは彼女の名を呼ぶ。


「イライザ」


 目尻に涙を浮かべた彼女は、普段の気丈な様子からは想像できないほど震え上がっており、マルガリータに縋りついてくる。


「わ、わたし⋯⋯私、ごめんなさい! 聖都もあんな事になっちゃって、せ、せっかくマルガリータ様が連れ出してくれたのにっ!」

「ここには私たちしかいないから、そんな畏まった呼び方をしないでちょうだい。ほら、涙を拭いて? 可愛い顔が台無しよ?」


 ハンカチを差し出しながら、マルガリータはイライザの肩を抱き寄せる。


 イライザは同郷の後輩──すなわち、この劣悪な酒場で生き延びた同志であり、マルガリータとは友人とも言える間柄だった。強気で気位高い彼女は、そういった女を屈服させたがる男たちに人気があり、いつも生傷が絶えなかったのをよく覚えている。早々に諦めて従順に成り下がったマルガリータとは正反対で、最初はあまり気が合わなかったけれど、マルガリータが踊りを、彼女が楽器の演奏を覚えてからは、共に芸を披露することも多かったために妙な信頼関係が芽生えたものだ。

 そんな彼女は存外に情に厚く、レインナートがマルガリータを連れ出した時、嫉妬で引き止めようとする他の女たちと違い、諦めの滲んだ笑顔で送り出してくれた。だから、マルガリータも彼女を連れ出したのだ。大司教に魔術を使い、イライザを姪だと思い込ませて、彼女に良い暮らしを与えようとした。

 それがまさか、大司教が姪を思うあまりに暴走し、聖女のふりをさせるようにまでなるとは思わなかったけれど。


「ああ、泣き止んでちょうだい。本当に、本当に大丈夫なのよ。この街を襲っている者が私達を傷つける事はないわ、本当よ」

「そっ、そんなの、うぅっ、そんなの、信じられな──」

「あれ? まだ生き残りがいたのかい?」


 彼女を泣き止ませようと言葉を紡いでいたマルガリータ、そして顔を歪めたイライザの前に、レインナートがどこからともなく降り立つ。

 イライザに向けて躊躇なく攻撃を放とうとした彼に、マルガリータは「待って!」と声を上げる。


「レイ、悪いけれど見逃してくれないかしら。彼女、大司教の姪なの」

「姪? ⋯⋯ああ! 君がそういうことにした子か! やあ、元気にしていたかい?」

「ひ、ひぇ⋯⋯」

「イライザ、怖がなくて大丈夫よ。レイはあなたを殺さないわ」

「レイ⋯⋯って、えっ、それじゃあ⋯⋯」


 マルガリータが勇者をなんと呼んでいるか知っている彼女は、答えに辿り着いてますます顔を青くする。

 一方のレインナートは既に彼女に興味を無くしたようで、廃墟と化した街を見て「いい天気だなぁ」などと呟き、マルガリータに笑いかけていて。二人の感情の温度差に、マルガリータは苦笑せざるを得ない。


「さあ、マルガリータ。そろそろ次の場所へ向かおうじゃないか。まだまだ俺たちを必要としている場所が、世界には沢山あるんだから」

「⋯⋯ええ、分かったわ」

「ま、待って、マルガリータ! どこへ行くっていうの? 一体、何をするつもりなの⋯⋯?」


 一歩、怯えたように距離を取ったイライザに、マルガリータは少し寂しい気持ちになる。

 だけれど、これが自分の選んだ道なのだから覚悟はしていたことだ。フードを外し、赤い巻き毛を晒したマルガリータは、イライザに微笑み別れを告げる。


「イライザ、どうしてあなたがこの場所に帰って来ていたのか分からないけれど、こんな街に私達はもう囚われる必要はないわ。私達は自由なのよ、そうでしょう?」

「ま、マルガリータ⋯⋯?」

「⋯⋯さよなら、私の大切な友達。元気でいてちょうだいね」


 そう言って、マルガリータは彼女に背を向けると、レインナートの手を取って空へと舞い上がった。

 その様を呆然と見送るしかないイライザの姿はあっという間に見えなくなり、再び視界が空の色だけで満たされる。自分が生まれ育ち、虐げられ、そして勇者に救われた街が遠くなるのをマルガリータがなんとも言えない気持ちで見ていると、ふいにレインナートが「そういえば」と呟く。


「マルガリータ、喉は渇いてないかい? さっき調達してきたから、新鮮だよ」

「そうね、少し貰おうかしら。あなたは?」

「俺は平気だよ」


 遠くの方を見つめながら答えたレインナートの姿に、もしかしたら彼はもう、水を飲んだり食事をしなくても生きられるのかもしれないと思う。

 マルガリータは彼から水の入った容器を受け取り、蓋を開けて水を口に含む。


 蓋を開ける時、一瞬だけ、水面に映る自分の顔が別人のように見えたのは、きっと気のせいだと自分に言い聞かせながら。



◇◆◇



「これはこれは⋯⋯愉快な事になっていますわねぇ」


 水がたっぷり入った大釜から一歩離れたエリザベスは、くすくすと笑いながら呟いた。大釜には享楽の街の様子や、レインナート達が見ている空の様子が映し出されている。勇者が街で水を調達してくれたおかげで、今や彼らの動向を把握することがこんなにも容易い。


 それにしても、確かにアリソンとラズには期待していたが、まさかここまで引っ掻き回してくれるとは!

 かつて人々から英雄として崇められ、魔人を見つけては嬲って殺していた勇者が、今では人間に対して同じことをしている。爪を剥ぎ、両腕両足を切り落とし、腹を掻っ捌いて臓器の位置を確かめて。魔人を襲った恐怖が、今は等しく人間達に与えられているのだと思うと、舌なめずりの一つもしたくなるというものだ。


「これなら、わたくし達が手出しをせずとも勝手に滅んでしまいそうですわね? まあ、そんなことはあの子たちが許さないでしょうから、もう一波乱あるのかもしれませんけれど」


 軽く手をかざすと、大釜の中に新たな景色が映り込む。魔界と人間界を繋ぐ門の前に倒れている、アリソンとラズの姿だ。

 大釜の中に手を差し入れると、ぐるりと視界が回り、先ほどまで水面に映っていた景色が目の前に現れる。

 意識を失くしているアリソンの頬に手を伸ばして、エリザベスは微笑む。


「お帰りなさい、わたくしの──」


 駒、あるいは鍵。

 愛しい子を愛撫するような手つきで頬を撫でながら、エリザベスは静かに囁くのだった。

 


最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

イライザの正体をようやく回収できました。序盤から色々と伏線を張ってきましたが、ようやく回収できそうです。次回以降も回収が続くと思うので、良かったら引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。


次回更新日:6/10予定

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ