042 運命の日
どんなに悩んでいても朝は来る。
何度目かの王都で迎える朝暘に、アリソンは大きく両手を伸ばして伸びをし、隣で寝ていたラズを見下ろす。ベッドは二つあるのに、昨夜はなんとなしに同じベッドで寝てしまったのである。まあそもそも野宿をする時も隣なのだし、村でも家族で固まって寝ていたのでアリソン自身に抵抗はないが、ラズも共寝を許容するのは意外だった。
さて、そんなラズはいつもならばアリソンよりも早く目覚めている筈なのだが、今日はなかなか起きてこない。思い切って肩を数度揺さぶると、彼女はようやく長い睫毛をパチパチと瞬かせて目を開ける。
「おはようございます、ラズ。昨日はよく眠れたんですね」
「⋯⋯まあ、程々にね」
ふあ、と小さくあくびをした彼女が起き上がるのを見届けて、アリソンは二人分の着替えをクローゼットから出す。背中合わせに着替え、姿見の前で順番に格好を整えれば朝の準備は完璧──なのだが。
「あれ、ラズ? どうしたんですか?」
いつもならテキパキと効率よく動いている彼女が、今日はまだベッドに座り込んだままぼうっとしていた。
何かおかしい、と気づいたアリソンはラズの顔をそっと横から覗き込む。
「⋯⋯悪いわね。少し、体調が優れないみたいだわ」
「えっ⋯⋯だ、大丈夫ですか!? まさかこの前の毒が⋯⋯!?」
「いえ、それとは関係ないと思うわ。身体が怠いだけで、大したことはないし」
「本当ですか? もしかして旅の疲れが出たとか、それとも風邪? あっ、熱は⋯⋯!?」
「ちょ、近いわよ! もう、そんなに心配することじゃないから落ち着きなさいって⋯⋯声が響くのよ」
手の甲をラズの額に当てるが、よく分からない。いっそ自分の額を当てようと顔を近づけようとすると、何故か慌てた様子のラズに手で遮られる。
しかし、声が響くというのは確かにラズの言う通りだろう。病人になんてことを、とアリソンは内心で反省しつつも、ラズの様子を注意深く見つめる。
何せ彼女は、よく隠し事をするのだ。セネカの故郷で悪夢に苛まれた時も、思い返せばその前日から様子が少しおかしかったのに、体調が悪いことをアリソンには言ってくれなかった。そのことを言えば、「言ったところでどうにかなるものではない」と言われてしまいそうだが、せめてもっと優しくしたのに、とアリソンは思う。
とにかく、そんな風に自分の不調を隠すようなラズが明かしたのだ。自己申告よりも酷い状態である可能性が高いはず。
「ラズ、体調のことで嘘はなしです。どこが痛いとか気持ち悪いとかありますか?」
「さっきも言ったでしょ。少し身体が怠いだけよ⋯⋯しばらく休めば治ると思うけど、でも今日はお妃様に呼ばれてるから──」
「他には? 他に具合が悪いところはありますか?」
「⋯⋯少し肌寒いかしら」
目を逸らしたラズに、アリソンは布団を肩あたりまでかける。ラズも文句は言わずに、じっとされるがままになっていて──ああ、これは本当に具合が悪いんだなとアリソンは思う。元気な時なら「子供じゃないんだから」などと、何かしら言い返しそうなものなのに。
「なら、今日の王妃様との面会は無しにしてもらって⋯⋯」
「そんなわけにはいかないわよ。お妃様に呼ばれておいてそれを蹴るなんて出来ないわ。なんなら、王家の命令に逆らった反逆罪を押し付けられるかもしれないのよ?」
「ええっ!? ぐ、具合が悪いから別の日に変えてもらいたいだけなのに、そんな大事になるんですか!?」
「なる可能性は充分にあるわ。それに、王宮にはレインナートがいるんだから。彼が国王やお后様の耳元で何か言おうものなら⋯⋯後は分かるでしょ?」
顔を顰めたラズは、心なしかいつもより肌の色が白く見える。きっと顔色が悪いのだ。それでも、なんとかベッドから降りようとしている。
その姿に、アリソンは決意を固めた。
「⋯⋯分かりました。なら、私が行きます。だからラズは部屋でゆっくり休んで、体調を治してください」
「なっ⋯⋯駄目よ、あたしも行くわ! 呼ばれたのはあたし達二人なのに、あなた一人で行かせたら何を言われるか⋯⋯!」
「大丈夫です、ちゃんとラズは具合が悪いから休んでもらってますって言えば、王妃様もきっと分かってくれると思いますから。それよりもラズの方が心配です。癒し手の人を呼んでもらいましょうか?」
「そこまでしてもらわなくても平気よ。⋯⋯こんなことで嘘なんかつかないわよ」
困ったように、それでいて勝気そうに微笑んだラズを、アリソンはじっと見つめる。
逸らされることのない蒼い瞳に、嘘はないように思えた。
「じゃあ、そうしましょう。食欲はありますか? 何なら食べれそうですか?」
気を取り直して尋ねたアリソンに、ラズは「過保護ねえ」と苦笑した。
そして朝食の後、静かに響いたノックの音にアリソンは顔を上げ、ラズはベッド脇に座っていたアリソンの手を解いてその背中を押すように微笑む。
アリソンが扉を開けると、そこには昨日部屋を訪れたメイドのケリィと、兜を被った護衛の騎士が立っていた。
彼らにラズの体調が優れないため自分一人が行く形になると告げると、アリソンは振り返ってラズの元へ挨拶のために駆け寄る。
「それじゃあ、行ってきますね」
「ええ。失礼のないようにね」
「が、頑張ります⋯⋯」
ラズの言葉に気を引き締め直したアリソンに、彼女が「これもついでに持っていきなさい」と声を顰め、何かをアリソンの手に握らせてくる。
「これって⋯⋯マッチ箱、ですか?」
「そうよ。まさか、お妃様の前にフランベルジュをぶら下げていくわけにもいかないでしょ? あなたならこれで炎を操れるわけだし。何が起こるか分からないんだから、一応肌身離さず持っていなさいよ」
「ありがとうございます。ラズって意外と心配性ですよね」
「一言余計だわ」
「じゃあ、意外と優しい?」
「⋯⋯言うようになったじゃないの」
口元を引き攣らせたラズに苦笑しながら、アリソンは手の中の小さなマッチ箱を大切に仕舞う。
「しっかり休んでてくださいね。またあとで!」
「ええ。気をつけて」
扉の向こうへと駆け出していくアリソンを見送ると、ラズは表情を消し、ふっと息を吐くと天井を見上げる。
時間にすれば、それは瞬きにも満たない刹那。けれどラズにとっては、永遠にも思える時間だった。
そしてベッドから降りたラズは、真っ直ぐに、迷いなく、部屋に残されたフランベルジュを手に取る。アリソンがいれば、先ほどまでの気だるげな様子と打って変わったそのしっかりした足取りに驚いただろう。けれど彼女はここにいない。ここにいるのはラズ一人で、だからサイドテーブルに置かれたコップに向かって独り言だって言える。
「エリザベス、聞こえてるわよね」
瞬間、コップの中に微かに残った液体の水面がぐにゃりと歪み、今この場にはいない魔界の様子と、グラスをかけた淑女の姿をした魔人エリザベスの姿が映し出される。
『あらあら、随分狭いところに呼び出すんですのね。それに、随分と浮かない顔ですわ。彼が悲しみましてよ?』
「こんなくだらないことであの人の名前を出さないで。⋯⋯ねえ、アンタがなんでこんなものをアリソンに渡したのか知らないし、知りたくもないけど──別に使い手があたしでも構わないのよね?」
『あらまあ、わたくしからの厚意をこんなもの呼ばわりだなんて! わたくしはただ、あなた方の力になりたかっただけですのよ? まあもちろん、誰が使い手であっても全く構いませんけれど』
「そう。なら、交渉成立ね」
『ええ。そう言って差し支えないと思いましてよ』
厚意だなんて、白々しいことをよくも言えるものだと思う。
だが、構うものか。この女にはこの女の思惑があり、ラズにはラズの目的がある。敵が一致している以上、利用し合えば良いだけだ。
決意を新たにしてフランベルジュを握り直すと、エリザベスは淑女の顔を崩し、「でも」と前置きして不可解そうな表情で首を傾げる。
『貴女がわたくしの厚意を分かった上で、わざわざフランベルジュをあの子から横取り意味が分かりませんわ。それとも、それも人間の言うところの"愛"ですの?』
「──愛? ⋯⋯ふふっ、ふふふふっ、あはははははっ! 案外ロマンチストなのね、エリザベス? よりにもよって愛だなんて! そんなもの、もうあたしの中にはとっくに残ってないわよ!」
『そうですの? でも、貴女の行動はまるで⋯⋯』
何かを語りかけたエリザベスは、けれど途中で気が変わったのか言葉を切ると、「やっぱりなんでもありませんわ」と言って嫋やかに微笑む。
『用事はそれだけですの?』
「ええ。悪いわね、アンタの事情も聞かずに」
『フフッ、わたくしはいつでも歓迎でしてよ? それでは、アリソンにもよろしくお伝えくださいませ』
優雅に一礼して水面からエリザベスの姿は消え去り、再び静寂が部屋に戻る。
鞘から少しだけ抜いた刀身に映る自分の顔を見つめながらラズは呟く。
「──起きなさい、フランベルジュ」
冷たく、感情を排した声で紡がれたその呼びかけに応えるように、炎の名を冠する剣は光り輝く炎を纏った。
◇◆◇
「こちらです。どうぞお入りください」
ケリィに促されるまま、部屋の中に足を踏み入れたアリソンは、「わあっ」と感嘆の息と共に足を止める。
ラズと別れて部屋を出たアリソンが、メイドのケリィと見知らぬ衛兵に連れられ長い廊下を歩いた末にたどり着いた王妃の部屋は、その身分に足るだけの華やかさを保ちながらも、修道院のような洗練された質素さを兼ね揃えており、この部屋が豪華でありながらも決して品を損なうことがないようにと考え抜かれたことが見て取れる。さらには、扉を開けた瞬間ふわりと身を包み込んだ甘い花の香りも程よい濃さで、人を不快にさせないようにという気遣いも感じ取れた。
「よく来てくれましたね、アリスさん」
自分たちに与えられている部屋や晩餐会が行われた広間とも違う部屋の様子に、思わず見惚れてしまっていたアリソンを現実に引き戻したのは今にも消え入りそうなほど儚げな声だった。部屋の西側に置かれた椅子に座った女性は、その声から想像する通り、今にも折れそうなほどに細く、その身に纏った白いドレスに負けないほど白い肌をしている。
自分を「アリス」と、王都で使っている偽名で呼んだ彼女こそが今日己をここに招待した王妃なのだと理解したアリソンに、王妃が顔を傾け、長い金髪を垂らして微笑む。
「私はラスタ、この国の王妃です。もちろん、知っているとは思いますけれど⋯⋯それより、今日は私の我儘で呼びつけてすみません。⋯⋯陛下も」
「いえっ、そんなことは⋯⋯えっ、陛下⋯⋯?」
慌てて佇まいを正したアリソンは、王妃の視線を追って後ろを振り返る。そこにいたのは、今にもため息を吐き出しそうなケリィと、その隣で兜を脱ぐ衛兵──もとい、国王の姿だった。
「えええっ!? あの衛兵さんって、王様だったんですか!?」
「うむ、騙すような真似をしてすまなかった。しかし、どこで勇者の息がかかった者が見ているか分からなかったのでな」
勇者──その言葉に、アリソンが顔を険しくすると、何故か国王夫妻はホッとしたような表情で顔を見合わせた。
ますますどういうことか分からないアリソンを王妃が手招きし、自分の正面に座らせる。国王は王妃の隣に腰掛け、そして彼らの後ろにケリィが影のように控えると、王妃が口を開く。
「単刀直入に言います。アリスさん、どうか私たちと共に勇者レインナートと戦ってくれませんか?」
◇◆◇
「⋯⋯驚いた。こんなところにもあったなんて」
アリソンが王妃の部屋で話をしている頃、ラズは図書庫の中で隠し扉を前にそう呟いていた。
かつてレインナートから、王宮には様々な隠し部屋があり、それらには代々の国王だけが知るべき事がひっそりと保管されていると聞かされていたが、当代の国王はこの部屋に興味はなかったらしい。埃の被った隠し部屋の中、意味ありげに置かれた古めかしい本には長い間触れられた形跡がなかった。
ひとしきり物色したラズは部屋を出て、隠し扉を元のように閉めておく。そもそも国王はこの部屋の存在を知っているのだろうか、なんて考えが浮かぶ。
「⋯⋯から、頼むと言っているだろう!?」
ふいに耳に入った人の話声に思わず柱の影に隠れると、ラズから離れた場所に、帽子を被った中年の男の姿があった。
上質な皮の上着から見るに、その男はこそこ裕福な成り立ちをしてはいるものの、着こなしにはどこか品の良さが欠けている。貴族であればそのような着こなしをするはずがないので、恐らく成金か、あるいは貴族であったとしても下位の者だろう。
だが、よく見るとその男は一人ではなく、誰かと言い争っているようだった。ラズは気配を消したまま、物陰に隠れながらそっと近づいていく。朧げながらも諍いの相手の面影が見え始めた頃、彼らの会話も明確に耳に届くようになってくる。
「⋯⋯ッだから、娘を返してくれ!」
「返す? そんな風に物みたいに言うのは関心しないな。彼女もひとりの人間だろう?」
──レインナートだ。
裕福な中年男が言い争っているのは、橙色の髪に緑の目をした青年。紛うことなく、勇者その人だった。
まさかの好機に剣の柄を握る手に力がこもるが、冷静に、冷静に、と心臓が早鐘を打つ。
不穏そうな会話の成り行きに聞き耳を立てながら、ラズは少しずつ立ち位置をずらし、奇襲をかけられるポジションを探る。
「っ、どの口が⋯⋯! 私の協力のおかげで、あなたは魔人を殺すことができたんじゃないか! それなのに何故、こんな仕打ちを!」
「君の協力には感謝しているよ? だけどそれはお互い様じゃあないか。俺は魔人を根絶やしにしたい、君は名誉と金と、そして過去の汚点である故郷を消し去る術を求めていた。君の希望を叶えてあげたのに、そんな風に詰られる謂れはないな」
「話をすり替えないでくれ! 私は娘の話をしているんだ!!」
「⋯⋯トマス、君がこんなに話の分からない人間だとは思わなかったよ。何度も説明してるじゃないか、君の娘は自分の意思で俺のところに来たんだよ。彼女だって親離れしていい年齢だろう? それに、俺だって血も涙もない人間じゃない。彼女には少しやってもらうことがあるだけで、それが終わったらいつだって返してあげるよ。彼女が俺から離れたければね」
いつでも奇襲を仕掛けられる位置に着くのと、レインナートが中年男の名前を口にするのは同時だった。
情報を脳内で処理しながら、ラズは武器を構える準備をする。
「⋯⋯っ、頼むからやめてくれ、いや、やめて下さい⋯⋯! 財産でもなんでも、私にできることならしますから! だから娘は⋯⋯!」
「懇願するのはやめてくれよ、俺が何か酷いことをしてるみたいだろう? 俺はただ、君の娘の思いに応えただけだし、何ら彼女に強制していないよ。今やってもらっていることだって、俺の頼みを彼女が引き受けただけだ。これから先、彼女が君の元に帰らないとしても、それだって俺が脅迫したことなんかじゃない。彼女が俺の言葉に頷いただけだよ」
「強制していないだと⋯⋯? 魅了で意のままにしておいてよく言う! いいから娘を返してくれ、もうたくさんだ!!」
「⋯⋯残念だよ、トマス。君がこんなにも分からずやだと思わなかったよ」
あっ、と思う暇もなく、レインナートの右手に魔力が集う。トマスに向けて魔術を放つため、レインナートがほんの一瞬無防備になる。
その瞬間、ラズは本と本の間の隙間に武器を滑り込ませ、レインナートの心臓を貫いた。
◇◆◇
「単刀直入に言います。アリスさん、どうか私たちと共に勇者レインナートと戦ってくれませんか?」
王妃の言葉に、アリソンは息を呑む。反射的に手に力がこもり、爪が肌に食い込んで皮膚を裂く。
「ラスタ、いきなりそれは些か急すぎるのではないかね。ほら、彼女も困っておる」
「陛下⋯⋯そうですね。すみません、アリスさん」
「い、いえ。⋯⋯あの、詳しいことを聞かせてくれませんか?」
しゅんとした様子の王妃にアリソンが慌てて首を振りながら続きを促す言葉をかけると、王妃は少しはにかむ。
フィリップや、その姉や兄といった子供の母であるのに、王妃の笑みはどこか少女めいていて可愛らしい。王妃の肩を抱く国王の視線が、以前晩餐会で見た時よりも柔らかいのもそのせいかもしれない。
国王の視線に頷いた王妃は、「実は」と切り出す。
「昨日の夜、勇者が私の部屋を訪ねたのです」
「えっ、夜に?」
「そうだ。女性の部屋を夜遅くに男が訪ねるのは礼儀がなっていないが、あの男はさらに──」
「陛下、落ち着いてください。私がお話しすると、今朝話し合って決めたではありませんか。⋯⋯とにかく、そう、夜更けに私の部屋を訪ねた勇者は、しばらく話をすると、私の反応に段々と不可解な顔を浮かべるようになり、最後には不機嫌さを隠すことなく部屋を出て行ったのです」
「それって、もしかして⋯⋯」
王妃の話からは勇者の目的が見えてこないが、アリソンには思い当たることがあった。
それは、勇者が持つという異性を意のままにする魅了の力、そして以前フィリップに渡した首飾り。精神に干渉を及ぼすものを阻害するという首飾りは、聖都で聖女のふりをしていた少女が持っていたもので、母親を心配するフィリップにアリソンが渡したものだ。
アリソンが不安げに言葉を切ると、王妃と国王は重々しく頷く。
「うむ。其方が考えていることで間違いないと私も思っている。勇者は⋯⋯あの男は、我が妻ラスタを魅了で己のものにしようとしたのだ。それが上手くいかなかったから、不機嫌になったのだろう」
「陛下の仰る通りです。私は勇者と話している間、首飾りが熱を持つのが分かりました。⋯⋯アリスさんが息子を通じてこの首飾りを下さらなければ、きっと私は今頃、あの男の思いのままに行動する人形になっていたことでしょう」
「忌々しい男です⋯⋯! 勇者でありながら、恩も忘れてラスタ様や陛下にこのような裏切りを⋯⋯!!」
国王と王妃に続いて、今まで影のようにじっと立っていたケリィまでもが怒りを露わにして拳を振るわせる。侍女であるケリィが発言したことに対して国王はやや眉を顰めたが、王妃はケリィの手を慰めるように自分の両手で包み込んだ。
視線に気がついた国王は咳払いをすると王妃の手を解かせて、アリソンに向き直る。
「実のところ、私達は勇者が何か⋯⋯よからぬことを考えているのではないかと薄々感じてはいたのだ。それが昨夜、確信に変わったのだ」
「ま、待ってください! だったらどうして、フィリップ王子の話を聞いてあげなかったんですか?」
あの夜、屋根の上でフィリップと言葉を交わした時、彼は「両親は自分の話を聞いてくれない」と涙ながらに訴えていた。姉がおかしくなり、兄が死んだのは勇者と関係があるのに誰も信じてくれない、と。
もしも国王が元から勇者を怪しんでいたのならば、息子の言葉にも耳を傾けるはずだ。
アリソンの疑問に、王妃が悲しげに目を伏せる。代わりに答えたのは、気まずげに顎髭を触った国王だった。
「それは、我々にも確信が持てなかったからだ。加えて、あの男は勇者だ。魔人に打ち勝つことのできる聖剣フォルティスをこの世で唯一扱える栄光の存在。そんな人間を証拠もなく、悪だと断じたところでどうにもならない。だから⋯⋯仕方なく、私は勇者が世界を救うまで待つ気でいたのだ」
「そのためにも、フィリップの言葉を真剣に取り合うわけにはいかなかったのです。どこで勇者の手に落ちた女性が聞いているか分からないものですから⋯⋯」
「じゃあ、ケリィさんは大丈夫なんですか?」
王妃の後ろに控えているケリィに視線を向けると、王妃が「もちろんです」と答える。
「彼女は1日のほぼ全てを私と共にいますから、大丈夫です。私の目が黒いうちは、手出しなどさせません」
「そうですか⋯⋯えっと、疑ってすみません」
「いえ、気になるのも当然だと思います。彼女も気にしていませんよ、そうでしょう?」
振り返ってケリィを見やった王妃の視線に、ケリィは黙って頷く。
アリソンは王室や貴族の礼儀はラズから教わった最低限のことしか分からないが、先ほどケリィが発言した時の国王の反応を見るに、もしかしたら主人の許可がないと使用人は勝手に喋ってはいけないのかもしれない。ラズも昔、屋敷に勤めていた時には言いたいことを言えず、我慢してやり過ごした経験があるのだろうか。
それはともかくとして、フィリップの話をまともに取り合おうとしなかったこと以外にも、アリソンにはもうひとつ疑問があった。
「でもそれなら、どうして今になって勇者と戦おうと思ったんですか?」
レインナートを疑い、それでも彼を問いただすことも咎めることもできない理由が「レインナートが勇者である」という事であるのならば、魔人が健在である今、彼らが勇者と戦うことはできないはずだ。
当然の疑問に、国王は声を低くして答えた。
「⋯⋯もう勇者が不要だからだ」
「え⋯⋯勇者が不要って⋯⋯」
「聖剣フォルティスには魔人の再生能力を無効化し、浄化して灰にする力があると言われています。これは知っていますよね?」
王妃の説明に、アリソンは頷く。
知っているも何もアリソンはこの目で見たことがある。レインナートによって斬られたイグニスの身体が灰になる様を。
「聖剣は選ばれし者にしか扱うことができない。そのために、私達は耐え続けてきました。勇者が女性を魅了で弄んでいることやあの踊り子の女性が人を殺していること、勇者がフィリップの兄であるダグラスを殺したことも。全て全て、耐えてきた。⋯⋯けれどもし、誰にでも扱える聖剣を作ることができるとしたら?」
「まさか⋯⋯作れるんですか?」
「陛下は密かに騎士を派遣し、探し求めてきました。聖剣フォルティスに使われているのと同じ、浄化の力を持つ伝説の鉱石──オリハルコンと、そのオリハルコンを武器に出来る鍛冶屋を。そしてついに、二つの要素が我々の手中に揃ったのです」
「オリハルコンの武器を量産できるようになれば、魔人を倒せるのは勇者だけではなくなるのだ。我々はもう、あの男の顔色を伺う必要はない。我々の力だけで魔人を葬り、平和を取り戻し、息子の仇も討ってやれる⋯⋯」
声を震わせ、力強く拳を握った国王。その隣で寄り添うように、静かに顔を上げた王妃がアリソンを見つめる。
「ですからどうか、アリスさん。あなたには、レインナートを討ち果たし、真の英雄として世界を救って欲しいのです」
「騎士団長であり、レインナートの仲間であったドワイトを倒した其方は、今この国の誰よりも強いだろう。レインナートを討った暁には、新たな聖剣を其方に授け、其方こそが『真の勇者』であったと公表しよう」
夫妻に手を握られ、アリソンの背中を冷や汗が伝う。
それはつまり──勇者を暗殺し、勇者が偽物でアリソンこそが本物であったという脚本に協力しろ、ということだ。
断ることなど許さないと言いたげな空気の中、アリソンはなんとか声を絞り出す。
「その⋯⋯あ、あまりに大きなお話で、驚いてて。少し、考えさせてくれませんか⋯⋯?」
「ああ、もちろんだとも! だが、我々が其方に期待しているのだと言うことを忘れないでもらいたい」
「近いうちに、良い返答が聞けることを願っています」
話はこれで終わりなのだろう。国王夫妻が立ち上がるのに合わせて、アリソンも慌てて席を立つ。
「そういえば、もう一人の方は?」
「あっ、えっと、具合が悪くて⋯⋯! すみません!」
「そうだったか。いやはや、顔を見ることができなくて残念だ。今日の話はぜひ彼女にも伝えてくれたまえ、アリス殿」
「は、はい⋯⋯」
二人に握られた手がようやく解かれ、アリソンは早鐘を打つ胸元を抑えるように手をやる。
魔人を殺せる新たな武器の量産に、勇者殺し──それほど長い時間を話し込んでいたわけでもないのに、なんて情報量の濃さだろう。
これは大変なことになった。早く部屋に帰ってラズに共有しないと。
逸る気持ちにつられて、アリソンは早足で扉の前まで歩いていく。
「ああ、そういえば⋯⋯勇者が連れていたあの娘、もしかしてあの娘も彼に魅了をかけられた被害者なのかもしれません。アリスさん、できることならどうか彼女のことも助けてあげてください」
「それはあの男の仲間ではないのか? 元踊り子だとかいう、マルガリータというあの巻き毛の⋯⋯」
それはもちろん──そう返事をしかけたアリソンを遮った国王の言葉に、王妃はやんわりと首を振る。
まだ話の続きがあるような雰囲気のため、アリソンはケリィが退室を促すように開いた扉の前で、中途半端に立ち尽くす形になってしまった。
「いいえ、彼女ではないのです。まだ幼さの残る、純粋そうな⋯⋯ドワイトの娘に少し似た眼差しをしていましたから」
「む? もしや、その少女は騎士団の鎧を身につけていなかったかね?」
「陛下もご存じなのですか?」
「うむ、御前試合で声をかけてきたのでな。確か⋯⋯ジョアンといったかね? ほら、あのトマスの娘の⋯⋯」
「ジョアン!?」
大きな声を出したアリソンを咎めるようにケリィや国王が訝しげに見つめてくるが、そんなことはどうでも良かった。
「いま⋯⋯いま、ジョアンって言いました?」
「あ、ああ⋯⋯言ったが、もしかして顔見知り──」
国王が肯定を返すのを聞いた瞬間、アリソンはなりふり構わず部屋を飛び出していた。後ろから誰かが何か言っている気がしたが、そんなものは耳に届かない。
アリソンは思い出す。ジョアンに会った時の、彼女とのやり取りを。
『パパが嘘をついて村を陥れたことはアタシが勇者様に告発して償わせる。それで、勇者様にドルフ村の汚名を返上してもらって──』
そんなことは意味がないとアリソンは止めた。けれどもし、彼女がそれを選んだのなら。正直で、正義感があって、そして勇者に憧れていた彼女が、勇者を信じて彼の元を訪れたのだとしたら。ドルフ村が魔人を匿ったというのは冤罪で勇者は間違っていたのだと、真正面から彼に突きつけたのならば。
「ジョアン⋯⋯!」
口を突いて出た声は自分でも心が冷えるぐらい、悲鳴じみていた。
◇◆◇
勇者は、貫かれた胸から溢れる血を目を見開いて見つめている。その背中越しに剣を引き抜いたラズは、本棚の隙間から今にも悲鳴をあげて逃げ出しそうなトマスと目が合う。
しかし、彼がそうするよりも早く、レインナートが笑った。
「はははっ、これはとんだサプライズだね。君から殺されに来てくれるなんて、嬉しいじゃないか。今日に限ってそんなに素直になってくれるなんて、困った女だね」
「⋯⋯常人ならとっくに死んでるはずだけど」
「うん? だって俺は勇者だからね。女神に愛されてるんだ、この程度じゃ死なないさ」
目の前で塞がっていく傷口に、ラズは口端を吊り上げる。
「女神の愛? そんなもの、まだ信じてるの?」
「⋯⋯何が言いたい?」
「本当はアンタだって分かってるはずよ。毒の効かない身体、すぐに治る傷口。ねえ、そんなのってまるでアンタが忌み嫌ってる魔人じゃないの」
「──話にならないな」
「なるでしょ。自分の仲間を魔人化させておいて、分からないなんて言わせないわよ。アンタ、まだ人間のつもりなの?」
ラズの言葉に、レインナートは初めて心底痛いところを突かれた顔をし、けれどすぐさま温和な笑顔が貼り付く。
「ば、化け物⋯⋯! 娘にかけた魅了を解け!!」
「ははっ。あれだけ媚を売っておいて、思い通りにならないと見れば罵倒か。本当になんて愚かで哀れなんだろうね。そうは思わないかい?」
錯乱気味のトマスが近くにあった本をレインナートに向けて放り投げるが、彼はそれを難なく避ける。
そして、自分を睨みつけるラズとトマスに爽やかに笑って言う。
「君たちと遊んでやりたいのは山々なんだけど、俺はこれからショーを見にいくから付き合えないんだ。ああ、代わりに君たちも一緒にどうだい?」
「⋯⋯へえ、どんなショーなのかしら?」
ただの軽口、挑発の類い。
そう思って切り捨てるには嫌な予感がして、ラズは慎重に移動しながら問いかけた。その様が可笑しかったのか、レインナートは楽しくて仕方がないと言いたげな顔で高らかに告げる。
「それはもう、最高のショーさ。親友同士の村娘ふたりの殺戮ショーだ!」
◇◆◇
廊下を走り続けるうちに、気づけばアリソンは中庭に面した道へと出ていた。あの夜、屋根の上に一人座り込むフィリップを見つけた場所である。
やけに静かで、人の声どころか鳥のさえずりさえも不自然なまでにかき消えたそこに、ひとつの人影があった。
平均ぐらいの背丈に、馬の尻尾のように高い位置に結い上げられた茶髪。こちらに背中を向けた彼女を、アリソンはかつて誰よりも知っていたはずなのに、今はまるで知らない人間のように見える。
「⋯⋯ジョアン」
呼びかけた声は迷子のようで、彼女と村中を駆け回った頃のようだった。息を整える暇もなく声をかけたために、声と共に漏れる息が煩わしい。
ゆっくりと振り返ったジョアンの瞳は、本来の柘榴色とは程遠い、濁った桃色をしていた。
虚で、焦点の合わない目に、アリソンは息を止める。
どうして自分が気づけばこの中庭に辿り着いていたのか、そしてこの中庭の異常なまでの静けさのわけがようやく分かった。
ジョアンの全身から放たれる、強烈な威圧感。
こんなものを浴びれば、どんなに感覚の鈍い人間だって本能的に離れたくなるし、逆にジョアンを探していたアリソンはこの威圧感に導かれて彼女を見つけることができたのだ。
「ねえ、林の中で騎士ごっこをしたの、覚えてる? 誰が最初に騎士に相応しい剣を見つけられるか勝負だって言って、誰が一番かっこいい木の枝を見つけられるか探したよね。あの時はまだルノーも少しなら走れたから、三人で一緒になって泥だらけになって⋯⋯お母さんたちに怒られてさ」
何を言ってるんだろう、と思う。同時に、今言わなければならない、とも思う。
遠い日の思い出にジョアンが僅かに反応を示したように見えて、けれど、見間違いだと思うほどすぐに混濁した桃花の中にかき消される。
ひたひたと、こちらに近づくジョアンは腰に差した二対の剣に手をかけていた。歩みを止めることなく、一抹の迷いすらなく、アリソンを見据えるその瞳からは感情が伺えない。
「ジョアン、ねえ、覚えてるでしょう?」
投げかけた声に応えるものは、ただ引き抜かれた刃の金属音だけだった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
もし面白かったら、感想や評価など頂けると励みになります。
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