040 月下の語らい
「こんばんは、こんなところで何をしてるんですか?」
「ッうわぁあ!?」
花が規則正しく咲かされた庭園を見渡せる屋根の上、近づいたアリソンが声をかけると、膝を抱えていた人影は大袈裟なぐらいに仰反った。
その人影は思ったよりも小さな背格好をしていて、どうやら子供であるらしい。月明かりに慣れてきたアリソンの目に、肩ぐらいまで伸びた金髪と、猫のように吊り目がちな薄紫の瞳、それから歳の割に豪奢でフリルや金の装飾がふんだんに使われた服が浮かび上がる。服装から推測するに、どこかの貴族の子供なのだろうか。
当の少年はのけぞったままの姿勢で大きく目を見開き、ぱくぱくと口を動かしている。そんなにのけぞっては危険だとアリソンが手を伸ばして引き戻すと、彼は「ひっ」と小さく息を呑む。
「こ、来ないでください! っていうか、ど、どうやってここに!?」
「えーっと、あっちの柱と、そっちの柱を蹴って登ってきました」
アリソンがそう言って差した先には、向かい合わせになった柱。つまり、助走をつけて地面を蹴って飛び、柱に足をつけたらその柱を蹴って向かいの柱へ、そして元の柱へ飛び、さらに⋯⋯ということを繰り返して屋根の上までやってきたのだと説明すると、少年はあんぐりと口を開け、それから感嘆とも呆れともつかないため息を吐き出す。
「はー、梯子もなしにそんな方法で来るなんて⋯⋯ああでもそっか、アリスさんはドワイト様と戦えるんだからそれぐらいのことは出来てもおかしくはないですよね。あーびっくりしたぁ⋯⋯」
「え? 私のこと知ってるんですか?」
アリソンの偽名を口にした少年に目を丸くすると、彼はやれやれと言いたげな顔でこちらを見遣る。
「⋯⋯それ本気で言ってるんですか? この城の中でアリスさんのことを知らない人はいないと思うんですが。それにボクは前にもあなたに会ってるし⋯⋯覚えてないんですか? ボクのこと、闘技場で助けてくれたんですよ?」
「えーと⋯⋯そうでしたっけ?」
残念ながら全く記憶にない。
首を捻ったアリソンに、少年はふっと自嘲気味に笑う。
「まあ、慣れてますけどね。ボク、影薄いので」
「⋯⋯? 別に普通の影だと思うけど」
「⋯⋯誰からもなかなか覚えてもらえない、気づいてもらえない、っていう比喩表現です。なので、本当に人より影が薄いっていう意味ではなくて」
「あ、そういうことだったんですね」
「そういうことだったんです」
少年の、若干呆れながらも教えてくれた解説にアリソンは相槌を打つ。
それっきり黙ってしまった少年に、もう話をする気はないのだろうと思ったアリソンは空を見上げる。ラズの髪の色みたいな漆黒に浮かぶ星々の煌めきは、幼い頃に村で見たものと同じはずなのに違って見えるのは、心境が違うからなのか。星と星を繋ぐと星座になるのだと、誰かから聞き齧った知識を得意顔で披露してくれた弟を思い出して、胸が暖かくて、でも痛くて。
黙って物思いに耽っていると、ふい に少年が「あの」と声を発した。
「どうして、ボクのことを助けてくれたんですか?」
「えっと⋯⋯」
「スミマセン、覚えてないのにこんなコト聞かれても困りますよね。ただ、どうしてだろう、ってずっと思ってて⋯⋯当てずっぽでもいいので、何か思いつくコトはないですか?」
「う、うーん⋯⋯」
なんとも子供らしい無茶振りだ、とアリソンは苦笑しつつ、腕を組んで考えてみる。
貴族の、なんだか大人びた子供。全く身に覚えはないが自分に助けられたという、この子供を助けるとしたら、それは──
「⋯⋯弟がいるから?」
「はい?」
「あ、えっと、私には弟がいるんですけど。弟はもう殺されて死んでしまったんですけど、あなたはあの子と同じぐらいの年頃だから、放っておけなかった⋯⋯のかも?」
実際の状況は覚えていないからなんとも言えないが、それらしい理由を挙げるとすればこれだろう。
自分でうんうんと頷きながら、アリソンは少年の様子を伺う。
誰かと重ねられたことに怒るだろうか、もっと良い理由を思いつけと言うだろうか──そんなアリソンの予想に反し、少年は泣きたいような笑いたいような不思議な表情をしていた。
「だ、大丈夫? ごめんね、えっと⋯⋯」
「違うんです、アリスさんのせいじゃなくて⋯⋯どうしよう、どこから話せば良いのか⋯⋯」
「ゆっくりでいいです、ゆっくりで」
素直に泣いてくれたのなら、弟にしてあげたのと同じように慰められる。けれど、そうではない相反する感情を浮かべている少年には、どうしてあげたら良いのか分からない。
わたわたと両手を上げて、結局アリソンは慰める方向に振り切ることにして、少年の肩を抱き寄せる。ラズの細さとも違う、子供の細さはどうしたって久しぶりで、感傷が顔を出す。
そしてそれと同時に、一つの直感が脳裏に浮かぶ。
「⋯⋯もしかしてあなたにも、兄弟がいるんですか?」
直感をそのまま舌に乗せたアリソンに、腕の中の少年は小さく首を振る。
「弟さんや妹さん? それともお兄ちゃん、お姉ちゃん?」
「ダグラス兄様とミルドレッド姉様がいます。ボクは末っ子なのです。でも、今は遠いところにいるから兄様と姉様には会えなくって」
「⋯⋯そう、なんですか」
その遠いところは物理的な距離だけを指しているわけではない気がして、アリソンは口をつぐむ。
これはきっと、ただ偶然、屋根の上に居合わせただけの他人が踏み込んでいい領域ではないはずだ。
しばらく沈黙が続いた後、落ち着きを取り戻した少年が「もう大丈夫です」とアリソンを軽く押す。
体を離すと、少年はぎゅっと自分の服の裾を握り、徐に顔を上げる。何かに怯えているような、緊張したその様子を気遣う言葉をアリソンが口にするよりも早く、少年が口を開く。
「結論から聞きます。アリスさんは勇者様のこと、どう思っていますか?」
風が止み、どこか遠くの方から虫の声が聞こえてくる。
かき消すものがない中で静かに響いた少年の問いに、心臓が嫌な音を立てて軋む。
勇者のことをどう思っているのか、なんて。両親と弟を殺し、イグニスを痛ぶってから殺し、村を焼き払った男だ、憎いに決まっている。許せないに決まっている。自分の全力を出しても勝てなかったあの夜の屈辱は瞼の裏に焼き付いて離れない。
けれどだからこそ、そんな煮えたぎる憎悪を露わにしてしまうわけにはいかなかった。誰もが勇者の裏の顔を知らない今は、そして誰もが彼の所業を信じてくれない今はまだ言うわけにいかない。
平静を装い少年の瞳を見た瞬間、アリソンは気づく。
少年は、怯えていた。
一瞬、自分が勇者に抱く感情が伝わってしまったのかと思ったが、違う。少年それは怒られる寸前の子供の顔だ。まるで悪戯を自白する時のような。怒られるかもしれないと怯えながら、それでも自分の過ちを認めるような。緊張した面持ちに、あれ、と思った。
もし少年が他の人々のように勇者を尊敬しているのなら、こんな顔でこんな質問をする必要はない。また、もしアリソンが勇者に向けている感情に気づいているのなら、怒られるのを恐れる必要なんてない。
もしかして、この子は。
この予想が正しいのかアリソンには分からない。ここにいるのは自分だけで、視線を交わして答えをもらうこともできなかった。だから、思ったように賭けてみるしかない。
「⋯⋯私は、ちょっと苦手かな。みんなには内緒ですけど」
そう答えた瞬間、少年は息を呑んで、そして安堵したように息を吐いた。
それを見てアリソンは確信する──この少年は、勇者を良く思っていない。
「もしかして、あなたも?」
「は、はい⋯⋯でも、これから話すことは内緒にするって約束してくれますか?」
「もちろん。私たちだけの内緒話にするって、約束します」
「⋯⋯ありがとうございます。さっき、ボクにはダグラス兄様とミルドレッド姉様がいるって話しましたよね? でも、二人とも勇者様と出会ってからおかしくなってしまったんです」
「おかしくなった?」
「はい⋯⋯みんな信じてくれなかったけど、でも、本当なんです! まず最初はミルドレッド姉様でした──」
そうして少年が語り出した話に、アリソンは耳を傾けた。
◇◆◇
時同じくして、アリソンが出て行った寝室では、ベッドで一人横になっているラズを一人のメイドが見下ろしていた。
数分前に忍足で部屋の中に入ってきたメイドは、アリソンとラズの身の回りの世話を言いつかっている人間ではない。従って、こんな夜更けにこの部屋を訪れる理由はないはずだった。
月明かりに照らされたメイドの顔には、隠しきれない恐怖が滲んでいる。これから自分が行うことを想像すると、ポケットで握った指先に留まらず、全身がガタガタと震え出してしまう。
それでも、為さねばならない。「あの人」との未来のために。
意を決したメイドは、ポケットから取り出した鋭いナイフを、ベッドの上自然な間隔で上下しているその胸へと突き立て──
「はぁい、こんばんは」
「ッきゃああ!?」
ドスン、と音を立ててベッドに転がったメイドは目を白黒させながらラズを見上げる。先ほどまで無防備に横たわっていたはずのラズは、メイドの手首を掴み、倒れた彼女に馬乗りになっていた。形勢逆転だ。
「なっ、なんで⋯⋯眠っていたはずではありませんの!?」
「そんなの狸寝入りに決まってるじゃない。駄目よ、人の部屋に入るのに気配も消さないなんて。ちょっと無防備すぎるんじゃないの? しかもそんな、甘い香水の匂いまで纏って。すぐに気づかれるわよ」
淡々としたラズの返答に、メイドは冷や汗を流しながらも声を振り絞る。
「な、何か、勘違いなさっているのではありませんこと? わ、私はただ、あなた様宛のお手紙が落ちていたからここに来たんですわ! ほら、床に落ちていますでしょう?」
「ふうん? わざわざお手紙を届けるために、こんな時間にノックもせずに忍び込んできたっていうの? ご丁寧にナイフまで携えて?」
「そ、それは⋯⋯手紙を開けるのに使えるんじゃないかとっ」
「それ以上、言い訳を並べるのはやめたほうがいいわよ。あなた、嘘をつく才能がないから」
「う、嘘だなんて⋯⋯くっ、は、離して! 離せっ!」
ぷるぷると震えた後、メイドは取り繕うのを諦め、なりふり構わずにじたばたと全身で暴れ出す。
しかし、細腕に見えたラズの手は思った以上に振り払えず、馬乗りになって押さえつけられている箇所が悪いのか、巨大な何かに押し倒されているかのように全く身動きが取れない。
「なんて力ですの!? ああもう、とっとと離してくださいましっ!」
「あらあら、そんなに怖がらなくたっていいじゃない。あたしは、あなたとちょっとお話がしたいだけよ? あたし達って年も近いみたいだし、女同士だもの、きっと仲良くなれるわよ。そう思わない?」
思わない、と言いたげな真っ青な顔をするメイドに、ラズは殊更にニッコリと微笑んでみせた。
◇◆◇
「婚約破棄?」
「はい。ミルドレッド姉様は、初恋の人と婚約していたんです。すごく喜んでいて、あと1年で結婚する予定だったのに、勇者様と出会って二日で急に婚約を破棄したんです。父上も母上も怒ったし、理由を聞いたけど、ミルドレッド姉様は何にも言ってくれなくて」
「それは確かに変だね。でも⋯⋯」
「でも、勇者様と関係があるかは分からない。そうですよね、ボクも最初はそんなコト思っても見なかった。だけどダグラス兄様は疑ってるみたいだった。夜中にミルドレッド姉様の部屋から出てくる勇者様を見た、って。きっと二人の間で何かあったんだって、ダグラス兄様は気づいたんだと思います。それが何かは、ボクには教えてくれなかったけど⋯⋯」
夜中に女性の部屋から出てくる勇者レインナート。
流石にアリソンでも、少年の兄が何を想像したのか分からないほど無知ではない。それは確かに、年端も行かない弟には言えないことだろう。
「それで、お姉さんは今どうしてるの?」
「修道院に連れて行かれました。急に婚約破棄なんてして、色んな人に迷惑をかけたから、ってお父様が。でも本当は違うんです。本当はもう会っちゃダメだったけど、ミルドレッド姉様にお別れが言いたくてこっそり会いに行ったら、姉様は部屋の中で一人でブツブツ喋ってて⋯⋯メイドに聞いたら、本当は修道院じゃなくて、心の病気を治す場所に行ったんだって教えてくれたんです」
その時のことを思い出したのか俯いた少年の背中に手を置くと、一瞬びくりと肩が震えたものの、特に嫌がるそぶりもなかったのでしばらくそうして背中を撫でることにした。
「⋯⋯もう大丈夫です。ありがとう、アリスさん」
「ううん。その、もし話すのが辛かったら⋯⋯」
「大丈夫。もうボクしか話せる人がいない話だから、ちゃんと最後まで話すんだ。それがダグラス兄様との約束だったから」
顔を上げて気丈に笑う少年に、アリソンは「でも無理はしないでね」とだけ伝える。それには答えず微笑んだ少年は、きっと無理をしてでも話すのだとしても。
「それから、ダグラス兄様はずっと勇者様のことを疑ってました。でもお父様は、深入りしてはいけない、って言って。どうして深入りしたらダメなんだろうって思って、ボク、お母様に聞いたんです。お母様はちょっぴり悲しい顔をして、お父様の言うことをよく聞いてって言いました。危ないことはしたらダメだって」
「そっか。優しいお父さんとお母さんなんですね」
「はい⋯⋯でも、ダグラス兄様は諦めませんでした。兄様はすごい人だったんです。乗馬も弓も剣も魔術だって、できないことは出来るように頑張っていて。だから、勇者様が何をしたのか確かめてやるって言って、それで⋯⋯」
そこで言葉を切った少年に先を促してもいいのか分からず、アリソンはただ少年の言葉を待つ。もし本当に言いたくなくなったならそれでもいいと思いながら。
けれど、雲に隠れていた月が顔を出した頃、少年は再び口を開いて言った。
「それで⋯⋯ダグラス兄様は、死にました」
「えっ!? それは勇者に⋯⋯?」
「視察の時に崖の上から落ちたんだって、みんな言ってました。景色がいいって評判の場所だったから、前のめりになりすぎて落ちてしまったんだろうって。ただの事故だって。でも、ボクは違うって知ってる! ダグラス兄様がボクにだけこっそり教えてくれたんだ、『高いところが苦手でどうしても克服できない』って! そんな兄様が景色がいいからって崖になんて行くわけがないんです⋯⋯!」
少年の目から、耐えてきた涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「それに、ダグラス兄様の葬式で勇者様は、わ、笑っていたんです。勇者様もボクが見てることに気がついて、にこにこしながら口元に人差し指を当てて、シーって⋯⋯ぼ、ボク、怖くて怖くて、誰にも言えなくって⋯⋯! ボクは気づいてたのに、それなのに何も⋯⋯っ!」
弟とそう歳の変わらない少年が、誰にも言えない秘密を抱えて生きるのはどれだけ辛かっただろう。
泣きじゃくる小さな体を抱き寄せて、アリソンは少年の背中をさする。
「辛かったですね、よく頑張りましたね」
「ッそんなことない! 本当に辛かったのは姉様と兄様だ! ボクはみそっかすで、ただ見てただけで! こんな、泣く資格だって⋯⋯ッ」
「ううん、あなたは頑張ったよ。怖かったですよね、本当は悪い人なのに、周りがみんなその人のことを良い人だって言っているのは。言いたくても言えないのは、辛かったですよね」
「⋯⋯っ、信じて、くれるんですか⋯⋯?」
「信じますよ。だから大丈夫、あなたはひとりじゃない」
そう言って少年をあやしながら、アリソンは今聞いた話を頭の中で反芻していた。
夜半にミルドレッドの部屋を訪れる勇者、そしてその二日後に婚約を破棄した彼女。これは恐らく、勇者が持つという「魅了」によるものだろう。レインナートと対峙した夜、彼に魅了されたであろう少女が目の前で死ぬ様をアリソンは見た。あの時、少女は死ぬまで勇者に救いを求め、そして勇者を愛していた。少年の姉も、レインナートに部屋の中で魅了をかけられ、婚約を破棄させられたのではないか。
ダグラスの方は分からないが、葬式で勇者が笑っていたということを考えれば、何かしら関係があることは間違いないはずだ。
「私も、ラズ⋯⋯相棒と色々調べてみますから──」
「お願い、お母様を助けて⋯⋯! 勇者はお母様に会おうとしてる、次はお母様をミルドレッド姉様みたいにおかしくさせるつもりなんだ!」
「え⋯⋯」
「お願い⋯⋯ボクが何を言っても、お母様は困ったみたいに笑うだけで、信じてくれないんだ。お父様は忙しいからって話を聞いてくれない。爺やは慰めてくれるけど、ボクの言ったことを信じてなさそうなんです⋯⋯お願いします、もうアリスさんしか⋯⋯」
懇願してくる少年に、アリソンは考えるよりも早く頷いていた。
「分かりました。あなたのお母さんを、一緒に守りましょう」
「あ⋯⋯ありがとう、ありがとうございます、アリスさん⋯⋯っ」
しかし、勇者が少年の母親を狙っているということなら、調べている間に先手を打たれる可能性もある。
少し考えた後、アリソンは一つの思いつきに手を叩く。
「ちょっと渡しておきたいものがあるんですけど、今から私たちの部屋に来てもらってもいいですか?」
「? はい、いいですけど⋯⋯」
「良かった、それじゃあ早速行きましょう!」
「へっ? えっ、ちょっ、何を⋯⋯!??」
首を傾げたのち了承した少年を抱えると、アリソンは躊躇なく屋根を蹴り、地面に向かって飛び降りた。
「遅かったわね、おかえ⋯⋯アリソン、誘拐するなら一言あたしに言ってからにしてくれないかしら」
「ええっ!? ゆ、誘拐じゃないですよ!?」
気配で分かったのか、アリソンが開ける前に部屋の内側からドアを開けてくれたラズは、子供を抱えたアリソンを見るなりそんな物騒なことを言う。
誘拐ではないと弁解しながら、アリソンは部屋の中に入って少年を地面に下ろす。ちょっと待っててね、と声をかけて、荷物の中をごそごそと漁る。背後から戸惑う少年の気配と、説明しろと言いたげなラズの視線を感じるが、それに気づかないふりをしてアリソンは探し物を引っ張り出す。
「これをどうぞ」
豪奢な首飾りを小さい手のひらに乗せると、少年は困惑した面持ちで見上げてくる。
だが、背後に立つラズは何かを察したように「あぁ」と小さく呟く。
アリソンが渡した首飾りは、厳密に言えばアリソンたちのものではない。聖都にいた時、偽物の聖女が常に肌身離さず身につけていた、精神を操作する類を阻害する効果のあるものだ。
それを強奪と言って良い形で貰い受け、そのまま荷物の底に入れっぱなしだったのだが、思わぬところで使い所が見つかるものだとアリソンは思う。
「これをお母さんに渡して、ずっと身につけてくれるように頼んでください。お守りみたいなもので、お母さんを勇者から守ってくれますから」
「お母さんを⋯⋯? わ、わかりました、なんとか言ってみます」
しっかりと首飾りを握りしめた少年が、アリソンを見上げる。もうその眼差しに怯えはなく、ようやく見えた希望に瞳が明るく輝いていた。
これでひとまずは大丈夫だろう、とアリソンがホッとしていると、「で?」とラズの声が部屋に響く。
「で、アンタは一体全体どうやって、いえ、どうして第二王子をここまで連れてきたわけ?」
「⋯⋯えっ」
第二王子? この子が?
目を見開いたアリソンが少年を見やると、少年はどこか気まずげな顔をしながら口を開く。
「名乗るのが遅くなってごめんなさい。ボクはフィリップ、おっしゃる通り、一応、第二王子です⋯⋯」
◇◆◇
「全く、さっきは肝を冷やしたわよ。まさか第二王子をそうとは知らずに部屋に連れ込むなんて⋯⋯誰かに見られてたら、反逆罪をでっち上げられてたかもしれないのよ?」
「すみません⋯⋯まさか王子だとは思わなくて」
少年もといフィリップを元いた屋根の近くの、彼の自室のバルコニーに送り届けた後。
再び部屋に戻ったアリソンは、出迎え代わりのラズの小言にしゅんと項垂れる。
「まあ、でもあの首飾りを渡す機転は悪くなかったわね。これで皇后に恩も売れるし、それに王宮内に既に勇者を怪しんでいる人がいたってことは収穫だわ」
「そうですね⋯⋯みんな勇者様、勇者様ってもてはやしているから、もっと好かれてるんだと思ってました」
「どこも一枚岩じゃないってことでしょうね。王子や王女に手を出すなんて予想よりも大胆なことしてたけれど、魔人を殺せるのが自分だけだという事実があるから、なんでもできるのね」
魔人の強力な再生能力。それを無効化できるのは、勇者にしか扱うことのできない聖剣フォルティスだ。
それを良いことに、勇者は好き勝手をしているのだということは想像に難しくないとはいえ、ラズの言う通り、王子や王女に手を出すほど調子に乗っているとは思わなかった。
就寝前用のハーブティーを淹れてくれたラズと向かい合って座ると、彼女は「そういえば」と言って、白い封筒をテーブルの上に置いた。
「あなた宛に手紙が来てたわよ」
「手紙?」
「ええ、差出人は『ジョアン』よ」
ハーブティーを飲もうと、カップを持ち上げたアリソンの手が宙で止まる。
何も言えずにいるとラズは立ち上がって、棚の引き出しからペーパーナイフを手にして戻ってくる。
「その顔だと、知ってる名前みたいね? あなたも大分文字が読めるようになってきたと思うけど、どうする? 代わりにあたしが読んだ方がいい?」
「⋯⋯はい、お願いします」
口から出た声は震えていて、自分は思った以上に動揺しているんだな、と頭の片隅で冷静な部分が囁く。
ラズが封筒から出した便箋を読んでいる間、アリソンはずっと気が気でなく、ソワソワと意味もなく視線を絨毯に固定する。シミも穴もほつれもない、美しく完璧に織り上げられた絨毯。使った糸のことや、織り方について考えていると、カサカサと紙を折りたたむ音が聞こえた。
ラズが手紙を読み終わったのだ、と理解したアリソンは嫌がる視線を無理矢理に引き戻し、彼女に向き直る。
「なんて書いてありました?」
「⋯⋯家の住所と、父親に外出を許されてないことが書かれてるわ。話がしたいから来てくれないか、って」
ドクン、と落ち着いたはずの心臓が早鐘を打つ。フィリップに勇者をどう思うか聞かれた時とは比べ物にならないほど、胸が痛い。
「⋯⋯あなたは、どうしたい?」
端的な、けれど気遣いのこもったラズの問いに、アリソンは答えを何度も何度も喉の奥で咀嚼してから、ぐちゃぐちゃになったそれを舌に乗せる。
「行きます、会いに」
「⋯⋯そ。あたしはいない方がいい?」
「いいえ」
今度は間髪入れずに答えたアリソンを、ラズが見つめてくる。
澄んだような、翳りを帯びたような、夜明け前の蒼。ジョアンの、赤い、柘榴のような瞳とは似ても似つかない燃える星。
「傍にいてください。⋯⋯いてほしいです」
「⋯⋯わかったわ」
せっかくラズが入れてくたのだからと、アリソンはハーブティーを口に含む。
温かくて、少しぬるくて、母の作る料理のような味がした。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
次回はいよいよ、アリソンとジョアンの対面となります。ぜひ見守って頂けると幸いです。
もうすぐ年末に差し掛かりますので、今回が今年最後の更新となります。
来年もよろしくお願いします。どうぞ良いお年を。
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