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村娘Aが勇者を殺すまで  作者: 藤森ルウ
第1章 魔界編
5/73

004 終わりを迎えたその先で



 近づいてくる炎の熱さ、木が焼ける音、肉の焼ける臭い。

 遠くかすむ意識の中で、誰かがアリソンに向かって手を伸ばしていた。


『おねえちゃん⋯⋯きて⋯⋯』


 この声は、ルノー? どこにいるの?

 アリソンは口を動かしたつもりだったのだが、喉がカラカラで上手く声が出ない。

 それでも弟の声が聞こえてくる方へと向かおうと、必死で体を動かすが、どうしてか声は遠ざかるばかりで、一向に近づけない。


『きて、おねえちゃん。おきて⋯⋯!』

『アリソン、もう朝になるよ。そろそろ起きておくれ』

『⋯⋯起きるんだ。アリソン』


 ルノーだけでなく、母と父の呼ぶ声までもが聞こえだすが、それらは徐々に徐々に、アリソンから遠ざかっていく。アリソンは声にならない声で「待って」と彼らに呼びかける。わけもなく置いていかれるような焦燥感に身を焦がされて、怖くて怖くて仕方がなかった。


「待って、おいていかないで! 私も『そっち』に連れて行って⋯⋯っ!」

『駄目だ。お前はまだ、こちらに来てはいけない。アリソン』

「え⋯⋯っ?」


 家族の元へ伸ばしていた手が、何か強い力でバシンと弾かれる。その瞬間、すべての音と臭い、見えていたはずの景色が消えて、アリソンは真っ暗な闇の中に取り残される。


「い、いや⋯⋯っ! 待って、いや、置いてかないで!」

『落ち着け、よく見ろ』

「いやぁ! たすけて⋯⋯っ! お父さん、お母さん!」

『しっかりしろ、アリソン!!』


 芯の通った男の声に、アリソンは我に返る。

 周囲が黒く染まったように見えていたが、よくよく見てみれば、実のところモヤがかかっているだけだと気がつく。

 黒いモヤのかかった視界の中、自分の足下に、もうひとりの自分がうつ伏せに倒れているのが目に入る。そして、目の前で自分の手を掴んでいる男の顔も。


「え⋯⋯イグニスさん? えっと、あれ? なんであっちにも私が⋯⋯?」


 驚いてゴシゴシと目をこするが、どうやら幻覚ではないようだが、足元のあの自分は何なのだろう。自分の丸写しとしか思えない人物が倒れているのを見るのは、あまり良い気分ではない。もうひとりの自分は、己に近づく炎に気が付くこともできずにいるのだから尚更だ。

 困惑に顔を歪めたアリソンに、イグニスは「いいか、アリソン」と言い聞かせるような口調で話しだす。


『あれはお前の身体だ、アリソン。今、お前は一時的に魂が身体を離れている状態なのだ。だが、心配するな。すぐに戻れる』

「は、はあ⋯⋯? そ、そうなんですね⋯⋯?」


 イグニスが博識なのはいつものことだが、それにしたって、何を言っているのかさっぱり分からない。首を捻ったところで分からないものが分かるようになるわけでもないので、アリソンは早々に理解することを諦める。


 それよりも、もっと分かりやすく大事なことがある。

 それは、イグニスの身体に傷がひとつもないことだ。

 勇者レインナートが斬った部分だけでなく、アリソンが彼を見つけた時についていた傷もなく、彼は完全な五体満足で自分の前に立っているのだ。こんなに良いことはない。思わずほっと息をついたアリソンだったが、イグニスはどこか困ったような顔をしている。

 怪我がないのは良いことなのに──ぼんやりとそう思いながら、アリソンは首を傾げる。


「イグニスさん、すごいですね! あんなに酷い怪我をしていたのに、もう治っちゃうなんて⋯⋯あぁ、でも本当に、治って良かった⋯⋯!」

『⋯⋯』

「ところで、どうしてあの私はどうしてあんなところで倒れてるんでしょう? このままじゃ焼かれちゃいそうですけど、どうにかして起こせないのかな⋯⋯あっ、それとも私、もしかして死んじゃってるんですか? それで、魂? が抜けちゃってるんですか?」

『いや、お前はまだ死んでいない。お前が起きれば、いま見えているあれも目を覚ますだろう』

「⋯⋯そう、なんですか?」


 まあ、イグニスがそう言うのならそうなのだろう。

 詳しいことは相変わらず何も分からなかったが、きっと問うたところで余計に分からなくなるだけだろうという予感があった。


『⋯⋯すまない、アリソン』


 あまりに突飛で強烈な出来事が降り掛かりすぎたせいか、普段以上にぼんやりしているアリソンに、イグニスはふいに顔を歪めて頭を下げる。

 唐突に頭を下げられてきょとんとするアリソンに、彼は苦しげな顔をして口を開く。


『私のせいで、君たちは魔人を匿った罪を被せられ⋯⋯その結果、ゴードンやマリア、それにルノーは無惨にも殺されてしまった』

「⋯⋯」

『謝って済む話ではないと分かっている。だが、それでも⋯⋯助けてくれた恩を仇で返すことになって、すまない』

「⋯⋯」

『まさか勇者が同じ人間を傷つけはしないだろうと、愚かなことを思わなければ⋯⋯いや、そもそも私がこんなにも長くこの地に留まらなければ良かったのだ。本当に、本当にすまない⋯⋯』


 さすがにアリソンも、そう直接謝られては「何の話ですか?」等と、とぼけることもできない。

 けれど、ではイグニスを恨んでいるのかと言われると、そんな感情は自分の胸の中のどこにも見つからない。魔人だと知って混乱している部分はあったが、結局のところ、今でもアリソンにとって彼は、兄のような、優しい年上の人だった。たとえ、人の身ならざる存在だと知っても。

 何と言葉を返せばいいか考えあぐねているアリソンに、イグニスは手のひらを差し出す。

 黙って見つめ返したアリソンに、彼は同じようにするよう促した。


『⋯⋯これを、持っていてくれないか?』


 素直に手を開いたアリソンの手に、彼は自分の耳に付けていた片方のピアスを置く。

 めったに装飾品を見る機会がないアリソンは、初めて見るアクセサリーに「わあっ」と声を上げる。

 夜空を写し取ったような色をした、黒を基調とした重厚な印象のピアスは、素人目にもわかるほど、とても繊細に作られた品だった。きっと彼にとって大切なものなのだろう。


「すごい、きらきらしてて綺麗⋯⋯あの、でも良いんですか? これってきっと、イグニスさんの大切なものなんですよね?」

『ああ、そうだ。だからこそ、君に持っていて欲しい。⋯⋯このままでは、焼け落ちてしまうからな』

「⋯⋯焼け落ちる?」

『そして、もし機会があればこれを彼女に渡して欲しいのだ』

「彼女って⋯⋯? あっ、もしかして前に言ってた、イグニスさんの好きな人のことですか?」


 口をついて出た質問に、聞かれると思っていなかったのか、イグニスの目が丸くなる。

 迷うように口を開いては閉じ、開いては閉じ。繰り返すこと3回目、彼はようやく覚悟を決めたように、切なげに頷く。


『ああ。彼女は私にとって、誰よりも大切な⋯⋯誰よりも幸せになって欲しい女性(ひと)なんだ』


 だから頼む──そう言われ、アリソンは目を伏せる。

 受け取ったピアスが、手の中で重みを増したように思うのは、きっと気のせいではなかった。


「⋯⋯わかりました。必ずイグニスさん大切な人に、これを届けます」

『ああ⋯⋯ありがとう。すまない、何から何まで世話になったままで心苦しいが、私にできることはもう、あまり残されていないようだ』

「そんなこと言わないでください。私たちだって、イグニスさんにはお世話になっていたんですから。ほら、雨漏りとか畑仕事とか。お父さん、すっごく助かったって言ってましたよ」


 屈託のないアリソンの言葉に、イグニスが言葉を詰まらせる。目を伏せた彼に、アリソンは微笑む。


 そうして二人が向き合っている間にも、セネカの魔術によって編み出された炎はますます勢いを増していく。

 ゴオッ、と音を立てて壁が焼き払われ、柱の中央が焦げ、重みに堪えられなくなった天井がギシギシと軋み出す。我に返ったアリソンを通り越し、天井から落ちてきた木の板がばらばらと地面に転がり落ちる。

 今にも全てが崩れ落ちそうな天井を一瞥した後、イグニスはアリソンへと視線を戻し、最後に未練を払うように手のひらを見やり、それから──


『⋯⋯本当に、すまなかった。どうかせめて、私の代わりに生き永らえてくれ。アリソン』

「え?」


 生き永らえるとはどういうことだろうか。それに、「私の代わりに」だなんて。

 困惑するアリソンに、イグニスはふっと笑う。穏やかでひどく凪いだ、秋の風を思わせる笑みに目が釘付けになる。


『大丈夫、君はきっと助かる。こんなことを頼めた義理ではないが、叶うならば、どうか──』


 その声を最後に、イグニスの姿が遠ざかっていく。思わず伸ばした手が空振ると同時に、自分の身体が凄まじい力で引っ張られ、アリソンは咄嗟に目を瞑る。抵抗する気も起きないほどの、まるで嵐に引き裂かれるような感覚の中、一瞬だけ熱い床の温度を感じ、けれど瞬く間にそれらは消えていく。

 引き離され、引き千切られていく身体の感覚に堪えきれず、アリソンは意識を手放しかけるが、何かがそれを邪魔して、上手く意識を手放せない。

 どころか、まるで「まだ起きてないでしょ」とでも言いたげに、夢から覚める時のような浮遊感を感じる。


 ──そうか、これは夢なのか、とアリソンは思った。


 それなら、早く起きなくては。母に怒られるし、それに、姉なのに弟のルノーより遅く起きたらかっこ悪いじゃないか。

 そんなことをぼんやりと思うアリソンを、誰かが遠くの方から、「こっちよ」と引っ張り上げる。


 その声に導かれるまま、アリソンは目を覚ました。



◇◆◇



 目を覚ました時、アリソンが最初に目にしたものは、星図の描かれた見慣れぬ天井だった。


 起き上がろうと手をつくと、柔らかで滑らかな手触りが手のひらに伝わってくる。どうやら自分はベッドの上に横たわっていたらしいが、それにしても、ドルフ村のベッドとはあまりに違う感触だ。驚いて手を離した後、もう一度そっと手を下ろすと、先ほどと同じふわふわと心地よい感触が返ってくる。

 寝そべったら、きっと気持ちいいんだろうな、と思う。思うが、そのまま倒れ込んだが最後、一生ずっと目を覚ませなくなる気がして、アリソンは誘惑を断ち切り、布団から這い出て部屋の中を見渡す。


 その部屋は、壁も地面も真っ黒で、しかも変わったことに六角形だった。

 6つある角のそれぞれの隅には見たこともない植物が飾られていて、天井からぶら下がったランタンは七色に淡く煌めき、暗い部屋の中を柔らかな光で照らしている。

 部屋の中央には円形のテーブルが置かれており、壁際に配置されたクローゼットはアリソンが家族と共同で使っていたそれの数倍大きい。この部屋の主がどんな人間なのかは知らないが、ただの村人でないことだけは確かだ。

 そして、ベッドサイドに置かれた机の上には、羊皮紙と羽ペンが置かれており、その隣にはキラキラしたワイン色のインク壺がある。きっちりと整理された机から見るに、この部屋の主は几帳面な性格らしい。何かと抜けていると評される自分とは違い、何でもそつなくこなす人なのだろうか。


「⋯⋯だ、誰の部屋なんだろう⋯⋯ここ」


 変わったものが沢山あって、正直、好奇心をそそられてしまう。

 こういうのはルノーの役目のはずなのに──弟のことを思い浮かべると、胸がズキンと痛む。


 アリソンは意を決して、素足をそっと床に下ろす。いつも履いているサンダルは見当たらず、よく見れば自分が着ているのもいつもの若草色のワンピースではなく、白い柔らかな素材のネグリジェだった。誰が着せてくれたのだろうとか、着ていた服やサンダルはどこだろうと気になりはしたが、それよりも目の前の部屋を探検してみたい気持ちが強く、アリソンは疑問を一旦横に置いて歩き回ることにした。幸い、ベッドの周りには絨毯が敷き詰められているおかげで、足が冷えることもないのだし。

 部屋の中を一周してみても、好奇心が満たされることはなく、むしろ「これは何だろう」、「これは何で出来ているんだろう」という疑問ばかりが募ってしまう。流石にクローゼットを開けることは躊躇われたが、壺や花の生けられた花瓶は遠慮なく覗かせてもらった。

 

 そうして最後に、アリソンは窓を覆い尽くすカーテンの隙間をそっと広げ、外の景色を覗き見る。

 しかし、外の明かりが部屋に差し込むことは無かった。


「⋯⋯え?」


 カーテンを握ったまま、アリソンは呆けた声を洩らす。

 大きな窓の外に広がるのは朝日ではなく、見慣れた草原でも、色とりどりの屋根でもなく、かと言って丸い月が浮かんでいるでもなく。

 外に広がるのは、ただただ暗黒に塗りつぶされた町並みだった。

 それも町だけでなく、空そのものが夜よりも深い黒で彩られていて、まるで街そのものが夜に溶けてしまったかのように見える。

 

 人通りもなく、風もなく。

 ただ眼前に広がる圧倒的な黒に、アリソンは圧倒され言葉も出ない。


「びっくりしたかしら?」


 部屋の中に初めて響いた、自分以外の人間の声に振り返ると、黒い髪をツインテールにした少女が扉を閉めているところだった。窓の外の光景に夢中になったばかりに、アリソンは扉の開く音に気がつかなかったらしい。鍵を閉めて入ってきた少女の手には、白い水差しが握られている。

 よくみれば、部屋の中央にあったテーブルの上にはトレーとコップが置かれていた。少女は水差しに水を足すために部屋を出て、今帰ってきたところだったのだろう。

 少女が水差しをテーブルに置き終わるのを待って、アリソンは口を開く。


「あ、あの⋯⋯あなたは誰ですか?」

「それはむしろ、あたしが聞きたいぐらいなんだけど?」


 向き直った少女の瞳の蒼さに、うっかり息が止まりかけた。

 夜明け前の空を閉じ込めたような、美しい蒼。こんなにも吸い込まれるような色の目をした人間を、アリソンは初めて見た。

 だが、そう思った矢先に気付く。美しいのは瞳だけでは無かった。

 少女自体が、その瞳に負けず劣らず美しかったのだ。


 例えば、蒼い瞳を覆い隠すカーテンのような睫毛や、雪のような白い肌、サラサラの黒い髪、微かに色づいた柔らかそうな唇。右目の下に入った黒い切れ目のような傷跡ですらも、少女の美しさを際立たせるためだけに存在している。

 見惚れていると、少女はアリソンが自分から答えたくないと思ったのか、「まあいいわ」と呟き、「あたしはラズよ」と告げる。


「ラズさん、ですか?」

「ええ、そうよ。あたしはただのラズ。それで、あなたは?」

「あ、私はアリソンです。えっと⋯⋯ドルフ村のアリソンです」


 王都などの都市部で暮らす人間と違い、田舎の農村で暮らすアリソンたちには苗字がない。そのため、名乗る時には村の名前を苗字の代わりにする必要がある。

 尤も、村には行商人を除いて滅多に外部の人間が来ることはないので、実際にアリソンがこの名乗りを使うのは初めてのことだった。


「そう。⋯⋯で、怪我の具合はどうかしら? ドルフ村のアリソンさん。歩き回れるぐらいには回復したみたいだけど」


 ──そういえば私、怪我をしていたんだった。

 

 言われて初めて思い出したアリソンは、しかし、どこを怪我していたのか全く思い出せなかった。思い出せるのはただ、家ごと焼き払うような炎のイメージと、血だらけの刀身に晒されるイグニス、それから、それから⋯⋯


「⋯⋯ッ」


 込み上げてきた嘔吐感に、アリソンは両手で口を押さえた。震える足は身体を支えきれず、ぐらりと地面に膝をつく。喉を這い上がるそれを必死に堪える間も、指の隙間から漏れ出す呼吸が荒くなり、息がうまくできなくなっていく。

 心なしか、視界がぐるぐると回っているように見える。それが目眩だと気がつく前に、アリソンの身体は前に傾いた。


「ッアリソン!!」


 ラズの慌てるような声を聞いた直後、床に倒れ込むはずだったアリソンの身体は、ラズの腕の中に収まっていた。細い見た目からは信じられないほどの安定感。

 目眩と、それに伴って増した吐き気よりも、自分が上手く呼吸できていないことにアリソンはようやく気づく。はくはくと口を開き、胸元を掻き毟っていると、自分を支える手がそれをそっと止める。


「アリソン、落ち着いて。ゆっくり、ゆっくり息を吸うの」

「かひゅっ⋯⋯はぁ、はぁ⋯⋯」

「大丈夫、怖いことは何もないわ。もう大丈夫よ」


 子供をあやすように言いながら、ラズはグッと顔を近づけてくる。あまりの近さに反射的に身を引こうとするアリソンを背中を支えた手で制し、ラズは「呼吸を合わせて」と言う。言われるまま、必死で息を合わせているうちに荒れていた呼吸は落ち着き、数分後には普通に息ができるようになっていた。

 あの距離の近さは呼吸のタイミングを教えるためだったのか、とアリソンが納得したところで、未だ地面にへたり込んだままだった身体を上へと引き上げられる。


「一度ベッドに戻って休みましょう。それと、後で何か持ってくるから、食べれそうなら食べて」


 ラズは声色こそそっけなかったが、ベッドまでの支え方は献身的と言っていいものだった。ほぼ力の抜けていたアリソンはお世辞にも軽いとは言い難かったろうに、文句ひとつ言わず、どころかそっと慎重な手つきでベッドに上がるのを手伝われると、くすぐったいものが胸に込み上げてくる。

 お礼を言おうと顔を上げたアリソンは、座りやすいように枕を背中の後ろに置いてくれている最中のラズと目が合う。その途端、その蒼以外が視界から消えたように、目が釘付けになる。

 痛みも、苦しみでさえも忘れさせるほどのラピスラズリ。いくらラズが伏し目がちにしていても、その蒼に気づかない人なんてきっとこの世のどこにもいない。


「⋯⋯何? どうかしたの?」

「あっ、ご、ごめんなさい! その、えっと、お礼が言いたくてっ」

「ふうん? ⋯⋯別に、このぐらい大したことないわよ。気にしなくていいわ」

「そういうわけには⋯⋯」


 渋るアリソンを軽く布団に押し込むと、ラズはふっと微笑んで背筋を正す。


「それじゃ、詳しい話は食事をしてからにしましょ。今のあなたに必要なのは栄養と休憩よ。──分かった?」


 こくりと頷いたアリソンに、ラズは「いい子ね」と言うと、それから一度も振り返ることなく部屋の中から出て行ってしまう。

 その寸前、鼻腔をかすめた淡い花の香りは、ラズのつけている香水の匂いなのだろうか。それとも、部屋に飾られている花の香りなのかもしれない。


「⋯⋯何のお花なんだろう」

 

 淡々としているようでどこか甘く、そして苦くもあり。まとわりつく花の香りに、アリソンはすん、と鼻を鳴らした。



◇◆◇



「悪いわね、遅くなって。退屈したかしら?」


 ぼうっとしていたアリソンは、その声で現実に引き戻された。

 部屋の扉を開いたラズは、銀のワゴンを押しながら入ってくる。ワゴンには湯気の立ち登るスープと、バスケットに積まれたパン、バターにジャム、そして見たこともないようなカラフルな色をしたフルーツが載せられていた。


「具合はどうかしら?」

「えっと⋯⋯普通、だと思います」

「そう。厨房にあった物で作ってみたんだけど、良かったら一口だけでもどう? 無理はしなくていいけど」


 ラズは身を屈め、ワゴンの下から折り畳み式のベッドテーブルを取り出し手早く組み立てると、その上にカトラリーやスープ皿を置いていく。

 部屋に漂う香ばしい食事の香りに、アリソンの喉がごくりと鳴る。

 スープには食べやすいサイズに切られた野菜や肉がたっぷり浮かんでおり、村での食事しか知らないアリソンは豪勢さに息を飲んだ。そのまま硬直していると「苦手な物でもあった?」と心配そうな顔をされ、アリソンは慌てて首を振りながらスプーンを手にとった。

 食べきれるだろうか不安に思いながらも、一口すくって口に運ぶと、食材を活かした素朴でまろやかな味が口に広がる。母の作る料理と同じ味だ。


「おいしい⋯⋯」


 思わず呟くと、ラズは「それは良かったわ」と目尻を緩やかに下げた。


「私、こんなに具がたくさん入ってるスープは初めてです。本当に全部もらっていいんですか?」

「大げさね、ただのスープじゃない。誰でもいつでも作れるような代物よ。無理して食べるようなものじゃないから、食べきれなかったら気にしないで残しなさい」


 スプーンを再度手に取ったアリソンは、もうひとくち喉の奥に流し込む。にんじんと玉ねぎのまろやかな甘み、溶けかけたじゃがいもの柔らかな触感。そして、固さが無くなるまで煮込まれた肉の旨味に、彼女は目を瞬かせる。

 それをじっくりと味わっていると、ラズと目が合う。慌てて「いただきます」と言ったアリソンを、彼女はふっと頬を緩ませて見つめていた。


 そうして、暖かなスープを食べながらアリソンは、ベッドサイドの椅子に座って、自分の分の食事を摂り始めたラズのことをチラリと盗み見る。先程は容姿の美しさばかりに気を取られていたが、彼女の身のこなしや所作も、洗練されていて綺麗に見えた。

 しなやかでスレンダーな体格と、それを強調するようなピッタリとした白と黒を基調としたホルターネックのワンピースに、両サイドのスリットから覗く黒いガーターとレース。黒に覆われたすらりとした足が無造作に組まれるのを見ていると、同性とはいえ、何だか見てはいけないものを見てしまったような気になる。

 慌てて視線を逸らすと、左耳のピアスに自分の動揺した顔が映り込む。本当に、どこを見たらこんな気持ちにならずに済むんだろう。


「さっきから何? 気になることでもあるの?」

「あっ、ご、ごめんなさい! その、き、綺麗だなぁって⋯⋯」

「綺麗? ああ、この服のことね? ありがとう、あたしのお気に入りなの」


 服も綺麗だけれど、それを着こなすラズが綺麗だと言いたかったのだが。しかし間違いを正すのも恥ずかしく、アリソンは口をつぐんだ。


「服といえば、あなたの着ていたワンピースだけど、汚れていたから洗濯させてもらったわ。勝手に悪いわね」

「えっ、いえ! あ、ありがとうございます。その、怪我の手当てとかも全部、ラズさんがしてくれたんですよね⋯⋯? 本当にお世話になっちゃって」

「別に、大したことじゃないわよ。治癒術が使えたら、もっと跡形もなく治してあげられたんだけど⋯⋯いえ、これは後にしましょう。食事がまずくなるわ」


 首を傾げたアリソンだが、ラズはそれ以上説明する気はないようだ。指についたジャムをぺろりと舐め取った彼女は「ところで」と呟く。


「あなた、ドルフ村の出身だって言ったわよね?」

「は、はい。えっ、もしかして村のこと、知ってるんですか?」

「ええ。王都にいた頃、タペストリーを買ったことがあるの。どれも色合いが独特で素敵だけど、特に動物をモチーフにした作品が好きだわ」

「ほ、本当ですか!?」


 頬を緩ませて語る少女に、アリソンは心が否応もなく弾むのを感じる。

 毎日毎日、機織りをすることを疑問に感じたことはなかった。そうすることでしか生計を立てられなかったし、それに機織り自体は自分の性に合っていたから。

 けれど、トマスを通して行商人にどれだけ売っても、はした金が手元に残るだけで、こんな風に自分の作ったものを買ってくれた人の声を聞くのは初めてのことだった。それも、こんな好意的な感想を聞けるなんて。

 ただただ、がむしゃらに織り続けた日々が認められたようで、そのことがどうしようもなく嬉しい。


 感極まるあまり何も言えないでいるアリソンに、少女は「そういえばドルフ村ってどこにあるの?」と問いかけた。


「どこ、と言われても⋯⋯」

「言葉じゃ説明しにくいわよね。待って、地図を持ってくるから」


 言うが早く、立ち上がったラズをアリソンは大慌てで止める。あまりに辺鄙だから載っていないと正直に告げると、彼女は残念そうな顔をしたが、そんな顔をしてくれるだけで充分だとアリソンは思った。

 それに、例え地図に載っていたとしてもアリソンには説明のしようがない。何故なら、アリソンには地図が読めないのだから。

 こんなことなら誰かに教えて貰えば良かったと思うが、村の大半がアリソンと同じで地図など読めないので、仕方のないことである。村で地図が読める人間がいるとすれば、ジョアンの父であるトマスぐらいなものだろう。


『やはり君たちは魔人と共謀していたんだ、トマスの情報通りだよ!』


 脳裏を過ぎった勇者の言葉に、ぞくりと背筋が凍った。思わずスプーンをガツンと皿に当ててしまい、ラズに怪訝そうな顔をされる。何でもないと誤魔化しながら、アリソンはぎゅっとスプーンを強く握りしめた。


 幼い頃から家族ぐるみで仲良くしていたトマス。村の中で唯一読み書きのできる人間で、王都で高い教育を受けたのに村に戻ってきた稀有な人物でもあり、そして何よりも幼馴染ジョアンの父である男。村の誰からも尊敬され、信頼されていたため、ドルフ村から外へ売りに出される物は、何であれ全て彼を通して行商人と交渉されていた。

 自慢の親友だと零した父の横顔を、アリソンは今でもはっきりと覚えているのに。

 その彼が、どうして父や自分たちを貶めるようなことをしたのだろう。


「──ソン、アリソン? ちょっと、大丈夫?」

「っ、ぁ⋯⋯ご、ごめんなさい、ぼうっとしちゃって⋯⋯」

「本当にそれだけ? どこか具合が悪いとか、痛んだわけじゃないの?」

「だ、大丈夫です。ただ本当に、その⋯⋯えっと、私の悪い癖なんです」

「そう? それならいいけど⋯⋯」


 もう下げるわね、と一声かけてラズの手が食事の終わった皿を取り下げていく。慌てて最後のフルーツを口に入れると、なんともいえない酸味が口内に広がる。


「それじゃあ、食事も済んだことだし、そろそろあなたの気になっていることを──つまり、ここがどこかっていう話をさせてもらうわね」

「は、はい」


 姿勢を正したアリソンにラズが口を開きかけた時、ふいに水差しの水が跳ねる音がした。別段おかしなことでもない、と思いかけて息を止める。

 誰も触れていない、テーブルの上に鎮座する水差しの中の水がひとりでに跳ねるなんてこと、あるのだろうか。


「⋯⋯来たわね」


 と、ラズが呟く。

 どういう意味か聞き返す必要はなかった。アリソンは間も無く、己の目にすることになったのだから。


 小さく跳ねた水が、徐々に狂ったように水差しの中で暴れ出す。バシャバシャと恐ろしいほどに大きく暴れる水に、ぎょっとしたアリソンを庇うように、ラズが身を寄せる。交わされた蒼の瞳は大丈夫だと伝えてくるが、本当に信じても良いのだろうか、と猜疑が頭をよぎる。

 やがて荒れ狂う水は、とうとう水差しの中から飛び出す。絨毯にぶちまけられた水は、布に染み入ることなくスライムのように動いて縦に伸び、人のような形へと変わっていく。

 頂点がぐにゃりと歪み、カスタードのようなアイボリーの髪へ。モノクルと切れ長の瞳が現れ、細い首と丸い曲線を描く身体が、そして最後に魚の尾鰭のようなマーメイドドレスが完成すると、水音は完全に止む。


 ガラスの奥の瞳が、怯えるアリソンとそれに寄り添うように立つラズを捉えて、にこやかに細められる。

 その様が捕食者のように見え、アリソンは激しくなる動悸を抑えようと無意識に手を胸の前で握りしめた。水から人へと転じた目の前の女性は、その反応を楽しむように一歩、また一歩と音を立てずにベッドへと近づいてくる。 

 怖い。けれどベッドの上に逃げ場はない。息を呑んだアリソンに、彼女はますます笑みを深くして──


「ねえ、エリザベス。その登場の仕方、どうにかならなかったの? この子、完全に怯えてるんだけど」


 張り詰めた空気の中、最初に口を開いたのはラズだった。

 エリザベスと呼ばれた女性は、きょとんとすると、「あら、お気に障りました?」と首を傾げる。


「それは申し訳ありませんわ、わたくしとしたことが。貴女が目を覚ましたと聞いて、いてもたってもいられなくて⋯⋯どうかお許しくださいませ。そしてようこそ、魔人の集落へ」


 目を見開いたアリソンに、エリザベスは両手を広げ、言祝ぎを告げる。


「わたくしの名はエリザベス。以後お見知り置きくださいませ、新たなる業火の(あるじ)よ」



◇◆◇


 

 ――魔人の集落? 業火の(あるじ)


「正しくは"()()()()()()()()()()()()()()()"ね。集落って言うより、魔界って呼んだ方が分かりやすいかしら」


 エリザベスの言葉に、ラズが補足を付け加えてくれるが、やはり意味が分からない。首を傾げたアリソンだったが、隣に立っているラズも、目の前で優雅に佇むエリザベスも、まるで分かりきったことのような顔をしている。

 この部屋で話についていけないのは、どうやら自分だけのようだ。


「安心してくださいませ。貴女が疑問に思っていることは、嘘偽りなく、すべて答えますわ。ですから貴女も、全てを包み隠さず教えてくださいませ」

「私、別に隠してることなんて⋯⋯」

「ええ、ええ。疑ってるわけじゃありませんのよ。ただ、わたくしも知りたいんですの。例えば、ここに来る前貴女の身に何が起こったのか。あるいは、こう言い換えても良いかもしれませんわね? 我らが同胞、イグニスの身に何が起きたのかを説明なさい、と」

「同胞⋯⋯」


 そうか、この人も魔人なのか、と、遅まきながら理解し、頭がくらくらする。

 水差しの水から現れた時点で彼女は明らかに人間ではなかったが、それでも改めて事実を認識するとゾッとしてしまう。

 もしかしてラズも魔人なのだろうか。だからあんなにも綺麗な目で、端麗な姿をしているのだろうか。


「その様子だと、貴女はまだ何も知らないみたいですわね。なら、先に質問に答えて差し上げますわ。どうぞ、好きなだけ聞いてくださいませ」

「じゃあ、あの⋯⋯ここは魔人の暮らしている世界だって言いましたよね?」

「ええ」

「じゃあ、どうして私はここにいるんですか? どうして私を連れて来たんですか? 魔人は人間を襲うんじゃないんですか?」

「あらあら、『連れて来た』というのは正しくありませんわね。わたくし達はただ、貴女をこの部屋に運んで、怪我の手当をしただけ。この世界へは貴女が自分で『来た』んですのよ」

「私が、自分で⋯⋯?」


 身に覚えがない、と思った。

 だがそもそも、アリソンが覚えているのは、レインナートと対峙したところまで。その後のことはあまりに曖昧で、ただ思い出そうとすると動悸が激しくなるばかりだ。


「自分で来たって、どうやって? それにラズさんがさっき、魔界は魔人にしか入れないって⋯⋯」

「ええ、それこそがわたくしが貴女を業火の(あるじ)と呼んだ理由ですのよ」


 どくん、と心臓が軋む。

 何を言っているのだろう。それじゃ、まるで──


「もう想像はついたのではなくって? ええ、貴女はもう人間ではありませんの。貴女はイグニスの炎を操る力を受け継ぎ、新たな業火の魔人となったのですわ。アリソン」


 ──私が、魔人に?


 悪い冗談に顔が引き攣るが、エリザベスはそんなアリソンのことをひどく愉しげな目をして見つめていた。モノクルのグラスの奥、垂れた目が獲物を捕らえた猫のように細められる。


「う、嘘ですよね⋯⋯?」

「嘘じゃないわ。魔界の門は、確かにアンタのために開かれていた。アンタがどれだけ否定しようと、その身体はもう魔人に近づきつつあるわ」

「⋯⋯近づきつつある? どういうことですか?」


 口を挟んだラズを見上げると、ラズに代わってエリザベスが「耳ざといですわね」と苦笑する。


「そう、貴女はまだ完全に魔人になったわけではありませんの。魔人としても人間としても、貴女はまだ不安定で不完全な存在ですわ」


 尤も、これからはただ魔人に近づくだけでしょうけれど。

 そう締めくくられたエリザベスの言葉に、アリソンはただ呆然とするしかない。


「どうして、そんなことに⋯⋯」

「それを知りたいのであれば、今度は貴女に説明してもらわなくてはなりませんわ。貴女の身にここに来る前に何があったのか、そして貴女に業火の(あるじ)の位を譲ったイグニスは、どうやって死んだのかを」


 身をかがめ、視線を合わせてきたエリザベスにびくりとして、アリソンは目を逸らす。

 エリザベスもラズも人間のように見えるのに、二人とも人間ではないのだ。そして、自分もいずれ人ではなくなる。

 怯えるアリソンに、エリザベスがフッと笑みを零す。気のせいでなければ、それはどこかせせら笑うような響きを伴っていた。目を逸らしているアリソンは、ラズがエリザベスを咎めるように睨んだことに気づかない。


「魔人が怖い?」

「⋯⋯」


 ラズの問いに黙り込むと、彼女は「そう」と端的にアリソンの答えを汲む。


「ねえ、ひとつ聞かせて欲しいの。イグニスはあなたのことを傷つけたことはある? あなたの目にも、彼は人間を襲う化け物に見えた?」

「そんなこと⋯⋯!」


 思わず身を乗り出して反論したアリソンは、はたと気づく。

 そうだ、イグニスさんは一度だって私たちを傷つけたことはない。きっと殺そうと思えば、殺せる瞬間なんていくらでもあったのに。

 それなのに、魔人と聞いただけで怯えたりするなんて、助けてくれた彼に失礼だ。


「⋯⋯ごめんなさい、失礼な態度をとって」

「いいのよ、人間と魔人が敵対してきたことは事実だもの。人は、そうも簡単にこれまでの価値観を変えられないものよ」


 慰めるように、いや事実慰めてくれているのであろうラズの言葉に、アリソンは俯く。

 恥ずかしかった。自分とレインナートの間に割って入ったイグニスのことを、ボロボロになってまで助けようとしてくれた彼のことを、魔人は恐ろしい化け物だからと決めつけて考えるなんて。


「それでは、答えてくれますわね? 何があったのかを」


 エリザベスの視線を、今度は逸らさない。正面から受け止めて、アリソンは静かに頷いて語り出す。


 自分たち家族とイグニスを襲った、あの忌まわしい惨劇の全て。

 一つ言葉を紡ぐたび、その場に戻ったような錯覚にとらわれ、アリソンは途中で何度も何度もつっかえ、どもり、嗚咽が零れるのを堪えなければならなかった。それでも最後まで話せたのは、話を聞いているふたりが決して急かすことなく、鎮痛な面持ちで黙って聞いていてくれたからだろう。

 ようやく全てを話し終えた時、気づけばラズに、そっと触れるか触れないかというぐらいの繊細な手つきで、背中を撫でられていた。


「⋯⋯辛いことを聞いてごめんなさい。話してくれてありがとう」


 痛みを堪えたようなラズの声に、アリソンは返事の代わりに俯いたまま首を振った。


「ええ、ありがたいですわね。おかげで不明瞭だった点が全て繋がりましたわ。人間界へ向かったイグニスと連絡が急に途絶えたこと、そしてその後、貴女が彼の所有する業火の門からこの魔界へやって来たこと。やはりわたくしは間違っていなかった。貴女は本当に、人の身でありながら魔人の力を手に入れたのですわ」


 確信を込めたエリザベスの言葉に、アリソンは顔をあげる。

 説明を求めるアリソンの視線に、エリザベスは有識者らしい鷹揚な笑みを浮かべる。それに対し、「勿体ぶってないでさっさと説明しなさいよ」と、苛立たしげに睨みつけたラズを一瞥し黙らせた彼女は、あのような話の後とは思えないほど楽しそうに話し出す。


「わたくし達魔人は、誰もが生まれながら二つの異能(アビリティ)を持っていますわ。ひとつは『再生能力』、と貴女方は呼んでいましたわね? そう、大抵の傷ならすぐに塞がる高い治癒力のことですわ。弱点は貴女も目にした通り、選ばれし勇者とやらが扱うあの聖剣。あの剣で斬られた傷だけはどう足掻いても治癒できず、魔人はただ死ぬのみですわ」


 血の滴る聖剣を思い出し、アリソンは無意識にシーツを固く握りしめる。

 ふと隣を見ると、ラズもまた険しい顔をして自分の右肘のあたりを、左手できつく握っていた。


「そしてもうひとつ、貴女がイグニスから引き継いだのは自然を操る力ですわね」

「自然を⋯⋯?」

「例えばわたくしは水を、そしてイグニスは炎を。式によって世界に干渉する魔術と違って、わたくし達魔人は自らの司どるものを自在に操れるのですわ」

「し、式? 干渉?」


 首を傾げたアリソンに、エリザベスは「あら」と口元に扇を当てて驚いた声をあげる。


「わたくしとしたことが、魔術の原理について説明するのをすっかり忘れていましたわね。アリソン、貴女は魔術とはどんなものだと思いますの?」

「えっ? えっと⋯⋯見たことはあんまりないんですけど、何もないところに、ビューン! って風を起こしたり、火を出したりすること⋯⋯ですか?」

「フフッ、ずいぶん可愛らしい例えですのね? そう、魔術は何もない『空間』に対して『式』を書き込むことで、『式』に書いた通りの現象を『空間』に引き起こすものですの。例えば⋯⋯そうですわね、ラズ、わたくしの手のひらに水の玉を出してくださる?」


 彼女の要求に、ラズが無言でじっとエリザベスの差し出した手のひらを見つめたかと思うと、次の刹那、パチンと弾けるような音を立てて、手のひらの上にぷかぷかと水の玉が浮かんだ。


「わあっ! えっ、すごいすごい! さっきまで何もなかったのに、ラズさんすごい!」

「お、大袈裟よ! ただの水の玉を出現させたって、何の意味もないじゃないの⋯⋯」


 はしゃぐアリソンに、ラズは居心地悪そうに身じろぎすると、ぷいとそっぽを向いてしまう。気を悪くさせたのかと思ったが、よくよく見ると、黒髪の間から覗く耳が少し赤い。

 

 ──もしかして、照れてる?

 大人っぽくて、こんなに綺麗な人なのに、褒められて照れ隠しにそっぽを向いたりするのだと思うと、なんだか可愛い。


「コホン。話を続けますわよ? この水の玉は、ラズが『水の玉を出す』という式を、わたくしの手のひらの上に書いて作ったものですわ。何もないところにポンと何かを出せるのは、魔術の強みですわね」

「すごい⋯⋯それって、なんでも出せるんですか?」

「理論上はそうですわね。でも複雑な挙動をさせたいのなら、それ相応の式を書く必要が出てきますわ。そうなると時間も掛かるから戦闘では不利ですわね」

「戦闘? 魔術って戦いで使うものなんですか?」

「そうですわよ? 元々は人間が魔物に対抗するために編み出したものですもの。もちろん、日常生活にも応用できますわ。例えば王都や聖都では、ランプに蝋燭の代わりに魔術で作った火の玉を使うそうですわよ」

「へえー⋯⋯」


 魔術でランプに火を灯せるなら蝋燭代が掛からなくて便利そうだなぁ、と思い、アリソンは感嘆の息を吐く。

 もしそうやって、色んなものを魔術で代用してしまえるのなら、きっと生活費がかなり浮くことだろう。もっと早く知っていたら──いや、知っていたところで意味がない。ドルフ村に魔術を使える人は誰もいなかったのだから、学ぶこともできず、魔術が使えたら便利なのになぁと意味もなく悶々とするだけだっただろう。


「さて、ではわたくし達の異能(アビリティ)は何ができるのかというと──こういうことですわ」

「わっ⋯⋯!? み、水がお花の形に⋯⋯!?」


 ラズの作り出した水の玉が、ニュルニュルと花の形へと変わる。バラになったかと思えば次の瞬間はユリになり、その次はカーネーション、スノードロップ、かと思えばチューリップに。変幻自在の水を前に、アリソンは目を白黒させる。


「わたくし達魔人は、魔術のように何もないところに何かを出すことはできませんわ。けれどその代わり、その場にあるものならどんな形をしていようと、自在に操れる──これは魔術にはできないことですわ」

「えっと、どうして魔術だとできないんですか?」

「魔術というのは、先ほども説明した通り、『空間』に式で干渉しているんですの。この水の玉でいえば、『水の玉』を『手のひらの上』に出現させている。でも、式はそれで終わりですから、それ以上のことはできませんの。動かすことも、大きくすることも、何もできない。一度式を完成して魔術として発現させた時点で、術者はもうその魔術に対して何もできませんのよ」


 確かに、水の玉だったものは、ラズではなくエリザベスの意思によって好き勝手な形に変えられてしまっている。花の形に飽きたのか、今はジンジャーブレッドマンの形だ。


「けれど、わたくし達の異能(アビリティ)なら、例えばわたくしなら、そこに水さえあればそれがどのような形であったとしても思い通りに動かせる。どんな形にも、どんな量にも。文字通り自由自在、変幻自在ですのよ」


 言いながら、ジンジャーブレッドマンの形をした水が、エリザベスの顔の3倍はあるような巨大な水の玉へと変わる。

 手品みたいだ、とアリソンは思う。ルノーがいたら、きっと目を輝かせて「もっと見せて!」ってねだるんだろうな。

 もうどこを探しても見つからない弟の笑顔に、胸がズキリと痛む。

 楽しんでる場合じゃない。すごいとはしゃいでいる場合でもない。そんなことをしても虚しいだけだ。大切な人たちが誰もこの世にいなくなった今は、もう。


「⋯⋯喜びませんのね。人の身でありながら、今や貴女にもこの異能(アビリティ)は備わっておりますのに」

「⋯⋯」

「そうそう、それとわたくし達は自分の司どる自然の加護も得られますわ。わたくしは水の中でも息ができますし、貴女も業火の主となったからには、例え地獄の業火に焼かれようとも生きられるはず。でなければ、貴女は家族と共に家の中で焼け死んでいたはずですわ」


 その方が良かった、とアリソンは思った。

 けれど、それを言うのはすんでのところで思いとどまる。エリザベスもラズも魔人なのだとしたら、イグニスは彼女らの仲間だ。彼女達の仲間が死んでいるのに、生き残った自分が「死んだ方がよかった」などと言うことが無神経であると、いくらなんでもアリソンにも分かる。


 と、ふいに違和感を覚えた。


 イグニスは死んでいる。

 イグニスは死の間際、自分が持つ炎を操る力をアリソンにくれた。

 でも、炎を操る力を持っているイグニスは、焼かれても死なない。


「あの、おかしいです」

「どうしまして?」

「どうしてイグニスさんは私に異能(アビリティ)を譲ったんですか? だって、イグニスさんは炎に焼かれても平気なんですよね?」

「でも、彼はレインナートの剣で斬られていたわ」


 はっきりとした声で答えたのはラズだった。彼女は何かの感情を堪えるように、できるだけ冷静であろうとする人間の顔をして、自分の膝下に視線を落としたまま、言葉を続ける。


「あの剣で斬られていなければ、炎の中でじっと身体が再生するのを待てば良かったでしょうね。でも、そうじゃなかった。彼は聖剣フォルティスでぐちゃぐちゃに引き裂かれて、満身創痍だった。絶対に死ぬ状態だった。でも、アンタはそうじゃなかった」


 顔を上げた彼女の肌は、蒼白だった。そんな中でも、燃えるように煌めく蒼い瞳が、星のように光っている。


「目の前にいるアンタは、まだ息があった。でもあのままだったら、焼け死んでいたでしょうね。だから彼は⋯⋯イグニスは、アンタに自分の力を渡すことにした。そうすることでアンタは焼け死なず、魔界にも来れるようになるって、分かっていたから。⋯⋯そうすれば、あたし達がきっとアンタを助けるって信じていたから、イグニスは⋯⋯」

「ラズさん⋯⋯」

「ねえ、お願いよ、アリソン。どうか、死んだ方が良かったなんて思わないで。生き残ったって何もないと思わないで。あの人が助けた命を、どうか、無駄なことだったと思わせないで⋯⋯!」


 アリソンはラズのことを何も知らない。知っていることといえば、美しい瞳があって、綺麗な人で、照れ隠しにそっぽを向くような子供っぽいところもあって、あとは作る料理の味が母のそれとそっくりであることぐらいで。出会ったばかりの他人なのだから、当たり前だ。

 だけど、どこか冷たそうな憮然とした表情をしていた伏し目がちな彼女は今、懇願するようにアリソンの左手を握って自分の額に当てている。

 

 これは、喪失を知る手だ。アリソンと同じ、大切な誰かを亡くした手。その手を前にして、本心を告げることはできない。

 彼女の言う通りだ。仲間が命と引き換えに誰かを救ったこと、それが無意味なもので無価値なものだったと思わせるなんて、そんなことはできない。そんな残酷なことがしたいわけじゃない。

 ただ、家族がもうこの世にいないこと。自分だけが生き残っていること。その事実が重たくて悲しくて、どうしようもないだけだ。


「⋯⋯ごめんなさ──」

「あらあら、起きたばかりなのに沢山お話しして、疲れさせてしまいましたわね。わたくし達は退室しますから、どうぞゆっくりお休みになってくださいませ」


 気を利かせたのかエリザベスはそう言うと、アリソンの手を握って頭を下げたままでいるラズの肩をそっと叩き、彼女に退室を促す。

 エリザベスが部屋のドアを開けると、ラズも緩慢な動きでワゴンを押しながらその後に続く。パタン、と音を立てて扉が閉まると、部屋の中はアリソンひとりだけになる。

 

 そう、自分ひとりだけ。

 これから先もこれが続くのだとしたら、それはなんて気の遠くなる話なのだろうと、アリソンは顔を覆った。

 ──家族に会いたい。

 お父さんの大きい手で頭を撫でられて安心したい。お母さんに「大丈夫だよ」と言ってもらいたい。ルノーを抱きしめて、守れなくてごめんねって言いたい。


「ッふ、ぅう⋯⋯っ」

 

 静かになった部屋の中、声を押し殺したアリソンの泣き声だけが小さく響く。まるで置いてけぼりをくらった子供のように、弱々しくて惨めな泣き声。

 実際、置いてけぼりにされたようなものだなとアリソンは笑おうとして、失敗した。あんなに優しい両親も、守るべき弟も、もうこの世にいないだなんて。そんな悪夢みたいなことが事実であると、この期に及んで信じたくなかった。

 ただ、あるべき日常が今のままずっと、いつまでも続けばいい。それ以外に望みなどなかった。たとえいつか、その望みが避けられない弟の死によって終わるとしても、どうかそれまでは穏やかな日々があれば、それだけでアリソンはよかったのに。


 どうしてそれらを、一夜にして奪われなければならないのだろう。

 それだけの悪を、自分や家族が犯したとでも言うのか。


 ぐちゃぐちゃになった思考の中に沈んでいると、ふいにコンコンとノックの音がした。慌てて涙を袖で拭い、ベッドから降りると、アリソンは「誰ですか?」と扉の向こうに向けて問う。


「わたくしですわ」

「その声は⋯⋯エリザベスさん?」

「寝る前に少し、わたくしとお話をしてくださいません? どうしても、貴女と二人だけでお話したいことがありますの」

「私と二人だけで⋯⋯?」


 それはまるで、ラズには聞かせられない話だと言っているも同然ではないか。

 戸惑うアリソンだったが、エリザベスはイグニスの仲間で、そして自分を助けてくれた人だ。その善意を信じることにして、アリソンは扉を開いた。



最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

そろそろあらすじに追いつきそうです。良かったら引き続きアリソンの物語に付き合って頂けると嬉しいです。


次回更新日:10/31予定

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