024 誤算
長い長い水底の果てに、彼女はいた。
どこまでも続く暗闇の中に溶けそうな黒髪を見つけた時、アリソンがどれだけ安堵したことかは筆舌し難い。けれど、「ラズさん」と名を呼びかけようとして気づく。彼女は一人じゃない。
蹲った彼女の隣にはもう一人「ラズ」がいた。もう一人のラズは、蹲った彼女と背丈も体格の細さも、伏せた目の睫毛の本数までそっくり同じに見えるが、その目の色だけが蒼ではなく、爛々と輝く赤色をしていた。
『あら、来てくれたのね。アリソン』
唇に笑みを描いた赤い瞳のラズに、アリソンは眉を顰める。
「──誰ですか、あなた」
『誰って、ひどいわね。アンタの探していたラズよ、見たら分かるじゃない』
「いいえ、違う。あなたはラズさんじゃない」
『⋯⋯それは、あたしの目が赤いから?』
赤い目のラズの問いに、アリソンは首を横に振る。
別に、瞳の色が赤色だから分かったわけじゃない。ここはラズの精神世界。瞳の色が違っている可能性だってある。それでも分かってしまったのは。
「ラズさんは、来てくれたのねなんて言いません」
聖都で大司教と戦っていた時、大司教の作り出した竜巻の中から弾き飛ばされた後に、ルークとヒナコを伴って戻ったアリソンを見たラズの表情を思い出す。
あの時、ラズは「なぜ戻って来たのか」と言いたげな、心底不思議に思うような、困惑しきった顔をしていた。
何を思ってラズがそんな顔をしたのか、アリソンには分からない。ラズが竜巻の中で未だ奮闘しているというのに、見捨てて逃げるような人間だと思われていたのだろうか?
だが、理解はできなくとも、ラズにとってアリソンが戻ってくることは想定外で、かつ、あまり歓迎すべき事柄では無かったのだということは分かった。
そんな彼女が、アリソンに「来てくれたのね」なんて笑いかけるはずがないのだ。
「ラズさんはきっと、私がここに来たことを喜ばない。また困った顔をするのか、それとも勝手に記憶を覗いたことを怒られるのかは分かりませんけど⋯⋯でも、来てくれたのねなんて言わない。それぐらいは知ってます」
『ふうん、そう?』
くすくす笑って、赤い目のラズが蹲ったままのラズの顎に手を掛ける。
『ねえ、可愛らしいナイトさんが来てくれたわよ? なのにあなた、喜んであげないんですって?』
「⋯⋯」
『だんまり? そうよね、全部見られちゃったんだものね。ねえアリソン、ラズはね、あなたに何を言われるのか怖くてたまらないんですって。イグニスの炎と、イグニスの瞳を受け継いだあなたにだけは糾弾されたくないんですって!』
「ッ黙って⋯⋯!」
甲高い声で腹を抱えて笑った赤い目のラズに、蹲っていたラズが初めて声を発する。耳を塞ぎ、悲鳴のように叫ぶ彼女に、アリソンは思わずたじろぐ。
ラズがこんな風に取り乱すところを、アリソンは一度だって見たことがない。いや、今しがた見てきた記憶の中には、似たような光景もあった。そうだとしても、アリソンの知るラズが、決して見せることのない振る舞いであることに変わりはない。
おずおずと手を伸ばしたアリソンに、蹲ったラズがびくりと肩を揺らし、傍の赤い目のラズの唇が弧を描く。
「ラズさん⋯⋯ですよね?」
「⋯⋯そうよ。幻滅したでしょ、ここまで来たってことは全部見たんだから」
「えっと、幻滅はしてませんけど、勝手にラズさんの記憶を見てしまったことは悪かったと思ってます。ごめんなさい」
一言謝ってから、すう、と息を吸い、彼女の肩に手をかけてアリソンは口を開く。
「ラズさん、辛かったですね」
その言葉に、驚いたようにラズが顔を上げ、その蒼い瞳と目が合う。吸い込まれそうな、夜明け前の美しい色。
やっぱりラズには燃えるような赤でも濁った黒でもなく、この蒼が似合うと思いながらアリソンはしゃがんで彼女と目線を合わせる。
「レインナートと知り合いだったのは、まあ、びっくりしましたけど。でも、あんな風に騙されて、ひどい実験をされて。辛かったですよね」
「⋯⋯あ、んた、何言ってんのよ」
「ラズさんはすごいなって話です」
「は?」
「あんなに沢山辛い目にあったのに、イグニスさんのことを信じたんでしょう? それって、すごいことじゃないですか」
それは、アリソンの純粋な思いだった。
あのような手酷い裏切りを受けたからには、もう誰のことも信じられなくなったっておかしくはない。それでも彼女は、イグニスを信じ、そして愛した。それにはきっと、途轍もない勇気を要したことだろう。
『アハッ、やめなさいよ。この後に及んでまでいい子でいる必要はないわよ、アリソン。ねえ、今どんな気分? 自分が心から信頼している復讐仲間が、その復讐相手と恋仲だったことがあるって知った気分はどう? 正直に言っていいのよ?』
ラズの瞳がアリソンを映して揺れるのを見て、赤い目のラズが面白くなさそうに口を挟む。彼女の言葉に、蹲っていたラズがびくりと怯えたように肩を震わせる。
言われた言葉を頭の中で反芻したのち、アリソンは首を傾げた。
「恋仲には、見えませんでしたけど」
『はぁ?』
「恋仲って、相手のことを奴隷商人に売り渡すような関係のことを言うんですか?」
絶句した赤い目のラズに、アリソンは「違いますよね」と続ける。
「さっきも言いましたけど、そりゃ、ラズさんがレインナートと知り合いだったことはびっくりしましたよ。でも、どう考えたってラズさんに悪いところはないじゃないですか。私だって家族を殺されるまでは、勇者ってすごいんだなって思ってたし、憧れてましたよ。それが悪いことだって言うんですか?」
『それとこれとは、」
「同じですよ? 私がラズさんを『なんでレインナートと仲良かったんだ』って言っていいなら、ラズさんだって私に『なんであんな奴に憧れてたのよ』って言っていいことになります。ラズさん、そう思いますか? そう言いたいですか?」
話を振られた本物のラズが、困惑しながらも首を横に振るのを見て、アリソンは彼女の手を取る。白くて綺麗で、力を込めたら折れてしまいそうなほど細い指。
けれどこの指先が振るう剣の重さを、そこに込められた覚悟の重さを、アリソンは知っている。
目を合わせると、いつになく不安そうな蒼が見返してくる。そんな顔は似合わない。ラズにはいつものように澄ました顔で、逆境にあっても不敵に笑っていて欲しい。そう心から願いながら、アリソンは思いを伝える。
「なら、ラズさんも悪くない。そうでしょう?」
一瞬、目を見開いたのち、ラズは再び目を伏せ、俯いてしまう。
「⋯⋯てよ」
「ラズさん?」
「やめてよ! そんなんじゃない、そんなんじゃないのよ⋯⋯!」
ラズは、耐えられないと言いたげに頭を振って取り乱す。
「あたしは、アンタと違うのよ。アンタは悪くない、でも、あたしは⋯⋯」
「どうして違うんですか? ラズさんも同じじゃないですか。レインナートには騙されてただけで、」
「違うの! だってイグニスが死んだのはあたしのせいなのよ⋯⋯!」
息を呑んだアリソンに、ラズはくしゃりと顔を歪める。
「アンタはさっき、あたしがイグニスのことを信じてすごいって言ったけど、本当はあたし、イグニスのことだって散々疑って、心を閉ざしてた。アンタが見てないだけで、本当に酷い態度もとった。どころか、レインナートがどんな人間か知っていたのに、あの人には最後まで言えなかった! もしかしたらあんな男だって、彼の誠意に触れれば変わるんじゃないかなんて馬鹿みたいなことまで考えて、そのせいであの人は人間界に行って、レインナートに殺されたのよ!」
『そうよ、あたしのせいで死んだのよ。あたしが勇者は話せば分かってくれるような人じゃないって、教えてあげれば良かったのに。そうすればイグニスは死ななくて済んだかもしれない。アリソンの家族だって巻き込まれることはなかったかもしれないわ』
ラズの懺悔のような悲痛な叫びに合わせて、赤い瞳のラズがくすくす笑いながら重ねてくる。土足で踏み入ってくるような、アザの上から容赦なく力を入れてくるような彼女の言葉は確かに痛い。
でもそれ以上に今は、怒りが勝った。
「ふざけないでください! そんなの、ラズさんのせいなわけない!」
赤い目のラズに叩きつけるというよりは、目の前で蹲ったラズに言い聞かせるつもりで、アリソンは握った拳を震わせながら声を上げる。
「ああしてればとか、こうしてればとか、そんなことを追求したって意味なんてない! ラズさんの罪の意識を利用して、つけいって! 傷つけるような真似はいい加減にしてっ!」
『そうかしら? あなたは考えたことはないの? もしも──』
「考えたって意味なんてないじゃないですか! だって、誰にもわからないんですよ、そうならなかった未来のことなんて!」
例えば、ラズがイグニスを引き留めていたら。例えば、イグニスをもっと早く逃していたら。例えば、もっとトマスを警戒していれば。
もしかしたら、赤い目の彼女の言うようにいい方向に変わったかもしれない。だけど、逆にもっと酷いことになったかもしれない。あるいは、そうしても何も変わらなかったかも。
そんな無数のもしもの先のことなんて、誰にも分からない。そうならなかった、それだけが答えだ。
赤い目のラズがこれ以上何かを言う前に蒼い瞳のラズを背中に庇い、アリソンは偽物の彼女を毅然と見据える。
「私とラズさんを、ここから解放してください」
『解放? ここはあたしの⋯⋯ラズの精神世界だし、あなたに至っては勝手に入ってきただけじゃない? それをまるであたしが閉じ込めてるような言い草はやめてほしいんだけど?』
「いいえ、ここにラズさんを閉じ込めて、私をもぐらせたのはあなたです。⋯⋯そうですよね、導師さん」
「導師⋯⋯?」
眠っていたため、現実の世界での出来事を知らないラズは首を傾げるしかないが、アリソンには確信があった。
あの時、突然現れ、ラズの目を覚ますことができるという導師の言葉を疑わなかったのは、目を覚まさない彼女を前に精神的に参っていたからだ。あの時のアリソンにとって、他の昏睡した街の人々の目を覚まさせたという彼の言葉に飛び付かないでいるのは不可能だった。
けれど、ラズを見つけて落ち着いた今、導師を疑わずにいるのは不可能だ。
「今思えば、あなたの登場は、あまりにもちょうど良かった。まるで私が参るのを待っていたみたいに。本当はあなたが、毒のある柘榴をばら撒いた犯人なんじゃないですか?」
『やだわぁ、ひどいひどい。ここは彼女の精神世界なのよ、あたしが彼女の生み出した自責の念だとは考えないの?』
「私はラズさんの全部を知ってるわけじゃないけど、でも最初に言った通り、あなたはラズさんじゃないってことだけは分かります。だって、たとえラズさんが10人に分裂したとしても、その中の誰一人、私を見て『来てくれたのね』なんて喜びませんから」
ラズの姿をしている理由は分からないが、恐らくはこちらを惑わすのが目的ではないだろうか。
回答を突きつけたアリソンに、赤い目のラズはふっと顔から全ての表情を消すと、「潮時か」と呟く。同時に、煙のようにその姿が掻き消えたかと思うと、次にその場に立っていたのは、現実世界で顔を合わせた導師その人──ではなく。
「ま、凡人にはこのぐらいが限界だよね。そこの馬鹿な女の偽物だって見抜いただけでも褒めてあげるよ。⋯⋯欲を言えば、そんな直感みたいなものじゃなくて、もっと理論的かつ、合理的な手段で見抜いて欲しかったけどね」
そう言って、目深に被っていたフードを外した少年──セネカ・レミントンはせせら笑った。
◇◆◇
「アンタ⋯⋯!」
「セネカ・レミントン⋯⋯!?」
顔を顰め、唸り声を上げたラズと同時に、アリソンも怒りと動揺の声を上げる。
憎い仇の一人の甘言に騙され、なおかつその正体を見抜けなかった屈辱は、聖都でヒナコの正体を知った時と同じぐらい、いやそれ以上に胸に突き刺さる。
またまんまと騙された──しかも今回は、確信犯だ。爪が食い込んだ拳から、痛みを感じ取れないほど頭が真っ赤に染まる。
「へえ、僕のこと知ってるんだ? 説明が省けて助かるな。初めまして、馬鹿な村娘たち。僕の術中で身動きひとつできない気分はどう?」
「⋯⋯いい気分なわけないじゃないですか」
「アハッ、そりゃそうだ。さあ、どうする? 這いつくばって命乞いでもする? ああ、媚びは売らないでよね。芋くさい田舎の村娘はもちろん、勇者様のお手つきも勘弁願いたいからさぁ」
小馬鹿にして鼻で笑った彼の言葉に、ラズが唇を噛み締めるのを見た瞬間、アリソンの中で何かが弾けた。
次の瞬間、気づけばセネカの顔が目の前にあり、そして。
「ぎゃっ!?」
──ガツン、と音がして、目の前の少年の顔が吹っ飛んでいた。
「なっ⋯⋯なぐ、殴ったのか!? この僕を!??」
いや、吹っ飛んだのは顔だけではない。体ごと吹っ飛び、間抜けな格好で転がったセネカを見下ろして、アリソンは「なんだ」と呟く。
なんだ、天才魔術師って、こんな簡単に殴れるのか。
「殴りましたけど、何か」
「な、なに、何かって、お前ッ」
「いいからさっさとラズさんを私に返してください。私、怒ってるんですよ。全然目が覚めないラズさんを見て、私がどんな気持ちだったか分かりますか?」
分からないからできるんでしょうけど。
いまだに何が起きたのか分からないと言いたげに、殴られた頬を抑えてこちらを見上げるセネカ。その胸倉を掴み上げてもう一度拳を構えると、彼は「ヒッ」と反射的に竦んだ後、カッと屈辱に顔を赤くして睨みつけてくる。
「くそっ、調子に乗るなよ! この、村娘風情がッ!」
「ッアリソン、避けて!」
ラズのつんざくような声のおかげで、咄嗟に飛び退いたアリソンの目の前で、風の刃が弾ける。セネカの魔術だ。
息をついた彼は、何処からともなく取り出した杖をこちらに突きつけると、乾いた声で笑う。
「はははっ! どうだ、無詠唱のこんな大きな魔術を見るのは初めてだろ?」
「無詠唱⋯⋯?」
「普通、魔術は大きなものであればあるほど複雑なのよ。だから実際に口に出して唱える人もいるの、それが詠唱ね。で、無詠唱というのはつまり、複雑な式を口に出さずに瞬時に書けるってことよ」
「へえ、そうなんですね⋯⋯でも、大司教も詠唱してなかったですよね?」
ラズの説明を受けアリソンの無学さに笑っていたセネカが、最後の一言にピシリと固まる。額に青筋が浮き出し、杖を握った手がわなわなと震える。
「うるさいうるさいうるさい!! どいつもこいつも人と比べやがって! 僕の方が魔術の才はあんな奴らよりも上なんだ! この年で、これだけの魔術を使いこなせるのは僕だけなんだッ!!」
「⋯⋯だからなんです? 私にとってあなたは、私の村を焼いて、ラズさんをこんなところに閉じ込めた犯人。それだけです」
「なら、恐れろ! 慄け! そして無様に這いつくばって泣いて、命乞いして見せろ!!」
感情的な咆哮と共に、炎の竜が襲いくる。
常人であれば逃げるべきだが、アリソンにはイグニスから受け継いだ業火の加護がある。立ち尽くしたままのアリソンは、ラズに目配せする。揺さぶりをかけられ弱っていた彼女も、セネカが容易くアリソンに殴られるところを見たおかげか、いつもの落ち着きを取り戻しており、アリソンの意図を汲んで速やかに退避した。
「はははっ、ここまで来たのにお仲間に見捨てられるなんて可哀想⋯⋯っ? は? 待て、お前なんで、なんで僕の炎の竜を受けておいて無傷なんだよッ!?」
「なんでと言われても⋯⋯」
ラズの弱みを突くからには、セネカも彼女の記憶を盗み見たのかと思っていたが、そうではないのか、あるいは単に見落としていたのか。
しっかり見ていれば、アリソンがイグニスの異能を引き継いでいて、炎に焼かれることはないと知っているはずなのに。醜態を晒して吠える少年の姿を見ていると、こんな人間のことを少しでも「勝てるかどうか」とエリザベスに問うた日のことが、馬鹿馬鹿しく思えてくる。
同時に、怒りもまた増す。こんな無様な、ヒステリックに喚き立てるだけの子供に、村が焼かれただなんて。
セネカが放った炎の残り滓を操り、彼が作った竜をそっくりそのまま返すと、彼はギャアと悲鳴を上げながらも防壁魔術を編み上げる。
他でもない彼自身が練り上げた炎だ。そこにアリソンの操作が加わったことで、威力は何倍にも増している。ジリジリと消えていく防壁に、セネカの歯が軋む。
「なんなんだ、なんなんだよ、お前ッ! 反射魔術なんて、使ってすらいなかったのになんで──」
苛立たしげに、防壁を増やしながら呟いた彼の言葉が不意に途絶える。驚愕に見開かれた目の奥に、「まさか」と言いたげな光が揺れる。
「嘘だろ、お前、まさか魔人⋯⋯!?」
「いけませんか? あなたと同じ種族でいるぐらいなら、そっちの方がずっと良いじゃないですか」
ビキビキと、増やしたばかりの防壁が崩れていくのを見るセネカの顔が引き攣っていく。
希代の天才魔術師だの、無詠唱だの、どれだけ凄いのかと思っていれば、こんなものなのか。そんなアリソンの思考を読み取ったのか、セネカが「ふざけるな!」と吠える。
「この程度で勝ったと思うなよ! 僕は──!」
言い終わらない内に、防壁共々セネカの姿が炎に呑まれていく。
あの日の炎に包まれた我が家と肉の焼ける臭いを思い出しながら、アリソンは感傷ごと魔術師を焼き払った。
◇◆◇
「大丈夫ですか? ラズさん」
「ええ、まあ、おかげさまでね」
巻き込まれないよう、離れていたラズに駆け寄ると、彼女は気まずげに視線を彷徨わせる。
「⋯⋯その、迷惑かけて悪かったわね。ひどいところも見られたし、それに⋯⋯」
「いいんですよ、そんなの。全然気にしてませんから」
アリソンはそう明るく言ったが、ラズの顔は曇ったままだ。
きっと、私が気にするとか気にしないとか、そういう話ではないんだろうな、とアリソンは思う。ラズが気にするのだ。
「ラズさんが気になるなら、何も見なかったことにします。それで、おはようからやり直しましょうよ。それじゃ、だめですか?」
「⋯⋯アリソン、」
「ね、はやく帰りましょう? ラズさんがいない間、とっても寂しかったんですから。嫌ってほど、構ってもらうんですからね」
彼女の手を取り冗談混じりに言うと、ラズもようやくいつもの調子を取り戻して「しょうがないわね」と、小さく笑ってくれる。
「そういえば、帰り方分からないんですけど、どうやって帰ればいいんですか?」
「あたしに聞かれても⋯⋯ああ、でもアイツがいなくなったなら、術は解けてるんだから、多分──」
多分、のその先を聞くよりも早く、嫌な気配を感じ、アリソンは咄嗟にラズを突き飛ばす。
「っアリソン!」
焦ったような彼女の顔を見ながら、アリソンは背中に冷たいものが触れたのを感じた。それが何か、振り返って確かめるよりも前に、重い衝撃で体が前のめりに倒れる。
「やれやれ、あのぐらいでいい気になってるからそんな目に遭うんだよ。どう、ドブネズミらしく這いつくばる気分は?」
背後から現れたのは、先ほど焼き払ったはずのセネカだ。
彼の魔力からわずかに冷気を感じられることから、先ほど背中に感じた衝撃は氷結系の魔術だろうかとアリソンは推測する。大方、魔術で巨大な氷塊でも出して、アリソンを地面に倒しでもしたのだろう。
地面から起き上がれないままぼんやりしているアリソンに、彼は忌々しげに舌打ちをする。
「もうちょっと嘆いたりできないの? 可愛げがないなぁ」
「あなたに可愛いと思われたら寒気がするので、ありがたいですね」
「黙れ! 這いつくばってるくせに、偉そうに言い返すな!」
「⋯⋯アンタ、なんでまだ生きてんのよ。まさか生き返った、なんて言うつもりじゃないでしょうね?」
短剣を構えようとして武器がないことに気づき、内心舌打ちをしながらも、そのことは顔におくびも出さずに声を発したラズに、セネカは「これだから無学な奴は」と得意げに笑う。
「女神ベガがお作りになったとされるこの世界で、神の理を無視することはできない。どんなに優れた魔術師でも、今まで誰かを蘇生できた事例はない。そんな芸当は魔人にだって不可能さ。もちろん、いつかはこの僕がやり遂げてみせるけど──」
長い前置きの末、耳にかかった髪を払い除け、セネカは語り出す。
「ここはお前の精神世界で、そこにどれだけ自分の魂を飛ばすかは術者である僕が決められることだ。そこの村娘もお前も、魂の全てがここにある。だけどさっきまでの僕は、僕の魂のうちほんの少しに過ぎなかった。魂の一部が焼き切れたからって、現実の僕が死ぬわけじゃない。まあ、お前たちは魂の全てがここにあるから、ここで死んだら、現実でも廃人同然になるだろうけどね」
「つまり、魂の一部を送り込んだらあっさり負けたから、また新しく魂を送ってきたってこと?」
「あっさりは余計だ! それに今度は一部なんかじゃない、完全な、完璧な僕だ! そもそも、心の事象がそのまま形になる精神世界では、ここを知り尽くしてる僕の方が有利なんだ。ここからは、圧倒的な格の違いってやつを教えてやるよ」
ニヤリと笑ったセネカに、アリソンは立ちあがろうとして、そういえば氷塊がのしかかっていたのだと思い出す。首を回せば、やはり先ほどの推測通り、巨大な氷塊が背中に乗っかっていて、身動きが取れない。
それがなんだ。氷など炎で溶かせば──そう思い、フランベルジュを呼び覚まそうとして気が付く。
アリソンはあの時、宿屋から着の身着の儘でラズの精神世界に飛ばされた。
つまり今のアリソンは、武器を装備していない。
魔力に反応して炎を纏うフランベルジュどころか、いざという時のための短剣一本すら、手元にはないのだ。
「僕らが魔術でいくらでも世界に影響を与えられるのと違って、魔人の力じゃ、その場にあるものしか操れないんだろう? しかも、見たところお前は魔術が得意じゃあない」
芝居ぶった喋りをしながら、セネカはアリソンの横を通り過ぎて、ラズへ近づく。
待て、と開いた口が乾いている。
ラズは毅然とセネカを見据えているが、彼女も武器を持っていない。ラズはアリソンと違って魔術を扱えるが、奴の言葉を借りれば「完全体」のセネカ・レミントンと魔術で戦っても大丈夫だろうか。
いや、大丈夫なはずだ。ラズは強い。魔術の無効化だってできる。だけど。
心臓が嫌な音を立て、顔を歪めたアリソンを横目に見下ろし、セネカは「その顔が見たかったんだよ」と舌なめずりをする。
「お前に炎が効かないことはもう分かったんだ、2度と炎なんか出してやらないよ。大人しくそこで這いつくばって見てなよ、お仲間が僕になぶりものにされるところをさぁ!」
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
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