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003 英雄と村娘



「い、いやぁああああああ──ッ!!」


 弟の前で情けない姿を見せたくない、なんて姉としての矜持は、知人が磔になった姿の前にはなんとも無力で、気がつけばアリソンはルノーを抱きしめたまま悲鳴をあげていた。

 自分が取り乱せばその分、腕の中にいる弟も怖がらせてしまうと分かっていたのに、それでも我慢できない。

 磔になったイグニスは意識がないのか、間近で上がった悲鳴にピクリともせず、両腕を広げたまま項垂れている。


「喜ぶどころか悲鳴をあげるなんて、やはり君も罪人だったのか。それなら、見過ごすわけには行かないな」


 背後でこつりと響く足音に、弟を強く抱きしめたままアリソンは振り向く。橙色の髪の青年は、憐れむようにその優しげな緑色の瞳で自分を見下ろしていた。


「あ、あなたが⋯⋯やったんですか⋯⋯?」

「それは君のご両親のことかい? それとも、そこで磔になっている男のこと? まあ、そのどちらもこの俺、勇者レインナートの功績なんだけどね! 間近で見れて嬉しいだろう?」


 ──この人、何を言ってるんだろう。


 芝居がかった仕草で両手を広げた彼と自分はいま直に向き合っているはずなのに、この男の紡ぐ言葉が一つも理解できない。まるで春の木漏れ日のように、青年はどこまでも無害でどこまでも穏和そうな顔をしているというのに、何か致命的なものが噛み合っていない。

 それに、彼は自分を「勇者レインナート」だと名乗ったが、そんな馬鹿な話があるわけない。本物の勇者は王都にいるはずだ。こんな田舎までわざわざ出かけてくるなんてあり得ない。


 となれば、この青年は自分を「勇者」だと思い込んだ狂人なのだろうか?

 理解できないものを前にし、恐怖で竦むアリソンを奮い立たせたのは、両手に伝わるルノーの温もりだ。両親が最期まで守ろうとしたのであろう弟を、姉である自分が守らなければ。

 逃げ出したくなるのを堪えて、アリソンは震えながら口を開く。


「ど、どうしてですか。どうしてこんなことを!」

「ははっ。君、頭が悪いって言われないかい? まあ、しょうがない。俺は勇者だからね、例え相手が地獄行きの決まった罪人であろうと、優しくゆっくり、五臓六腑に染み渡るよう教えてあげよう! なに、答えは簡単さ! ──こいつが魔人だからだよ」


 歯を見せ、ひとしきり楽しそうに笑った後、レインナートを名乗る青年は不気味なほど表情をそげ落とす。それを見て肩を震わせたアリソンの前にしゃがみ、視線を合わせると彼は言った。


「1、あの男は魔人だから、その罪を贖うべくああして磔になっている。2、君たち家族は人間だが、あの男が()()()()()()()()()()()()()から、その裁きを受けた。それだけだよ」


「い、イグニスさんが⋯⋯魔人?」


 語尾に近づくほど疑念の増した声に、相対するレインナートの眉がピクリと不快そうに跳ね上がるが、アリソンには彼の気持ちを考慮している余裕などない。


「そんなわけないよ! イグニスおにいちゃんは、そんなこわい『カイブツ』なんかじゃない!」

「弟の言う通りです! 彼は私たちと何も変わらない、普通の、優しくて物知りな⋯⋯!」


 ガツン、と大きな音を立ててレインナートの拳が壁にめり込む。その振動のせいか、ぶら下がっているイグニスの両足が僅かに揺れる。

 ルノーとアリソンがびくりと言葉を飲み込むと、レインナートが鼻で笑う。


「怯えるくらいなら、最初からやらなきゃいいんだよ。魔人の味方なんて」

「み、味方なんて⋯⋯私たちそんなこと」

「へえ? それなら、身をもって無実を証明してもらおうか」


 血生臭く、未だに燃え盛っている部屋の中にはそぐわないほど、明るく楽しげな様子でレインナートは言った。鼻歌さえ歌い出しそうな彼は立ち上がると、アリソンの腕の中で縮こまっているルノーを強引に掴んで引き摺り出そうとする。


「や、やめてください! やめて! ルノーを離して!」

「おねえちゃん! たすけて、おねえちゃんっ!」

「ハァ、面倒臭いなぁ。虫ケラが俺に抵抗しないでくれよ」


 アリソンもルノーも全力で抵抗したが、力の差は歴然としていた。ため息混じりのレインナートに赤子の手を捻るような簡単さでルノーを取られ、アリソンは半狂乱になって奪い返そうとするも、足蹴にされ地面を無様に転がる。

 地面に這いつくばったアリソンの耳に、ルノーの怯える声と、それを宥めようとするレインナートの声が響く。先程の乱暴さからは程遠い、赤子をあやすような優しげな声にゾッとする。部屋の中は茹だるような熱さだと言うのに鳥肌が立って仕方がない。


 キラリと何かが光って、宙を舞って地面に落ちる。

 思わず目で追うと、それは、短剣だった。

 片手でルノーを掴んだレインナートが、もう片方の手で放り投げたらしい。手を伸ばさなくても拾えるような近さに、人を殺せる凶器が転がっている。だがそれよりも、アリソンは黒い柄に刻まれた銀の模様に感じた見覚えに、眉を顰める。

 どこで見たんだっけ。思い出そうとこめかみを押さえたとき、ふいに、今となっては懐かしいばかりの記憶が頭の片隅を過ぎった。

 ああ、そうだった。これは、この短剣はあの時の。


「これは、あの時イグニスさんが持っていた⋯⋯?」

「そうだよ、あの魔人が持っていた武器だ。よく知ってたね? 魔人にしては悪くない趣味だと思ってね、取り上げておいたのさ。いやぁ、あの時は参ったよ。聖剣で斬ったらすぐに死ぬと思って普通の剣で痛めつけていたら、まさか逃げられるとはねえ。セネカとニーナにも経験を積ませてあげようと思ったんだけど、その隙をつかれるなんて。俺もまだまだだね」


 逃げられたとは──まさか、初めて出会った時にイグニスが怪我をしていたのは、この男の仕業なのか。

 それに、セネカとニーナとは? いったい誰のことなのか。

 唐突に出てきた聞き慣れない名前に困惑していると、レインナートが「俺の仲間さ」と説明する。


「今この家を包んでる火はセネカの魔術なんだ。凄いだろう? さあ、そろそろ御託はよそう。今から君はその短剣で持って、君と君の弟の無実を証明してみせるんだ」

「証明って⋯⋯」


 未だルノーを掴んだままのレインナートは、穏やかな面差しをなんら崩すことなくにこやかに笑う。


「その短剣で、そこで虫の息になっている魔人に止めを刺すのさ。そうしたら君の無実を信じて、君と弟は生かしてあげよう」


 ひゅ、と喉から掠れた音が出た。


 止めを刺す。

 それはつまり、その手でイグニスを殺せということだ。

 皮膚の焼け爛れた様子から、彼も両親のようにとっくに亡き者になっているとばかり思っていたのだが、まだかろうじて生きている、らしい。

 けれど、そんな彼を殺せとレインナートは言う。アリソンとルノーの潔白のために。


「も、もし、出来なかったら⋯⋯?」


 分かりきったことだった。それでも、問わずにはいられなかった。

 震える唇で言葉を紡いだアリソンに、レインナートが緑の瞳を一瞬だけ丸くし、次の瞬間、ふっと目尻を下げて微笑み、答える。まるで聞き分けのない生徒にゆっくり指導をするように。


「その時は、魔人に加担していた罪で君と君の可愛い弟を殺すだけだよ」


 ──選べ、とレインナートは告げる。


「自分と弟の命か、そこでもがいてる死に損ないの命か。君が決めるんだよ」


 壁を見上げる。磔になり動きを封じられた男が、か細い呼吸に合わせて身体を僅かに震わせている。ジョアンに言葉を失わせたあの美しいかんばせがかろうじて保たれていなければ、彼だと到底分からなかったであろうほどに肌の焼け爛れた痛々しい姿の男。

 男から視線を逸らす。慈悲深そうな微笑を浮かべるレインナートの腕の中には、怯えきった弟が逃げようともがいている。


 弟の命か。

 それとも、魔人であるイグニスの命か。


「おねえちゃん、だめ! こんなウソツキのいうこときいて、イグニスおにいちゃんをころしちゃやだよぉ!」

「ははっ、酷いなぁ。俺は約束は守るよ? 勇者だからね」

「ちがうもん! おとーさんとおかーさんを、イグニスおにいちゃんをあんなふうにしたオマエが、『ユウシャサマ』なわけない! だからウソツキだ⋯⋯!」


 暴れるルノーを、それまでまるで意に介さずにいなしていたレインナートが、目を見開く。その一瞬、絶え間なく浮かべ続けていた優しげな笑みが削ぎ落とされ、無表情になったのをアリソンは見た。そしておそらく、ルノーも。


「俺が、勇者じゃない? ⋯⋯もしそうなら、俺はとっくにお前なんて殺してる。魔人を慕う子供なんか、生かしておく必要もない。でも、君たちは幸運だ! 何故なら俺は勇者だから! だからこそ、こんな救いようがない君たちにチャンスを与えているんだ!! 分かるだろう!? さあ、分かったなら早く行動に移すんだ!」


 ──御託はいい、さっさと殺せ。


 言外に威圧してくるレインナートに、アリソンは震えが止まらない。

 彼は未だルノーを手中に収めたままだ。それに、弟を掴む手により力が入っているように見えるのは、きっと気のせいではない。その証拠に、身を捩るルノーの顔が引き攣り出している。


 助けなきゃ。せめてルノーだけでも。

 心臓が早鐘を打つ。痛いぐらいに高鳴る音を聞きながら、アリソンは戦慄く手を必死に動かし短剣を握る。

 殺したくない。

 でも殺さなければ、レインナートは何の躊躇もなくルノーを切って捨てるだろう。

 そう、だからこれは仕方がない。自分は好き好んで彼を殺したいわけじゃない。ただ、弟を守るために仕方がなく、この息も絶え絶えの男を殺すのだ。

 それに、とアリソンは思う。それに、イグニスは魔人だったのだと男は言った。

 魔人は人間を害するモノで、恐ろしい怪物で化け物で。だからこれは人殺しじゃない。私は間違っていない。ルノーを守るためにはこうするしかなくて、だから、だから⋯⋯


「⋯⋯っ、い⋯⋯」


 頭の中をぐるぐると回る言い訳めいた言葉たちに背中を押され、ついに意を決して短剣を振り上げた時、一度も口を開くことのなかった死にかけの男が何事かを呟いた。そのことがアリソンに、目の前の男がイグニスであることを思い出させる。

 噛み締めた歯からカチカチと軋むような耳障りな音が鳴り出す。手のひらに汗が滲み、短剣を握る手がどうしても落ち着いてくれない。

 心臓も歯も、貫くような視線に晒された背中も、どこもかしこも痛くて苦しくて。発作を起こしたような荒い呼吸の音が自分から発せられているのを聞きながら、アリソンは短剣を振りかざしたまま固まってしまう。

 それを見た男は、今度こそ、正確な言葉を舌に乗せた。


「それで、いい。アリソン」


 私を殺せ、とその唇が音もなく動くのが見えた。見えてしまった。

 伏せられた赤い瞳が。煤だらけになった黄金の髪が。目尻のシワが。血を流し続ける手のひらが。焼け爛れ、めくれた皮膚が。そして、レインナートのしつらえたかのような優しげな微笑よりも、ずっと本心を晒す痛みに塗れた優しい低い声が。

 その全てが、どうしても化け物には見えない。殺していいように思えない。殺したくない。だって、この後に及んで殺せだなんて。自分を殺して生きろだなんて。ああ、でも殺さないと弟が。ルノーが。


「⋯⋯そうか。君は選べないんだな」


 ガタガタと、短剣を振りかざしたまま動けないアリソンの背中に、冷たく突き放すような声がかかる。


「それなら、仕方ないね。恨むなら君を見捨てたお姉ちゃんを恨むんだな」

「待っ──!」


 なりふり構わず振り返ると、弟の空色の瞳と目が合った。大きく見開かれた、その一瞬を切り取ったような。握りしめた短剣が手のひらを滑り落ちるのがまるで遠くの出来事のようだ。すぐさま飛び出しても受け止めることは叶わず、ルノーの小さな身体はなす術なく床に落ちる。


「これが、君の選んだ結末だよ」


 軽やかに、にこやかに。

 教会の窓に描かれた天使のような顔でレインナートは笑って、大仰に手を広げて見せた。



◇◆◇



「あ⋯⋯あぁ⋯⋯っうあぁああああ――ッ!!」


 頭をかきむしり、半狂乱になってアリソンは叫んだ。

 物言わぬ弟の体を抱き上げると、その拍子に血がぼたぼたとこぼれ落ち、自分の膝と床に血溜まりを作っていく。


 ──これは嘘だ、とアリソンは叫びながら思った。


 さっきまで生きていた弟の鼓動が聞こえなくても、コロコロと変わる表情が無くなっても、それでも認めることなどできない。

 ルノーが自分よりも先にこの世を去るであろうことは覚悟していた。けれどそれがこんなにも早いだなんて、こんなあっけなく、突然に奪われるものだなんて思ってもみなかった。


「あぁあッ⋯⋯っルノー、ルノー⋯⋯!」


 震える手で弟を揺さぶり、大きく開いた目から涙を流すアリソンに大きく影が差す。それは近づいて来たレインナートのものだったが、腕の中の弟の冷たい体のことで頭がいっぱいのアリソンは、そのことに気がつかない。


「ねえ、君さ⋯⋯」

「ルノー、ルノー、目を開けてよぉ⋯⋯!」


 己に全く気がつくそぶりを見せないアリソンに、苛立ったように眉をしかめるレインナートが何を思っていたかなど、この場にいる誰にも分からない。

 ただ分かるのは、次の瞬間、無防備な少女の頬を、勇者の手のひらが容赦なく襲ったことだけである。


「ぅ、ぁあっ⋯⋯!」

「さっきから呼んでるのに、どうして返事をしないんだい? 最低限の礼儀もないなんて、人としてどうかと思うよ?」


 悲鳴をあげることもできず、無様に倒れたアリソンを、レインナートが先ほどと全く変わらない表情で見下ろす。 

 よろよろと顔を上げたアリソンは、絶望的な顔で彼を見上げる。

 何が起こったのか、何が起きているのか。アリソンには、やはり、何度考えても何も分からなかった。

 だから、問うしかない。例えそれが、どれだけ愚かな行為だったとしても。 


「どう、して⋯⋯っ!」

「どうして? それをきみが言うのかい? 魔人を庇った君が?」


 絞り出した問いに対し、レインナートはせせら笑って言う。同時に放たれた殺意に、アリソンは「ひっ」と悲鳴を洩らす。今まで生きてきた中で初めて浴びる感情に、頭が余計についていかなくなる。

 彼から放たれる圧力に、アリソンはガタガタと震えながら本能的に後ずさろうとするが、そうするよりも早くレインナートの腕がアリソンを引き上げる。

 もちろん、それは立ち上がらせてやろうなどという優しさから来るものではない。

 それが、自分をより恐ろしい地獄へと突き立てるための手だと理解した瞬間、アリソンは身をよじって悲鳴をあげた。


「ひ⋯⋯っ!? ゃ、やだ⋯⋯っは、はなして! はなして、ください⋯⋯っ!」

「それは出来ない。君にはちゃんと、自分がしたことの意味を知ってもらわなくては」


 レインナートはアリソンの肩を後ろから掴むと、部屋の中がよく見渡せるよう扉の前に立たせる。

 そこからは、本当に部屋の中がよく見渡せた。重なるように倒れた両親も、磔になったイグニスも、そして胴から真っ二つに斬られたルノーも。


「どうして、と言ったね? そんなの、君のせいに決まっているだろう? ほら、よく見るんだ。君が魔人を庇うから、君が魔人をちゃんと殺せないから、彼らは死んだんだ」

「ぁ⋯⋯っ」

「君のせいなんだよ、全部」


 どこか恍惚さを帯びたレインナートの囁きは、アリソンの混乱した頭の中に麻薬のように染み込む。


 ──全部、私が悪い。私のせいで、家族は死んだんだ。

 弱った心に、その考えは恐ろしいほどよく馴染んだ。


「私のせいで、みんなが死んだ⋯⋯?」

「そうだよ。だからほら、罪を償わないと。いくら頭の悪い君でも、今度はちゃんと出来るだろう?」


 アリソンが取り落とした短剣を、レインナートは黒いローブの少年に拾わせると、それをアリソンの力の抜けた手に握らせる。


「さあ、一思いに首に突き立てろ。それで罪の贖いはようやく為され、君たちの罪は洗われる」


 アリソンは両目から涙を流しながら促されるまま、ふらふらと頼りなく揺れる手で握った短剣を、自らの首に持っていった。

 そうして柔らかな肌へと刀身を突き立てようとしたその瞬間、家を包んでいた炎の一部が不自然に膨れ上がり、アリソンの肩に添えられたレインナートの手へ一直線に走り出す。


「ッ! おっと⋯⋯まだこんな力を隠していたとはね。手負いとはいえ、魔人らしい生命力だな」


 熱風に煽られながらも、レインナートは一点のみを睨みつける。

 その視線の先にあるのは、支えを失って床に座り込んだアリソンではない。彼はただ、磔になっている無力なはずのイグニスを一心に睨みつけていた。


「そんなになっても、まだ炎を操れるなんて称賛に値するよ。まあでも、その杭は君の炎では焼けないだろうね。何せ、君たちの天敵オリハルコンの欠片で出来ているんだから」

「彼女を放せ、レインナート⋯⋯! 無関係の人間を躊躇なく斬り捨てるなぞ、貴様それでも勇者なのか!」

「ははっ! 魔人が勇者の在り方を語るなんて、随分ふざけた真似をしてくれるね。まあいい、そんなに言うなら、お前から始末してやるよ」


 言うが早いか、レインナートはアリソンを躊躇なく足蹴にする。

 ブーツのつま先で蹴り飛ばされ、咳き込むアリソンを顧みることなく、彼は身動きを取れないでいるイグニスの首に刃を当てる。

 純白の刀身は禍々しい血の色に染まり、刃の先からは血と肉片──おそらくは両親とルノーの──が滴っている。しかし赤黒く染まろうとも、刀身からはレインナートの激情に呼応するように、青白い光が放たれている。

 それを見て、アリソンの脳内をふいにある一節が過ぎる。


 ──神に選ばれし勇者のみが扱えるという、王家に伝わる伝説の聖剣フォルティス。その刀身は、この世のどんなものよりも純白で、放たれる穢れなき光は、世の理に仇なす存在を灰と化すであろう。


 英雄譚にあまり興味のない自分だったからこそ、今更そんなことを思い出したのだろう。この場にいるのがジョアンだったなら、あるいはルノーだったなら、きっともっと早くに気がつけたはず。


「本当に、勇者様なんだ⋯⋯」


 まるで御伽噺の中の場面みたいだ、とアリソンは思った。これが神父の語る物語ならきっと、悪の魔人が死んで万々歳なのだろう。

 でも、これは御伽噺じゃない。

 御伽噺や英雄譚に興味のないアリソンでも、御伽噺がこんなにも血生臭い、無辜の血で彩られたものでないことぐらいは知っている。


「くッ⋯⋯何をしている。なぜ殺さない!?」


 イグニスの怪訝そうな声にハッとして顔を上げると、レインナートはまるで品定めでもするかのように、手にした聖剣でイグニスの肌をなぞっていた。少し力を入れるだけで身体が切れてしまう、あんな刃物が肌の上を這いまわっているだなんて、想像するだけでも恐ろしい。

 イグニスの言葉に、レインナートはなぜか笑みを浮かべると、ようやく品定めを終えたのか剣を勢いよく振り上げると同時に答える。


「そりゃ、一撃で潰しちゃつまらないからに決まってるだろ!」


 グシャアッ、と嫌な音を立てて聖剣がイグニスの右腕を切り落とす。

 裂かれた傷口から噴水のように血が吹き出して地面に降りかかるも、切られた右腕は地面へ落ちることはない。光を寄せた集めたような杭で壁に打ち付けられているせいだと、少しの間を置いてから脳が理解する。

 ぐらりと傾いた右肩と、縫い付けられたように微動だにしない切り落とされた右腕、そして地面に出来た血溜まり。恐ろしい光景を前に、アリソンは声を殺して震えるほかない。


「ッぐぁ⋯⋯!」

「あっははははははっ! ほらほら、ご自慢の再生ができない気分はどうだい?」


 遅れてきた痛みに呻くイグニスを見て高笑いをしながら、レインナートは壁に打ち付けられたままの右腕にダンッ、と勢いよく剣を突き刺した。

 聖剣に刺されたイグニスの右腕はみるみる内に石へと変わり、最後には弾けるような音を立てて、灰と化す。


「浄化の力⋯⋯」


 思わず呟いたアリソンに、レインナートは向き直ると「正解だよ」と言って恐ろしいほどに優しげな微笑みを浮かべる。


 伝説の聖剣フォルティスは、穢れた力を浄化し、魔人を殺せる唯一の武器である。

 選ばれし者、勇者たるにふさわしい証を持つ人間だけが扱えるという、輝かしく清浄な剣だと伝え聞いていたが、いざその凄まじい力を目の当たりにすると、神々しさや感動よりも、忌避と畏怖の感情を覚える。

 ありとあらゆる物を無と化していく光の剣と、その剣に選ばれた英雄。

 ゆえに、それを得たレインナートは間違いなく、この世でたったひとりの勇者なのだろう。


「忌々しい剣め⋯⋯なにが聖剣だ、なにが勇者だ! 貴様ら人間は、いや、レインナート、貴様は! 一体どこまで殺戮を重ねれば気が済むのだッ!」


 右腕を切り落とされてなお、イグニスはレインナートを見据えると気丈に叫ぶ。

 だが、よく見ればそれが虚勢であることはすぐにわかる。聖剣によって切り裂かれた腕の断面は徐々に石に変わろうとしており、このまま侵食が進めば、やがて全身が石をなるであろうことは想像に難くなかった。


「⋯⋯随分と言ってくれるね? 化け物ごときが」

「ハッ、貴様のような人間の方がよっぽど醜い怪物だろうが。勇者よ?」


 吐き捨てたレインナートに、イグニスもまた嘲笑を浮かべて返す。

 明確な窮地に立たされながらも一歩も引かないその姿勢に何を感じ取ったのか、レインナートの目がほんの一瞬、不気味な光を帯びる。


 そして次の刹那。

 聖剣の一振りで放たれた衝撃波が、魔人の左腕もろとも、家の壁をまるごと薙ぎ払い、吹き飛ばした。


「──ッがぁあああああああああ!!!」


 あまりの痛みに、魔人は咆哮する。

 けれども、そんなことではもはや勇者は止まらない。


 次の一振りで、魔人の右足が切り裂かれる。

 その次に、残った左足が千切られ、聖剣の光に焼かれて灰となる。

 

「ひゃはははははは!!!」


 両手両足を失い、地面に転がった魔人を踏みつけ、高笑いしながらレインナートは彼の腹を切り開き、その状態のままグチャグチャと剣を左右に揺らす。

 その度に、痛みで暴れる魔人の様子を見せ物に、彼は引き続き急所を避けた攻撃を繰り返す。


 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度でも──肉を切り裂いていく。


 彼はもう、アリソンの存在など目に入っていない。

 もしもアリソンが逃げるならば、今この瞬間をおいて他に無かった。恐らくはイグニスも、それを望んでいたのではないだろうか。


 だが──


「も、もうやめてぇえ⋯⋯!」


 もう魔人とも言えないほどに凄惨な有様になった肉塊の前に、アリソンは立ち塞がった。



◇◆◇



 未だ足腰が立たず、地面を這って移動してきたアリソンは、聖剣を振りかぶったままの姿勢でいる勇者を、精一杯の勇気で真っ直ぐに見つめ返す。

 人間よりも強靭な体を持つためか、意識を正しく保ったままでいる肉塊、いや、イグニスが、アリソンに何かを伝えようと身動ぎする。

 自分を押しのけようとするかのような、けれどあまりに弱々しいその動きに、アリソンはとうとう覚悟を決めて口を開く。


「もう充分じゃないですか⋯⋯っこんなにボロボロで、死んだも同然で⋯⋯! 私の家族まであんな風に殺しておいて、これ以上イグニスさんをわざと痛めつける必要なんてどこにもないはずでしょう⋯⋯っ!?」

「⋯⋯は?」


 ピクリ、とレインナートの眉が不機嫌そうに歪められる。それと同時に、背後で蠢く肉塊の、アリソンを押しのけようとするような動きが強まるも、それを無視してアリソンは両腕を広げ続ける。

 明らかに魔人を庇う挙動に、レインナートは鼻で笑う。


「あっはははは!! あれだけ否定していたのに、とうとう尻尾を現したね? やはり君たちは魔人と共謀していたんだ、トマスの情報通りだよ! ⋯⋯うん、でもね、きみは彼の後なんだよ。だからどいてくれ。まだ痛めつけ終わってないんだ。浄化されるまで、できることはまだ沢山あるんだからさ」


 ──トマス。

 聞き慣れたその名にアリソンの瞳が僅かに揺らぐが、もはやレインナートの言葉の意味を考える力もない。アリソンはもう、気力だけで選ばれし者に立ち向かっていた。


「⋯⋯ません」

「うん?」

「いたずらに人を嬲るようなあなたに⋯⋯っ! 世界を救う勇者の名前を背負う資格なんかない!!」


 深呼吸をしたのち、震えたままの声でアリソンは叫んだ。

 死ぬことはもう、怖くなかった。むしろ家族のもとへ行けるのならばそれでもいいと、アリソンは自暴自棄でなく、歪められた人力でもなく、ただただ心から思った。


 息を呑んだのは、イグニスか、それともレインナートか。

 叫び終わり、肩で息をするアリソンは、ただその時を待つように目の前の、勇者と呼ばれた男を真っ直ぐに見つめる。


「はは⋯⋯罪人なんかにそんなことを言われるとは、とんだ屈辱だね。ますます君を殺したくなったよ」


 殺気を込めたレインナートの声に竦みながら、どうせ死ぬのならばと、アリソンは勇者の顔を正面から見据える。


「もう、いいじゃないですか! もうこんな、こんな⋯⋯絶対に助からない怪我をしているのに、そんな、苦しんでる姿を楽しむなんて⋯⋯あなたは最低です!」

「ハァ⋯⋯やれやれ、分かってないね。いいかい? 魔人は人間の脅威なんだよ。俺がこうして彼や彼に与する君たちを嬲り殺すのは、勇者として当然の、褒められるべき行為なんだよ。あろうことか、そんな馬鹿みたいな理由で糾弾される謂れはないんだよ」


 細められた目が、アリソンを射抜く。彼が持つ剣と同じぐらい鋭い目線に、恐怖で震えたってなんらおかしくはない。けれど、もう震えない。

 怒りとも悲しみとも、憎しみとも嘆きともつかない何かが、確かにアリソンを支えていた。


「確かに、魔人は全体で見たら人間の敵なのかもしれない⋯⋯でも⋯⋯!」


 確かに、魔人は人間の敵なのかもしれない。

 アリソンが見ていないだけで、本当はもっと恐ろしい姿をしていて、人間を喰らう化け物なのかもしれない。イグニスが炎を放ち、レインナートの意識を自分の方へと移したのだって、そう見えただけで別にアリソンを助けたつもりじゃなかったのかもしれない。他に考えが、或いは作戦があったのかもしれない。

 世間的に見ればレインナートが正しくて、知らなかったとは言え魔人を庇ったアリソンたちは死んで当然なのかもしれない。虫けらごときが勇者の行動に口を出すなんて、死罪なのかもしれない。


 だけど、例えそうだったとしても。だからこそ譲れない思いが、虫ケラ同然のアリソンにはあった。


「だからこそ、いくら敵だからって抵抗のできない人を痛めつけて、そんなことを楽しんでいる人のことを黙って見ているわけにはいきません! それが勇者様なら、なおさら⋯⋯こんなこと、絶対に、絶対に、間違ってる⋯⋯!」


 全身の力を込めて叫んだアリソンを、誰もが見つめていた。

 聖剣を振りかぶったままのレインナートも、そして、アリソンの背後でうごめく血だらけの肉塊も。

 何の力も持たないアリソンが、敵である魔人を庇い、勇者に刃向かった。その真実は今、誰の目に見ても明らかなものとなった。

 立ち上がることもできないほど気圧されながら、為す術もないくせに、魔人の前に立ちふさがったアリソンに何を思ったか、レインナートは剣を振り上げたままの姿勢で、じっとアリソンを見つめていた。

 アリソンの背後で身動ぎしていた肉塊も動きを止め、すべてが静止した部屋の中、無力な村娘と勇者の視線が交わる。

 

 方や、王国全土に名を知られた選ばれし英雄。

 対するは、辺鄙な農村で生まれ育った何も持たない村娘。


 永劫にも感じられる時間を終わらせたのは──レインナートだった。


「⋯⋯君、本当に苛つくなぁ」


 振り上げていた聖剣をゆっくりと下ろし、彼は俯くと、静かな声で言った。


 片手に剣を握りしめたまま、レインナートは静かな声でそう言った。

 凪いだ風のように、淡々としたその口調は先ほどまでと違い、明らかな敵意も侮蔑も込められてはいないはずなのに、彼の声が落ち着いていれば落ち着いているほど、アリソンは体から力が抜けていくのを感じる。

 力が抜けていくのは、安堵からではない。

 どうにもならない諦めからだ。


 もちろん、最初から叶うなどとは思っていない。

 理不尽と言っていいほど、降って湧いた殺戮。家族は死に、そして殺戮者は無抵抗の怪我人をいたぶる。

 それを、止めたかった。

 たとえ敵だったとしても、わざととどめを刺さず、弄ぶように切り刻むことが許せなかった。

 そして、最期の瞬間までイグニスの身を案じていたルノーなら、きっと同じようにすると信じていたから。


 聖剣を下ろした彼は、一切の感情を削いだ目で自分を見つめている。そこには慈悲も容赦も、敵意すらない。

 道端の石ころを見つめるような目線に、思わず身体が戦慄する。


「もう君からでいいや。さっさと死んでくれるかな? あんまりこういうことは言いたくないんだけど⋯⋯ほら、差別的なのって良くないだろう? でもね、君が罪人であることを差し引いても、こんな片田舎で暮らしてる村娘ごときに偉そうに説教されるなんて、もう耐えられないんだよね」


 レインナートの言葉に呼応するように、聖剣が光を放つ。あまりの眩しさに目が眩みながらも、アリソンはその輝きから目が離せない。

 アリソンを見据えたまま、レインナートは単調な動きで剣を振り下ろす。目の前の村娘ごときには、避けることなどできないとわかっていたからこその、安易なやり方だった。


 ──お父さん、お母さん、ルノー。守れなくてごめんね。ダメなお姉ちゃんでごめんね。今行くから、私のことちゃんと叱ってくれる?

 家族の名前を呼び、ぎゅっと目を閉じたアリソンを、柔らかでぬめった何かが押しのける。

 あまり心地よいとは言えないその感触に違和感を覚える前に、アリソンの体はそのぬめった何かに押された衝撃で、思いもよらないほど後ろに吹き飛ぶ。床を滑り、這いつくばったアリソンの顔に何かがべちゃりと付着する。


「⋯⋯え⋯⋯?」


 恐る恐る目を開いたアリソンの前で、聖剣が肉塊に──否、イグニスに、突き刺さっていた。

 レインナートが緩慢な所作で剣を引き抜くと、赤黒い血が辺り一面に飛び散ると同時に塵と化していく。

 アリソンは震える手で、頬を拭う。

 拭い終えた手は、血と塵に塗れている。


「う、うそ⋯⋯どうして、そんなになってまで⋯⋯っ!」


 自分を押しのけたのがイグニスだということに気づき、アリソンは何度目かわからない「どうして」を発した。聖剣を引き抜いたレインナートは、のろのろと彼を見上げたアリソンと目が合った瞬間、目を限界まで見開いた。

 ひっ、と引き攣った悲鳴が洩れると同時に、髪を掴み上げられ、首筋を剣で愛撫するように撫で付けられる。合間に「動くな」と言われたが、そんなことを言われなくてもアリソンは動けなかったに違いない。少し身を竦めるだけでも切っ先が逸れて、首を容赦なく抉られただろうから。


「⋯⋯ホント、どうしてくれるのさ。あの魔人、今ので死んじゃったじゃないか。まだまだいたぶり甲斐があったって言うのに⋯⋯俺の楽しみを奪うだなんて、君、どこまで邪魔をするつもりなの?」


 先ほどまでの感情的な姿はなりを潜め、ただ静かで凪いだ狂気が漂う彼の目に、歯がガチガチと鳴る。

 自分は殺されるのだと、先ほどまでは思っていた。けれどそれは違った。甘かったのだ、()()()()()()()()()()()()()()()()()


「そうだな、うーん、人間相手だから手加減してやらないとね。まずは⋯⋯うん、左腕にちょっと切れ込みでも入れようかな?」

「ッぃやぁあああああああ!! ぁア、ひぐっ、い、いた、いだアぁあッ⋯⋯!」


 ずぶり、と沈み込む音と共に切っ先が僅かに腕を切り裂く。パクリと傷口が裂けたそこを左右に動かされ、想像を絶する痛みにアリソンは絶叫する。その悲鳴にレインナートは眉をひそめるとポツリと呟く。


「⋯⋯さっきも思ったけどさ、君って意外と声がうるさいよね。夜もそんな感じなのかい?」


 すっかり血で染まった己の恰好を改めて見下ろしたレインナートは、汚れきったスカーフをアリソンの口に放り込む。嘔吐いたアリソンを見ても、彼は何ら感情が動く事はない。

 止めどなく流れ続ける涙も、切り裂かれる痛みも、狂ってしまいそうになる悲嘆も、何ひとつ、彼に届くことは無いのだ。


「どうせなら、模様でも刻むとしようかな?」


 楽しい悪戯を思いついた子供のように、彼は笑う。

 駄駄をこねる利かん坊を宥める母親の声色で、後ずさりをするアリソンを捕まえたレインナートは、さっそくその悪戯を実行するために剣でまた、彼女の柔らかな皮膚に切れ目を入れていく。


「んー、今回はフォルティスの模様にするかなぁ?」

「ンぅう! んん、んぅウウ──ッ!!」

「いや、魔人の味方なんかする奴にはそりゃ勿体ないよね。やっぱり罪人らしく、気味の悪い紋章にでもしようか。ちょうどデザインセンスを磨きたいところだったし、実験台になってくれよ。君のような罪人には身に余る栄誉だろう?」


 ブツブツと独り言を続けるレインナートに地面に押し倒され、左腕を切っ先でひたすらに抉られ続けられ。止むことのない痛みと口に詰められた鉄の味に、意識が徐々に遠のいていく。

 脳裏に浮かぶのは両親と弟の笑顔、そしてあんな肉塊になってまで庇ってくれたイグニスの姿。彼らはもう、どんなに手を伸ばしても届かない場所にいってしまった。


 レインナートの乾いた笑い声を最後に、アリソンの意識は闇に飲まれていった。



◇◆◇



 コンコン、と控えめに響いたノックの音にレインナートは顔を上げる。半壊したドアをご丁寧に叩いたのは、今回の作戦に連れて来ていた仲間のうちの一人、ニーナだった。

 白い修道服を着た、明るい茶色のボブカットの髪の彼女は、遠慮がちに入り口から部屋の中を覗き込んでくる。入っても良いよと手振りで示し、レインナートは掴んでいた玩具を手放す。ゴトンと音を立てて地面に転がったそれに目をやることなく、ニーナのほうを見やると、何故か彼女は顔を真っ青にして立ち尽くしている。

 控えめなのは美徳だが、ここまでくると面倒臭い。舌打ちしたくなるのを堪え、「どうしたの?」となるべく優しい声を作って問う。


「あ、あの、セネカさんが、もうそろそろいいか聞いてこいって⋯⋯」

「セネカが? うーん、あんまり待たせるのも良くないか。分かった、じゃあもう燃やしてもいいって伝えてきて⋯⋯いや、俺も降りるから一緒に伝えに行こうか」


 地面に転がった玩具は、もう壊れている。わざわざトドメを刺す必要もないだろうと判断し、立ち上がり聖剣を軽く振ると、血と肉片に塗れていた刀身が純白の輝きを取り戻す。

 女神の加護とは、便利なことだ。おかげで血が溜まって鞘から剣が抜けなくなるなんてこともない。


「あ、あの⋯⋯どうして、この家をそのまま焼いたらダメだったんですか?」


 ニーナを伴って階段を降りると、普段自分から話しかけてこない彼女にしては珍しく、そんなことを聞いてくる。


「そりゃ、パフォーマンスのためだよ」

「ぱ、パフォーマンス?」

「うん。この辺の田舎だと魔人どころか魔物も見たことがない奴も多いからね。魔人がどれだけ恐ろしい存在なのか、あえて見せておく必要もあるだろう?」

「で、でも、この火は魔人じゃなくてセネカさんの魔法で⋯⋯」


 珍しく食い下がるニーナに、レインナートは足を止めて、二段上にいる彼女を見上げると微笑んだ。


「だから、なんだい?」

「そ、それは⋯⋯」

「重要なのは、この燃え盛る家を見た他の人々がどのように思うか、そしてどのように広めるかだよ。魔人が家を丸ごと燃やすほどの炎を操っていた、だけどそんな恐ろしい魔人を俺が──勇者レインナートと、その仲間たちが倒した。それでいいじゃないか」

「⋯⋯」

「後で目くらましの魔法が解けたら、人々は目にするよ。業火に包まれる家と、その焼け跡に佇む英雄たち(おれたち)の姿をね」


 俯いた彼女は、それきり言葉を発しない。だからレインナートもそれ以上何を口にすることもなく、さっさと階段を降りて外に出て行く。

 残されたニーナは、ぎゅっと両手を胸の前で握ると、上の階を振り返る。


 ニーナには、難しいことは分からない。そもそも栄誉ある勇者一行の一員に加わることになったのも、聖都の神官たちに「女神が使わした聖女だ」と言われたからだった。それまでは魔物と戦ったこともない一般人で、レインナートの言う「魔人どころか魔物も見たことがない人間」の最高のサンプルであると言っても良い。


「あの人、まだ生きてた⋯⋯よね」


 部屋の中を覗き込んだ時のことを思い出すと、吐き気が込み上げてしまう。地面に転がっていた人は、自分とさほど歳の変わらない少女のように思えた。それがあんな目にあうだなんて。

 自分の「治癒術」ならば、きっとあの惨たらしい傷も治るはずだ。そう思った次の瞬間、ニーナはレインナートの血に染まった剣を思い出して身震いする。


 ──だめ! そんなことをしたら、今度は私が殺される!

 ニーナは振り切るように二階から目を逸らし、階段を駆け降りる。階下から家の外に出ると、黒いローブの少年とレインナートが彼女を待っていた。黒いローブの少年セネカは、不機嫌そうにフードの下から彼女を睨みつける。


「ちょっと、遅いんだけど。中で何してたの?」

「ご、ごめんなさい⋯⋯」

「ごめんなさい、じゃなくてさあ。こっちは何してたのかって聞いてるんだけど? なに? 人に言えないようなことでもしてたワケ?」

「そのぐらいにしておくんだ、セネカ。そんな怒るようなことでもないだろう? さあ、仕上げと行こうじゃないか。君の得意な魔術で、派手に吹き飛ばしてくれ。しっかりと燃え尽きるようにね」

「ヒヒッ、分かってるって。あの汚物共が少しでも残ったら、他の村の人たちが可哀想だもんね。それじゃ、行くよ──」


 嬉々として火の魔法を発動するセネカとそれを見守るレインナートの隣で、ニーナはなんともいえない気持ちで跡形もなく焼けていく家を見ていた。




最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

しばらくじめっとした展開が続きますが、次も読んでもらえたら嬉しいです。


次回更新日:10/29予定

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